ノウェルの亡霊

第一章 A piece of the dead runs far away.

死体配達の任務

「上半身は北へ、下半身は南へ頼むよ」

 中尉がそう言って、大きな袋を二つ、自分とマルクスに手渡した。片方を受け取ると、袋はずっしりと重かった。死体の半分が入っているのだ、当然である。 
 俺たちは敬礼し、声を合わせて中尉の命令を復唱した。

「は!上半身は北!下半身は南!」

 ちらりと横目でマルクスを見やる。初めての死体配達に緊張しているのか、手渡された死体袋の口を握りしめる手が、僅かに震えているのが分かった。その様子は、ぼんやりと思い出される配属初日の自分と重なった。

「ああ、方角さえ合っていれば、墓地は国営で構わんとのことだ。あとは任せた」

「は!」

 中尉が去るのを見届けて、俺はどさり、と袋を地面に下ろした。液体を透過しない、厚みのある特殊な袋の底には、血だか何だか分からないどろっとしたものが溜まっていた。黙ってこちらを見ているマルクスにも視線を送り、持っているものを下ろすように促す。マルクスは遠慮がちに、ゆっくりと丁寧に袋を地面に下ろした。

「マルクス、お前は軍に来て間もないと聞いたぞ。こんなに早く移動になるとは思わなかっただろう。確か、先週までは戦争跡地の清浄化任務についていたと言ったな。安心していい。死体配達は清浄化任務と違って放射能にやられることはない仕事だ。寿命が縮まることもない」

 新人の緊張を解こうと、冗談めかして俺は言った。

「はい、少尉。ですが清浄化任務も、死体配達任務も、軍の仕事である限り、自分は命を懸けて取り組む所存です」

 マルクスはにこりともせずにそう返した。どこまでも真面目な優等生といった感じだ。バディを組むならもう少し、砕けた奴が良かったな、と心の中で愚痴をこぼす。
 しかし、国家に仕える軍人に部下を選ぶ自由はない。任務は任務だ。俺は俺の仕事をしなくてはならない。

「じゃあ早速だが任務に取り掛かろう。と、その前に、士官学校で習っただろうが、少しこの任務について復習をしようじゃないか」

 少しでもこの新人と打ち解けるために、会話を設けることにした。仕事内容の復習と銘打てば、この物静かな若者も、多少は口数が増えるだろう。

「この死体配達と呼ばれる任務について説明してみろ」

「軍の死体分解班が、故人の魂の遺言に従って死体を分解し、その分解された死体が各配達班に渡されます。我々配達員の任務は、それを出来るだけ離れた墓地に埋めることです。墓地は国内に48カ所。その中で国営は8つあり、ザルツベク、インドルジア、ハリウサム、アポツキニ、カルミナツク、ミンパイ、カルーシア、マキスカルが、それぞれ東西南北に均等に別れて存在します」

 優等生らしく、墓地名がずらりと全て出てきた。墓地は国営の8か所を除き、後は民間の企業が経営しており、この国の一大産業になっている。まさに墓なくして、国家なし。死体なくして生者なし、だ。

「素晴らしい。が、一つだけ間違いがあるな」

 俺は毅然として言った。マルクスは予想外の指摘に釈然としない顔をしている。

「正確には、故人の魂の遺言と、当該故人の“総資産”に従って、だ。シビアだが、金は重要なポイントだ。俺たちの給料でもあるわけだからな」

 マルクスは俯いた。何か反論を考えているのか、自分を無理やり納得させようとしているのか。新人は往々にしてナイーブなものだ。生々しい金銭の話など、公僕たる軍人には無縁だと思っている節がある。俺はさらに追い討ちをかけてやることにした。

「現にこの死体を見たまえ。我々に本日託された死体は、たった二つにしか分解されていない。だがこの国の人間は、死んだ後、できるだけ小さく分解されることを望んでいるはずだ。そうだろ?この意味するところはつまり、彼には金が無かった。彼の財力では、自分の亡骸を二カ所の国営墓地に埋めてもらうのが関の山だったということだ」

 躊躇うことなく、台本でも読むようにつらつらと言い放つ俺に、マルクスは何も言い返す気はないらしい。彼の視線は、地面に置かれた二つの袋にただじっと向けられていた。無造作に置かれたそれらの中身は、防腐処理を施されているため、しばらくは臭わないようになっている。それなのに死体袋というやつは、匂いのしない死臭のような、ただならぬ気配をまとっているのだった。

