その炎が照らすのは、大地だけじゃなくて。
焚き火が好きだ。
鹿児島県の離島、種子島に住む僕は、穏やかな天候の日なんかには稀に小さい焚き火をする。着火するときぼうぼうと盛んに燃える木々は、落ち着いてしまうと実に大人しい。パチパチという音もほどほどに、じっと静かに、赤々と辺りを照らす。
火はあたたかい。そして明るい。この仄暗い雰囲気が好きだ。本来、ある程度闇に包まれているはずの庭が、自然な赤さによって視界を確保されている。この弱そうで消えそうな空間が愛しい。僕は火の明るさが好きだ。火は明るいから闇を照らすことができ、ゆえに無から有が生まれる。
すっかり明るい昼に火を焚いても、そこまで面白くない。良いと言えば良いが、僕は闇を照らすからこそ火が好きだ。
☆
種子島に聖火が来ると聞いたのは、恥ずかしながらその前日のことだった。え、来るんですか。と間抜けな反応をしていたと思う。まさかこの島に来るとは思いもしなかった。そのくらい離島に来ることは意外だったし、それを差し引いても、そもそも僕は聖火リレーへの関心がなかった。オリンピック前の単なる催しとしての意味しか、辞書にはなかった。
聖火は、僕の住む中種子町のお隣、西之表市というところを走る。町役場の広報担当の方と、一緒に取材に行くことになった。このとき、「面白そう」とは、僅かにしか思わなかった。
折角取材に行くからには、予定されていることくらいは予習しておきたい。そこで、種子島を走る距離を調べると、たったの2.3km。予定時間にして35分。短い。短すぎる。試しに僕が小学生の頃にチャリでしょっちゅう行っていたツタヤまでの距離を調べたら、3.5kmだった。
実家傍の公園からツタヤ(3.5km)
小学生がツタヤに行くより短い距離を、この種子島では18もの区間に区切る。ひとり当たり127メートルだ。鈍足の僕でも20秒あれば走り抜けられる距離を、トーチを掲げてワイワイと走るのだ。これを調べ始めたあたりから、聖火リレーという催しが面白くなってきた。オリンピックはスポーツの祭典。スポーツと直接関係ないこの催しを、なぜここまでしてやるのだろう。そして、どうして多くの人々の心を惹き付けるのだろう。
ときめき始めた気持ちを抑え切れず、翌日の天気予報を見た。
曇一時雨。気温は充分だが、降水確率は50%となっていた。曇りで良かったと思った。僕は暗い中で輝く火が好きだから。カンカン照りの太陽の下なら、その明るさが分からないかもしれない。雨は降らずに、どんよりと暗い天気がいいなと思った。
☆
当日の朝。天気は曇り。良かった。暗ければ火がしっかり見えるかもしれない。
聖火はこのルートを走る。12番から29番まで、北から南にリレーしていく。
僕が取材するのは、18番から走るこちらの少年。福岡県在住で、応募動機を見ると、おばあちゃんが中種子町に住んでいるらしい。
(画像出典)東京2020オリンピック聖火リレー鹿児島県実行委員会選定ランナー自己PR・応募動機・第三者の推薦
中種子町にゆかりのあるランナーということで、僕はこの少年の勇士を撮ることになった。他に、聖火ランナーのすぐ後ろを走行する「サポートランナー」なる子どもたちもいるようで、僕の住む中種子町からは中学生の牧瀬裕都さん・赤坂海利さん、小学生の山口柚希さん・中島望音さんら4名が走ることとなっていた。
取材は僕と広報担当の2名。二手に分かれて、それぞれの場所にカメラを持って待機する。
10時20分。交通規制が始まり、一帯が車両通行禁止となった。辺りには島民が集まり始めて、マスクをしている以外は、まさに4年おきにテレビで見たことがある聖火リレーの様相だ。
開始まで時間を持て余す僕。おそらくだが、目当ての少年がここを走るまで、あと50分ほどあった。
「127メートルを歩くのに、どれくらい時間がかかるんだろう」
ふと思った僕は、少年が聖火を受け取ってから走る127メートルを、同じように歩いてみた。
ストップウォッチを押して、普通に歩行する速さで歩いてみる。
予定された127メートルは、たった1分32秒で歩けた。
この道を、この僅かな距離を、その手に聖火というものを持つだけで何が変わるというのだろうか。その少年にとって、一生に一度あること自体が奇跡というこの体験は、彼に何を与えるのだろうか。
ワクワクは次第に、不安が入り交じったものに変わってきた。ほんの一瞬、ただ信号待ちに通り過ぎる車を見るかのように、何の感情も抱けずに終わったらどうしよう。あっさりと、他人ごとのように過ぎ去ってしまうかもしれない。期待が大きく膨らむ一方で、予期せず空虚を目の前に突きつけられるのが怖くなっていた。
不安と裏腹に、聖火をひと目見ようと人は増えていく。
こんにちは~!と、曇天に負けない元気な声で小学生も訪れた。
こんにちはー!こんにちは~~!!
