No.10

生活リズムの大切さ

昨晩は少し自分のことをやりすぎてしまった。パソコンの前に座りポチポチとホームページをいじっていた。これは永遠にできてしまうのである。好きで始めたことは強い。方向性が見えているからその為に必要なことが良く見えている。日ごろ目にするものがすべて自分の仕事に活かせるかのようにアイデアも湧いてくるので止まらないのだ。

明暗の変化の無い夜は危険

さらに言えば、夜の19時以降は好きなことをやる上ではゴールデンタイムだ。おそらく、外の光の強弱が夕闇によって変化することなく、何かに追い立てられることがなくなるからではないだろうか。

仕事≠嫌いなこと

19時以降の作業は危険だ。ここでは、仕事という言葉をあえて使わない。仕事という言葉の中には、これは時代の問題かわからないけど、ネガティブな意味が入ってしまう。嫌いなことをやり続けている人みたいで嫌だなと思うから仕事という言葉を使うことを避けたいと思う。

家族は感覚としての他人

さて、自分の中で消化しきれないこととしては、家族であれば、相手の気持ちを汲んでいるという幻想が自分の中から消えないということだ。
恐らく、家族は、感覚としての他人になっている。意図は意識せずとも伝わる存在が家族というもの、親というもの、子供というものとマインドセットされてしまっている。

近いからこそ故のズレ

過ごす時間が長いからこそそのように思い込んでいるのかもしれない。
しかし、時間が経過すればするほど、感覚的に接する範囲は広域に広がっていく。とはいえ、相手との感覚は完全に一致しない。感覚の不一致は、ストレスになってしまう。広域にいけばいくほどずれは広がり一緒にいるとストレスになる。ずれているからストレスを感じるのだ。ここまでは、自然に起こりうるストレス発生の流れだと思う。

そもそも他者は自分を理解していない

この流れを断ち切るためには、そもそも理解されていないという立場に立つしかないと思う。理解されていないのだから、説明をする。それで良いのだともう。意図をちゃんと伝える。のも大切なのかもしれない。

抽象論よりも日ごろの雑事(具体)でストレスが生じる

ストレスを感じやすいのは、家事の分担になるだろう。家族だから、やってて当然でしょう。家族なんだからやってあげて当然でしょう。といった感じがあるが良くない。すべては自分がやるべきことという立場に立つべきだ。逆に、自分のことをやっていただいたら、感謝しかない。そういった捉え方をする。やってもらってなくて当然なのだ。だって、全ては自分のことでしょ。それでいいのだ。相手のことも全て自分のことだと思って何事も捉えるべきだ。もっと言えば、やりたくないならやらない。そう明言すべきである。中途半端に相手に察してもらおうなんて言うのは、時間の無駄だ。意思を明確に示すことが大切だ。近い存在だからこそ。

家族は幻想

家族という言葉は幻想だ。基本は、個人個人が自立して振る舞う。これは、大人も子供も関係ない。この世に生まれてきた人間のデフォルトの姿勢だ。基本は自立しなければならない。自立できないから、人の助けを得る。助けてもらってありがとうの気持ちを持つ。それくらいの感じで生きていく。

全く別の話として

カフェに置いて一番大切なことは、温度だ。

できる限りぬるい場所を陣取るのが良い。涼しいところは長居すると必ず体が冷える。冷えてくると寒くて集中できない。更に、冷えると尿意が高まる。すると、その場にいられなくなる。

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