「では次の質問だ。一体なぜ我々は死体を次から次へと、分解して運んでいるんだ?なぜ故人はそれを望んでいる?」

 マルクスは戸惑いの表情を見せた。質問の意図を分かりかねるというように眉間にシワを寄せ、こちらを上目遣いで伺っている。

「いいから答えてみたまえ、マルクス・フェリッツ二等兵」

 俺は、怪訝そうにこちらを見つめる彼の視線など意に介さず、上官らしい口ぶりで返事を催促した。

「はい、では…それが私たちの信じる正しい道だからです、少尉。この国の民は“ノウェルの防壁”を守っている。第六次世界大戦の最中、かつて少将だった軍人ノウェルという男は、敵国の奇襲に遭い、盲人になってしまいました。亡くなる直前、彼は暗闇の世界で一つの啓示を受けたと言います。そして、できるだけ自分の死体を細かく分解し、それを可能な限り離れた場所に、つまり国境付近のあちこちに埋葬してくれと、妻と数人の部下たちに頼みました。それで戦争が終わるから、と。中には正気を疑う部下もいましたが、結局、妻と部下たちはノウェルの遺言通り、彼の死体をできるだけ細かく分解し、銃弾飛び交う戦火の中、文字通り命をかけて、この国を端から端まで移動し、バラバラになった死体を埋葬していきました。そしてそれが終わった時から、この国の領土は一度も侵されることなく、やがて18年も続いた戦争が終結した。この国は戦勝国になった。これは平和を強く願った軍人・ノウェルに、天が与えた奇跡なのだと国民は解釈しました。やがてノウェルはこの国の神として讃えられ、私たちは神の行いに敬意を払い、そして神が作った見えない防壁を維持するために、その後に続いている、違いますか?」

 俺はしばらく沈黙し、ゆっくりと口を開いた。

「その通りだよ、マルクス。死体配達、名誉ある仕事だと思わないか?」

白い風見鶏から
八月の雨へ

ようやく此処へ来られるのですね。
手筈は全て整っております。
娘の具合なのですが、また悪化しているようです。私たちは早く計画を終わらせなくてはなりません。
あなたが無事に来られるのを、心よりお待ちしております。

北へ向かう列車

 線路の上を、ほとんど無人の列車が走っている。その最後尾の車両に、俺とマルクスはいた。やがて田舎げな風景が広がる見知らぬ駅に停車すると、年寄りが一人、同じ車両に乗り込んできた。車内アナウンスが途切れ途切れに流れ、扉が閉まり、列車はまたゆっくりと動き出す。
 もう半日近く、こうして列車に揺られている。大きく重たい死体袋と一緒に、遥か遠いこの国の北端を目指しながら。強い西日が車窓から差し込み、眩しさに景色を眺める目を細めたその時、窓際に座るマルクスの瞳が一瞬、薄緑に輝いて見えた。強い光のせいだろうか。列車のスピードに合わせて山々が流れていくだけの景色に、彼は集中しているようだった。
 しばらくして、一つ空けた向かいの席に座っていた老人が、こちらに視線を送っているのに気がついた。目があった老人は、にやりと不敵な笑みを浮かべ、大声で話しかけてきた。

「兄ちゃんたち、死体の運び屋だね?車両が匂うからすぐに分かったよ」

「ああ、死体ですからね、そりゃ匂います。悪いけど、気になるなら隣の車両に移動してください。我々はこれが仕事ですから」

 非難されているのかと思った俺は、平坦な口調で老人にそう返した。しかしそれを聞いた老人は、ガハガハと大口を開けて笑い出した。

「なあに、いやなもんか。死体の匂いが懐かしかっただけさ。私もかつて軍にいたんだ。第六次世界大戦も経験したベテランだよ」

「これはこれは、あの戦争の生き残りとは知らず、失礼しました。お名前を伺っても?」

「セブイムだ。生き残りといっても、私が軍に入った頃、もう戦争は終わりかけてたんだがな。ノウェルの死体があちこちに埋められ、まだ誰もそれに気づいていなかった頃さ。それに医学部出の私は軍医だったから、前線に出ることはなかったよ。兄貴は国境近くで殉職してしまったが、私はラッキーだった」