こんにちは~~~~~!!!!!!!
いや、小学生めっちゃ来る~~~~~~~~~!
隊列をなした小学生の紅白帽が沿道に並び、一気に迎え入れる側の温度が上がる。ついに、聖火が来るのだという雰囲気がふつふつと沸き立つ。
11時00分。出発地からリレーがスタートした筈だ。この場所からは見えないが、周りのザワつきから間違いはないだろう。手元でストップウォッチが示す1分32秒を消して、北を見つめて待ち構えた。
☆
遠くに連なる車両が見えた。バスには、次に走るランナーが乗っているらしい。みなの緊張が途端に高まり、近くに居たおじさんは、三脚に置いたカメラをしきりに構い出す。
ランナーを乗せたバスが目の前で停まる。僕がカメラを構える先には、ひとりの少年。彼が折戸少年だろう。中学生の彼はまだ幼いが、その目には大きな仕事をするという決意がみなぎっていた。思わずシャッターを切った。
そうしているうちに、前方に聖火を持つランナーの姿がはっきりして来る。
火が、好きだ。暗がりを照らす火が好きだ。聖火は、この曇天の中、僕の期待を超えて光っているだろうか。辺りを照らすだろうか。そればかりが急に気になってきた。
空を見上げる。今しかないというタイミングで、太陽は雲の切れ間から顔を出す。辺りが、日の光に照らされ始める。
トーチを持つ人の形が明らかになる。その持ち手の先には、赤い炎が、小さく光っていた。
(明かりは弱いかも知れない)
不安は確信に変わろうとしていた。はっきりと認識できない小さな光のまま、折戸少年へトーチキス。
その瞬間だった。
「っ……!がんばれっ……!!」
と、ひだり隣から小さく声が聞こえた。そちらを見ると、今度は後ろから聞こえた。次第にその声は、あちこちから聞こえる。大声での応援ができなくても、その思いを呟きに込める。ちらほら聞こえていた想いのカケラたちは、徐々に拍手と合わせて迫力を増していく。
「……がんばって!……がんばれ!!」
127メートルの距離を、少年はゆっくりゆっくり走る。その目は少しはにかみながらも、真剣に前を見つめる。
近くの小学生達も大声は出さないように言われているようで、めいっぱいの拍手をしながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
これは競技じゃない。勝ち負けもない。たぶん、失敗も成功も殆どない。アスリートじゃなくても歩ける距離を、割れんばかりの拍手が包む。少年は僕へ背を向けて遠ざかる。その姿を皆が拍手で見送っていく。聖火の明るさなど、既にどうでもよくなっていた。
僕は構えていたカメラを下ろす。種子島の空は既に晴れ始めていた。聖なる炎を遠くに見つめると、太陽に刃向かうように小さく光っている。その炎が照らすのは、大地だけではなかった。この小さな島に住む人々の心を、スポーツの祭典に期待する想いを、確かに照らしていたのだった。
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