しわくちゃのタクシーチケットが最高の肴になる日まで
どうでもいい話だが、僕はスマホのケースに失くすと困る物をぶち込むクセがある。
切符、整理券、お札、航空券、領収書。
とにかく、つい失くしてしまいそうな物は、スマホケースにぶち込むのだ。
僕は黒いiphone7を使っていて、ケースは透明なやつ。だから僕が切符やらお金やらをぶち込んでいると丸見えだ。おかげでどこに仕舞ったか忘れにくい。
だが、当然、他人の目にも留まることがある。
「それ、何入ってんの?」
くすんで黄ばみ始めた僕のスマホケースを指差して、頻繁に友人から尋ねられる物がある。
「これ?タクシーチケットだよ」
有効期限は2020年4月。既に切れている。そして僕が住む種子島には、このチケットが使えるタクシー会社はきっと無い。
要するに、ゴミだ。
でも、もう使えないこの色あせたタクシーチケットを見つめる度に、とある日の乾杯を思い出すのだ。
***
去りゆく者へ優しくすることには、どんな意味があるだろうか。
妻と種子島へ移住するために退職する意向を伝えたその時から、僕はほんのすこしだけ人気者になった気がする。お世話になった同僚や同期の友人たちから、労いの言葉と共に、沢山の送別会を設けてもらった。
ある時、思い切って上司のSさんに訊いたことがある。
「正直、僕の退職を止めようと思ったことはなかったんですか」
するとSさんは、
「嫁さんと将来を考えてのことでしょ。誰にも止めることなんてできないよ」
なんて粋な台詞なんだろうと思った。僕は、自分が恵まれた人間関係の中にいるということを、退職する時になって痛いほど実感した。
2人きりで飲むこともある上司のEさんには、会社のある新宿から永田町の蕎麦屋にまで連れて行ってもらった。
Eさんは僕の父より2~3個年下で、冗談が好きな人だった。
僕はもう最終出勤日を終えて、有給休暇を消化している時期だったけれど、Eさんは部下だった頃みたいに、関西弁で「飲もうや!」と、声を掛けてくれた。
永田町の蕎麦屋は田舎者の僕でも分かるくらい高級な店だった。「板わさってこれっぽっちなの!?」とか思いながら、小さい盃で乾杯して、ちびちび日本酒を舐めた。
Eさんはおしゃべりな方だけど、その日はいつもより口数が少なかったことを、よく覚えている。
僕は代わりに、柄にもなくおしゃべりになろうとする。
「種子島、遊びに来てくださいね。旨い焼酎用意して待ってますよ」
「俺は行かんな。遠すぎるわオマエ」
冷酒がキリリと口内に澄み渡り、3月の夜が少しだけ肌寒く感じた。
「もう1軒、行くやろ?」
僕の答えを待つ訳でもなく、Eさんとタクシーに乗る。Eさんと飲んだあとは、よく行きつけのスナックへ連れて行ってもらった。
新宿のなんとかってビルの3階だか4階にあるスナックで、乾杯はいつもウイスキーのロック。度数が高くて頭がぐわんぐわんすると分かっているけども、いつもこのボトルだ。
ご機嫌になったEさんの「勝手にしやがれ」を聴いて左右にゆらゆら揺れながら、ふたりしてついつい飲み過ぎてしまう。
そうして夜が更ける。
いつも通りの店。いつも通りのウイスキー。
それなのに、どこか少しだけ別れの気配を漂わせた2人の間には、見えない障子みたいな、薄い薄い気遣いの壁が出来ていることを感じた。
別れ際。
「浪漫飛行」を最後まで歌えないくらい酔ったEさんと僕は、エレベーターでふらふらと降りる。
視界から入る情報が騒がしい新宿の歓楽街を千鳥足で抜けて、明滅するタクシーがたむろしている道路沿いまで、無言で歩く。
Eさんは照れ屋で、くさい台詞を絶対に言わない人だったから、「元気でな」とか、「連絡くれよ」とか、そんな別れの言葉はくれなかった。
代わりに、ウイスキーに蝕まれておぼつかない足取りのまま、少し口元をほころばせてこう言うのだ。
「気ぃ付けて帰りや」
その手から、しわくちゃのタクシーチケットが渡される。
Eさんは振り返ることなくタクシーに乗り込み、麻布方面へ消えていく。
残された僕は、しばらくの間タクシーチケットを見つめて、そのしわをなぞる。
やかましいキャッチの声も、七色の広告の叫びも僕の耳には届かない。頭の中にはただ、Eさんと歌いきれなかった「浪漫飛行」だけ。
……僕はしわくちゃのタクシーチケットをスマホケースに仕舞う。
そうして、酔いが覚めるまで、どこまでもどこまでも、新宿の喧噪の中をひとり歩き続けるのだった。
***
Eさん、元気にしていますか。なぜだか僕の方も照れくさくなって、前職のみなさんにはほとんど連絡を取れていません。
あの時のタクシーチケット、ありがとうございます。結局、僕とEさんを繋ぎ止める大切なアイテムのような気がして、使わずにとっておきました。
次にお会いした時のために、僕はずっと、このしわくちゃのタクシーチケットをスマホケースに入れておきますね。
そして、この最高の肴で笑いながら、また乾杯しましょう。
この作品は、#また乾杯しよう のコンテストへ応募しています。
いただいたサポートは、プレゼントで誰かを爽快な気分にするために使います。