 セブイムはそう言って、少し悲しそうな顔をした。気丈に振る舞うこの老人が、俺の目には少しだけ哀れに映った。

「自分たちは、これから北のザルツベク墓地にこの死体を持っていくところです。そこで儀式を行い、シャーマンに、この上半身を埋葬してもらいます。」

 私は足元に置いていた死体袋を片手で持ち上げて見せた。本来、故人のプライバシーに関わることを赤の他人に教えるべきではないが、俺はこの老人ともう少し話をしていたくて、そんなことを喋り出していた。

「そうかい。その死体にかつて宿っていた魂の名は?」

「…ヒュエルゴとだけ書いてありますね。ファーストネームかサーネームかも分かりませんが」

 俺は袋に縫い付けられた依頼証を見て言った。ヒュエルゴに続く名前がないか、その下に付着していた汚れを親指で拭ったが、文字は出てこなかった。どうやらフルネームの記載はされていないようだ。

「ヒュエルゴ…」

 老人がふいに何か思い詰めた顔で、その名前を繰り返した。

「何か?」

「いや、どこかで聞いたことがある気がしたんだが、なんだったかな。私もいい歳だ。忘れっぽくて困る」

「享年54歳と書かれていますが、他には何の記載もないですね。身寄りのない方だったのかもしれません」

「そうか、ずいぶん年下だな」

 老人はそう呟くと、ぼんやりとした表情で、車窓に目を向けた。
 いつのまにか終点が近づいていた。俺たちは、そこからさらに別の列車に乗り換えなければならない。ふとマルクスの方を見ると、彼は俺の肩越しに老人の横顔を、目を見開いてじっと見つめていた。

「寝ているのかと思ったよ」

「まさか。自分は任務中に寝たりしません」

「そうかい。さあ、次で降りるぞ」

 そう言って荷物を担ぎ、間も無く停車する電車の中で座席から立ち上がったその瞬間、老人が大きな声を上げた。

「あー!思い出した…思い出したぞ!異端審問で拷問にかけられた男を診察したことがあったんだ。そいつはその後懲罰房送りにされた挙句、反逆罪に問われて軍を追われた。あれの名前がヒュエルゴだった。そう、ヒュエルゴ…ヒュエルゴ・マックマービル!ちょっとした事件だったから覚えてるんだ。待てよ…年齢的にはその死体と一致するかもしれん。あれは私が50くらいの時で、診察したマックマービルはまだ若かったからな。しかし、あいつは牢屋に入れられたはずだ。囚人に死体分解の権利はないはずだからな。やはりそいつとは別人…」

 老人はまだぶつぶつと何か言い続けていた。俺は“異端審問”という言葉にぎょっとしたが、すぐに老人の戯言だと思い直すことにした。そんな事件、もし本当に起こっていたら、軍で語り継がれ、自分の耳にも届いているはずだからだ。生憎、軍に異端審問がある話すら聞いたことはない。中世じゃあるまいし、そんな魔女裁判のようなこと、あるはずがなかった。しかし…一抹の不安を覚えた俺が老人に向かって質問をしようと口を開けたときだった。

「少尉、急いだ方がよろしいかと」

 後ろに立っていたマルクスが言った。その通りだった。列車はもう目的の駅に到着し、時計を確認すると、乗り換えの時間が迫っていた。急がなければ。俺は老人に向き直り、はっきりとした口調で告げた。

「この死体が囚人のものであるはずはありませんよ。囚人の死体は火葬され灰になり、海や川に流されます。墓に入ることすら許されないのですから」

 この国で、罪人が墓に入ることはありえない。下等な動物と同じように燃やされ灰にされてしまうからだ。亡骸を分解され、墓地に埋められるその名誉に預かれるのは、正しく生きた人間だけなのだ。
 俺は荷物を担いで、マルクスと共に列車を後にした。興奮した様子の老人は、そんな俺の声も届いていなかったらしく、終着駅に停車し整備を待つ列車の中で、まだ一人座ったまま夢中で考え事をしているようだった。
 俺は、次に乗る列車が発車するプラットホームへと急ぎながら、自分の腕に抱えられている死体袋の依頼証の名を指でなぞっていた。

八月の雨より
白い風見鶏へ

待たせて申し訳ない。
だが、安心してほしい。私と同志一同で、この平和の呪いを終わらせ、世界を現実に還す日は近い。
娘のことも、心配する必要はないよ。
もう間も無く、革命は終わるのだから。

