No.14

ネガティブな自分を好きになる方法

ついついネガティブなことを書きそうになる自分が嫌だ。
なぜ嫌だと思うのだろうか。嫌なことが見つけられるのは寧ろ大切なことだ。嫌なことを変えれば状況は良くなるからだ。何かを嫌なことを見つけることと、何かを変えることは常に対になっているべきだ。

嫌なら変えちゃえば良い。

しかしここで更に、嫌いな自分に会う。

誰かに褒めて欲しい自分が嫌い

変えるという行動を誰かに見てもらい、褒めてほしいという感情が湧き上がるのだ。この感情は至極真っ当な感情なのだと思う。
しかし、褒めてもらうことがベースにあることが卑しいと思ってしまう。
正確に言えば、褒めてもらうことも。「も」だ。
そもそも嫌なことを変えて、居心地を良くしたいというのは嘘ではない。

こうやったら承認欲求は抑えられるのではなかろうか

褒めてもらいたいという感情をなくすためには、行動することへの自分の中での新規性をなくせばいいと考える。

自分の中で真新しいからどうしても人に伝えたくなってしまう。
子供を見ていると、大人からすると大したことではないが、彼らにとって、色々なことが真新しく、周りにその感動を共有しようとするところがある。

今の自分も状況は同じかもしれない。

真新しいことをやっている。だから共有して褒められたり、自分の立場を高めたいと考えてしまうのかもしれない。

一旦褒められちゃおう

褒められれば良いのかもしれない。褒められれば、その真新しいことは自分の中では既知の事象となる。既知と慣れば、その事象を次にやっても褒められたいなんぞ思わないかもしれない。実際、大人になって色々なことができるようになっているが、いちいち褒められたいなんて思わないことのほうが自然と多くなっている。

家事ができる。それを誰かから褒められても、当たり前のことに対して褒められて違和感を感じる。

どうせなら高すぎて理解されないレベルでいたい。コミュニティー内で褒められるのも程々に

褒められたい。そう思うことが、自分が所属するコミュニティでどの程度褒められるかで、そのコミュニティのレベルが分かる。逆に、やったことが褒められなければ、自分のレベルが高すぎて、誰からも理解されない。または、自分のレベルが低く、褒めるに値しない。そのどちらかだ。
ちょっと高いくらいであれば褒められる。高すぎると理解されない。

コミュニティー外に師を作る

一番いいのは、その組織に利害関係なく褒めてもらいたいと思える師がいることであろう。全体を褒められたら一番いい。しかしそれは親でも無ければ無理。いや親でも無理。親といえど他人に変わりない。一部であれば可能だ。自分の側面の一つひとつをとってみたら取るに足らないものであろう。取るに足らないそれぞれの要素において、自分よりすごい人が周りにはいる。その人にその要素に関して褒めてもらうのだ。

闘争心は疲れるかも

褒めてもらうというよりも、その人を抜き去りたい。そんな闘争的な想いもあるかもしれない。闘争的な思いは怒りの感情をうみ、疲れてしまう。できる限り、爽やかな風の中で、認められることを目指したい。

自分がやってみたいこと

難しいことを簡単に、抽象度高いワードで説明し、周りの人がやってみたら以外にできないようなことがしたい。結局、人と違う何かがしたい欲求が35歳手前でも抜けない。でもそれを原動力に色々な経験を積んでいく。歳と共にマインドは変わっていく。変化を恐れて、何もしないより、変化と対峙しながら少しでも、経験を積んで、歳をとったときに、多くのことを考える余裕のある人間になっていたいものだ。

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