ザルツベクのシャーマン

 さらに列車を二度乗り換え、ザルツベクに到着する頃には、俺の足はすっかり重たく、腰の辺りはだるくなっていた。重たい死体を運んだせいで、首や肩も痛い。マルクスも、その疲労はさすがに隠しきれないようで、まだ上がっているところを見たことがない彼の口角は、いつにも増して下がりきっていた。

「航空機で運べたらどんなに楽かと、よく考えたもんだよ」

 死体は重いだけではなく、時間が経てば臭いも強くなる。ただでさえ死体は切断され、その断面からは絶えず体液が漏れ出しているのだ。たっぷりと死体に塗られた防腐剤をもってしても、これだけ長時間移動すると、さすがに腐敗が進行してしまう。

「死体配達の任において航空機の使用を禁ずる、それがこの国の法律ですよ、少尉」

 すかさずマルクスがそう言った。

「知っているけどな、どうもその辺りのルールは眉唾もんだぜ。ノウェルの死体が当時、列車や車を使って地続きで運ばれたからと言って、そこまで全く同じにしなくたっていいと俺は思うよ。どうもそこらへん、時間が経つほどに根拠のない“スピリチュアル”が増してる気がしてならないな」

「なんとなく始めたことでも、それが続けば形式化し、やがてルールになりますから」

 マルクスは抑揚のない声でそう返した。彼は本心では、この仕事をどう思っているのだろう。死体を分解してあちこちに埋めるのも、信心深い国民による習わしとして受け入れているのだろうか。少なくとも、彼は敬虔なノウェルの信奉者には見えなかった。
 そうこうしているうちに、目的地である墓地が見えてきた。墓地の前には、シャーマンとおぼしき若い女が立っている。ザルツベク墓地に来たのは3ヶ月ぶりだが、ここのシャーマンは老婆だったはずだ。見覚えのないあの女は、後継ぎか何かだろうか。

「お待ちしておりました。ザルツベク墓地でシャーマンをしております、ミリューと申します。依頼証と通行手形をお見せください」

 女はミリューと名乗った。シャーマンが皆そうするように、白い絹の衣装を身に纏ったミリューは背が高く、澄んだ美しい声が印象的だった。
 俺は通行手形を開いて見せたあと、依頼証の縫い付けられた死体袋を彼女に差し出した。

「はい、確かに間違いありませんね」

 彼女はそういうと、俺とマルクスを連れて墓地の中に入っていった。
 ザルツベク墓地は、国内で最も大きな墓地だ。広大な敷地は大小様々に区画が分けられ、故人の名前の書かれたプレートが無数に突き刺さっている。
 ノウェルの防壁ができるずっと前に生きた人達がこれを見たらどう思うのだろうか。ふと、そんな疑問が頭をよぎった。異様な光景に震え上がるかもしれない。なんでも大昔には、死体を傷つけることが禁じられていた時代もあったという。確か“死体損壊罪”といったか、記憶は定かではないが、その時代では、こんな風に死体を分解などすれば、大きな罪に問われたらしい。死体を傷つけることは、魂の冒涜に他ならなかった。それが今や、すっかり逆転して、傷をつければつけるほど、尊い、意味のある死になるというのだから、不思議な話だ。正しさとは、こうも可変的なものなのか。俺たちが今しているこの仕事も、また数十年経てば、到底許されない悪事になっているのかもしれない。そう思うと、死体袋を握る指先の温度がなくなっていくような気がした。

「ここのシャーマンは婆さん一人だけかと思っていたが、あんたみたいな跡取りがいるとは知らなかったよ」

 俺は、ミリューに話しかけた。彼女に少しだけ、興味を引かれたからだ。

「祖母は先週亡くなりました。以前からも、私は足の悪い祖母の代わりに何度となく儀式は執り行ってきたんです。あなたと会うのは、どうやらこれが初めてのようですが」

 ミリューは穏やかにそう答えた。

「お孫さん、ということは、お母様はシャーマンにはならなかったのですか?」

「はい。母は私を産んですぐ亡くなっています」

「それは…お悔やみを申し上げます」

 彼女はそれ以上何も言わず、そこで会話は途切れた。そのまま墓地の奥へ奥へと足を進めていると、隣を歩くマルクスが小声で尋ねてきた。

「少尉、儀式には私たちも参加するのですよね?」

「ああ、そうだ。まぁ参加するといっても、俺たちにサポートできることはほとんどない。シャーマンからの指示がない限り、ただ見ているだけだ」

「承知しました。少尉は、儀式に参加するのは何度目なのですか?」

「死体配達を随分長いことやっているからね。数えきれないくらいには儀式にも参加したよ」

 この国で軍の配属がどのように決まっているのか知る者は少ない。俺は士官学校を卒業してすぐに、死体分解班に配属された。まだ10代だった自分にとって、死体にナイフを突き刺し、バラバラに分解するのは、肉体的にもハードで、何より本能的に恐ろしいと感じる作業だった。人の形をしていたものが、小さな肉片に分解され、パーツごとに分けられ、袋に入れられていく、その機械的なプロセスが、魂への冒涜のように映った。そんなこと口に出して言ったら、上官に怒鳴られるのは分かっていたし、自分でもバカバカしい前時代的な発想だと思っていたから、湧き上がってくる恐怖や嫌悪感は心の中で押し殺した。誰にも打ち明けたことはない。
 そして3年後、やっと感情をあまり動かさずに死体分解の仕事をこなせるようになった頃に、上からの通達で俺は死体配達班へと移動になった。それからはずっと、この仕事をしている。この場所で、部下を数十人抱えるくらいには出世もした。

「ここが上半身を埋める場所になります。この上で儀式を行いますので、死体を袋から出してください」

 ミリューが言った。俺は袋から男性の亡骸の上半分を取り出し、柔らかい土の上に置いた。ついでに袋を逆さまにして、底に溜まっていた黒っぽい液体を、生えていた草木の上に撒いてしまった。俄に広がった死臭に、蠅が羽音を鳴らしてたかり始めた。

「もう一つの袋も、中身を出しておいてください」

 マルクスに向かってミリューがそう言うと、彼はいそいそと自分の抱えていた袋からもう半分の亡骸を取り出し、上半身の隣に並べた。並んだ死体は、切断面のみならず目玉や口、鼻、肛門といったあらゆる内臓との出入り口から、粘り気のある水分を吐き出していた。それは黄色や赤や紫の混じったような濁った色をしていて、俺はたまに、自分の体からそいつが吐き出される悪夢にうなされることがあった。
 ミリューは二つの切断面が接するように置き直し、しばらく祈りを捧げると、手に持っていた木片に火をつけ、香を薫き始めた。そして唄を口ずさむ。彼女の美しい声は、無色透明な小川の水のように、長旅で疲れた心を優しく洗い流し、潤いを与えてくれた。それは、死者の魂を天に送るための唄だったが、ややもすれば我々生者も、皆まとめて黄泉の国に送られてしまうような気がした。俺は、そのまま意識がどこかへ遠のいていくのを感じた。

 唄が止み、はっと気がつくと、辺りはすっかり日が暮れて、俺たちは寒い暗闇の中にいた。立ったまま微睡んでいたというのか、直前の記憶がない。狼狽えてきょろきょろと周囲を見渡す俺に、マルクスは「どうかしたのですか?」と尋ねた。どうやら違和感を感じているのは自分だけのようだった。あまりに疲れていたせいだろうか。いかんいかん、仕事中だ、集中しなければ。頭を左右に振って「なんでもない、気にするな」とマルクスに言った。
 ミリューは手首にぶら下げた小さなランプの明かりを頼りに、あらかじめ掘ってあった墓穴に死体を運んでいた。半分しかないとはいえ、男の死体だ。女性が持つにはかなり重い。俺は慌ててミリューに駆け寄り、代わりにそれを運んでやった。

「ありがとうございます。これであなた方のザルツベクでの仕事は終わりです。今回の死体は二つに分解されていましたので、次は南端インドルジアですか?」

 墓穴にしまわれた死体の片割れに、上から土をかぶせ終わると、彼女は尋ねた。

「そうですね、今回は国営の墓を南北に二カ所となっていますから、こことインドルジアで終わりです」

「では、またここから長旅になるのですね」

 ミリューは気の毒そうにこちらを見て言った。俺は苦笑いを浮かべておいた。
 今回埋められなかった死体の下半身をマルクスに袋にしまわせると、俺たちは来た道を戻った。ザルツベク墓地の入口まで来たところで、門の前に小さな少女が立っているのに気がついた。少女はこちらを見つめながら、歩み寄ってくる。その足はふらついていた。どうも具合が悪そうだ。暗がりで定かではないが、顔も紅潮しているように見える。近づいてくる少女の口がパクパクと喘ぐように動いているのが分かった。

「…うさん…おとうさん…」

 “お父さん”?気のせいだろうか。今少女は俺を見てそう言ったように聞こえた。

「フィーリア!」

 ミリューがそう叫んで少女の元に駆け寄った。

「どうして外に出てきたのですか?」

 ミリューが尋ねても、フィーリアと呼ばれた少女は何も答えない。ミリューは俺たちの存在を一瞬忘れていたようだったが、すぐにこちらに向き直ると

「娘です。体が弱くて」

 と言って、フィーリアを抱きかかえ、おそらく彼女が娘と暮らしているのであろう門のすぐそばの小さな建物の中へ入って行った。マルクスと俺は、その様子を心配そうに見つめることしかできなかった。しばらくして、再び外に出てきたミリューは涙を浮かべていた。どうして泣いているのか、俺にはいくら想像しても分からなかった。
 彼女は門の外まで見送りに来てくれた。そこで、俺たちは別れることになった。

疑惑とともに南下する

「お前、恋人はいないのか?」 

 皿の上のオムレツをつつきながら、マルクスに尋ねた。俺たちは、死体の半分の配達を終え、そのままザルツベクの安宿で一泊した。そして翌日の朝、宿の一階のレストランに入り、こうして腹ごしらえをしているところなのだ。マルクスは顔色を変えることなく、いつもの退屈そうな顔のまま答えた。

「いません」

「そうか」

 全く、会話の続かない唐変木め。俺は心の中で舌打ちをした。
 マルクスは無駄のない手つきで皿の上の肉を綺麗に切り分け、口に放り込んでいく。一定のリズムで咀嚼し、飲み込むと、再びナイフとフォークを肉に突き刺した。食器とカトラリーがぶつかる音と、肉を咀嚼する音、喉の奥でそれをごくりと飲み込む音が、浮き上がって、自分の両耳から脳みその中に侵入してくるような感覚がした。そして入り込んだ音は、あらゆる神経を逆撫でしながら、大脳皮質に眠っていた不快な記憶に手を伸ばし、引っ張りだそうとし始めた。

「俺は死体分解班の仕事が大嫌いだったんだ」

 気がつくと、俺はそんなことを口に出していた。部下の前で言うべき内容ではない、止めなくては。そう思っているはずなのに、動き出した自分の口からは、湯水のように、心の奥底に長い間沈んでいた得体の知れない恐怖が言葉になって流れ出ていた。

「俺がぶった切っているのは、ただの死体だ。死体は、俺たちと同じ人間じゃない。魂がもうそこにはないからだ。これは任務だ。上官もそう言ってた。だから俺は死体をいくつもいくつも分解して袋に閉まったよ。なぜだかそれが、俺ぁ、ひどく怖かった。けどよ、この軍にかつていた諸先輩方は、生きた人間を殺しまくってたんだよな?自分の国を守るために、違う国の連中の命を奪ってたんだ。でもそれも悪いことじゃなかった。戦争なら仕方ないんだ。それにな、俺は、東洋には家畜や魚を生きたまま切り刻む料理があるって聞いたことがある。もし生き物が平等だとすれば、そっちの方が残虐って話じゃあないか?殺してから食うより、生きたまま捌いて食った方が新鮮で美味いからなんて、そんな理由でよ。俺の母親は菜食主義者だった。そのせいか、俺も肉はあまり好まない。きっと生き物を殺すなんて、俺にはできないな。…でも死体なら?ナイフを突き刺して肉を抉ってもいいのか?いいんだ。それに何より本人が望んで分解されてんだ。だから俺は亡くなった奴の望みを叶えてる。それは善いことだ。なのに、なんでだろうなぁ。俺はずっと怖いまんまだったよ」

 俺のおかしな話を、マルクスはどんな表情で聞いているだろう。気味悪がっているだろうか。情けないと呆れているだろうか。俺はマルクスの顔を見ることができず、テーブルの上の自分の皿を見つめながら喋った。まだオムレツは食いかけだったが、食欲はどこかへ行ってしまったようだ。俺が話終わると、マルクスは少し間を置いて、

「私もそんな仕事はしたくないですね」

 短くそう言った。俺はその真意が知りたくて、捲し立てるように疑問をぶつけた。

「同情してるのか?それともお前も俺と同じ欠陥品なのか?イカれてるのは俺たちなんだろう?それともこの国の思想が間違ってるとでも言うのか?」

 するとマルクスはゆっくりとこちらを向き、言った。

「それ以上を知れば、あなたも無関係でいられなくなりますよ」

 俺は息を飲んだ。何かただならない気迫のようなものを感じて、急にこの男を怖いと思った。マルクスの視線は、言葉に詰まった俺の顔から徐々に下に向かっていった。そして次の瞬間、

「そのオムレツ、食べないなら私がもらってもいいですか?」

 と尋ねる声が聞こえた。マルクスは、俺の皿の上のまだ半分以上残ったオムレツを見ていた。俺が「構わない」と言うと、彼は持っていたフォークをこちらの皿の上に突き刺し、自分の皿に移し替えた。彼の無駄のない手つきで小さく刻まれたオムレツは、そのまま口の中に放り込まれ、あっという間になくなってしまった。
 ウェイトレスに声をかけられ、俺は二人分の会計を済ませると、マルクスとともにレストランを出た。南へ向かう列車に乗れば、また長い旅路になることは分かっていた。私たちは言葉を交わすこともなく、チケットを買ってセントラルシティ行きの長距離列車に乗り込んだ。頭の中では、さっきのレストランでマルクスが初めて見せた鋭い目つきと意味深な言葉を、永遠と繰返し思い出していた。

 マルクスは俺の部下だ。マルクス・フェリッツ、軍に来たばかりで死体配達班に配属された22歳の新人。士官学校を卒業してまだ間もない青二才。俺が知っているのはそれだけ。だが、あいつは何者だ?親の仕事は?過去に付き合いのあった友人に問題のある奴はいなかったか?軍人は仮の姿で、実ははヤバい連中の手先なんじゃないか?……ヤバい連中とは一体なんだ?俺は何に怯えている?今頭に浮かんでいる、奴の本当の肩書きを列挙してみればいい。国家反逆者。他国からのスパイ。異端思想を持った新興宗教団体の若き幹部。はたまた古の宗教の時代遅れの狂信者。どれも現実離れしていて、しかしどれもマルクスになら当てはまるような感じがした。
 俺はどうしてしまったんだ。きっと全部俺の勘ぐりすぎで、やっぱりあいつはただの軍の新人で、愛想が悪い俺の部下で、真面目で退屈で少し変わっているだけの、ただの今時の若者なんじゃないか?そうであってほしい。 
 俺が列車の中で一人百面相をしていると、正面の席に男が座った。くるぶしまで丈のある黒いコートに身を包んだ男だ。本数の少ない鉄道なだけあって、まばらに座席が埋まっているとはいえ、わざわざ死体臭い軍人の前に座ったのはなぜだろうか?同じ車両の人間のほとんどは、自分達を避けて座っているのに。俺は違和感を感じた。すると隣に座っていたマルクスが立ち上がって、持っていた死体袋を俺に託し、「すみません、お手洗いに」と言って通路へ出ていってしまった。そのまま隣の車両に向かって歩いていく背中を見つめ、俺は不可解な事態に眉を顰めた。トイレがある車両は反対側に行けば一つ隣だが、マルクスの向かった方向では、だいぶ遠くまで移動しないとないはずだったからだ。奴は勘違いしたのか?今朝から何もかもがおかしい気がしてならない。それとも俺の頭がおかしくなってしまっただけだろうか。

「あなたには、彼の背中を追いかけることもできますよ」

 通路側に身を乗り出してマルクスの背中を見送っていた俺は、予期せぬ方向から急に声をかけられたので驚いて心臓を押さえた。声の主は、目の前に座っている黒コートの男だった。

「は、はい?と言いますと?」

「私は彼の同志です。そして義兄でもある。今なら、マックマービルを追いかけて、彼の口から真実を知ることができます。彼はそれを望んでいるようだったので。もちろん、このまま無関係でいることもできますが。選ぶのはあなたです」

 おいおい待ってくれ。何を言っているんだ、この男は。というかマルクスのお兄さんが一体ここに何しに来たというんだ。それにあいつは、あんたに目もくれずトイレに行って…
 ん?待て…いやもっと大事なことがある。聞き覚えのある恐ろしい単語をさっきこいつは確かに言った。

「マックマービルと言いましたか?あいつ、マルクスのことを」

 ザルツベクに向かう列車の中で出会った、元軍医だと言っていたあの老人の言葉が唐突に思い出され、俄に頭の中を旋回し始める。医務室に運ばれてきた軍人、異端審問会、国家反逆罪、捕まった囚人、ヒュエルゴ・マックマービル…そして俺たちが運んでいる死体の依頼証に書かれた名前……死体袋を持つ手が震えた。

「ああ、軍ではさすがに彼も父君の姓を名乗るわけにはいかないですよね。母親の旧姓でも名乗っていたのかな?まあ、実際もう随分前から母親と二人暮らしでしたから、戸籍上はそちらが正しいのかもしれません」

「あんた、余計なことを口走ってくれましたね。これで俺はあいつに聞く前に、真実が少し見えてきてしまいましたよ」

 そう言って俺は立ち上がり、死体袋を抱え、マルクスが向かった方向に足速に進んでいった。振り返ることはしなかったが、きっとあのコートの男は満足そうに笑っているに違いなかった。
 異端思想を持ち、軍を追われ“反逆者”の烙印を押された男、ヒュエルゴ・マックマービル。列車の中で会ったあの老人の話は、出鱈目ではなく本当だったのかもしれない。そういえばあの時、マルクスは俺の隣で目を丸くして老人の話に耳を傾けていなかったか?それに俺が老人と長話をしないように急かしたのも、あいつだ。きっと、何かに勘付かれるのを恐れたのだろう。そうだ。あの老人はこの死体を指して、「年齢的には一致する」と言っていた。つまり俺が今持っているこの死体こそが…マックマービル?軍は秘密裏に異端審問を行っていて、それにより彼は処分されたのだろうか。そしてそのマックマービルは、マルクスの………脳内で、いくつもの断片的な記憶と情報が、出現と消失を繰り返す。その物凄いスピードに振り落とされないように、俺は必死に意識を食らいつかせ続けている。得体の知れない恐怖に眩暈がした。
 すでに死体の半分は埋めてしまった。そうだ、ザルツベクでの儀式…あの儀式の最中、自分には記憶のない空白の時間があった。あのとき何かいつもと違うことが行われていた可能性は?墓地で今回会ったのは、いつものシャーマンではなかった。ミリューと名乗る若い女だった。彼女も異端者と繋がっていたとしたら…?もう何か恐ろしい計画が動き出しているのではないか。疑問が疑問を呼び、次々と浮かんでくる不安は俺の頭の中を占拠した。
 俺は、揺れる列車の中、死体袋を抱え、マルクスを追った。しかし隣の車両にも、その隣の車両にも、マルクスはいない。とうとう最後尾の車両にたどり着き、その扉を開けると、ようやくそこに彼を見つけた。彼は、帽子を被った背の高い男と話をしている最中だったが、私に気づいて話を中断した。

「少尉、どうされましたか?」

「お前のご友人とやらに行けと言われたんでな。無関係なままでいるつもりが、お前の正体をうっかり知ってしまった。マルクス・マックマービル、お前、異端思想と関わりがあるようだな」

 犯人を問い詰める警官のように、俺はマルクスににじり寄りながら言った。だが、その声は震えていたかもしれない。

「全くフェルマーのやつ、余計なことをしてくれたようですね」

 マルクスは小さな声でため息混じりにぼやいた。先程のコートの男はフェルマーという名らしい。やはりマルクスの仲間のようだった。マルクスはこちらに向き直ると、私の目を真っ直ぐ見据えて、忠告するようにゆっくりと話しだした。

「少尉、真実を知れば何も知らなかった頃には戻れません。私たちがそれを許しませんから。あなたには黙って我々についてきてもらうか、口封じのために消されるか、どちらかの選択肢しかなくなりますよ」

「おっかないことを言うな。どちらにせよ、もう知ってしまったも同然だ。そして消されるつもりはない」

 俺の話を聞くと、マルクスはしばらく押し黙った後

「我々に逆らわないことに同意してくれたとみなします」

 と言った。ついに俺は、壮大な面倒ごとに足を突っ込んでしまったらしい。国家反逆者どもの同類として処刑されるやもしれない。しかし、それでも真実が知りたかった。こいつらが何を企てているのか、ことの行く末を見届けたいと思ってしまったのだ。

第二章 The truth as seen disrupts order.

一家にかけられた呪い

白い風見鶏から
八月の雨へ

久しぶりにあなたの顔が見れて、あの子も喜んでおりました。
ようやく道のりはあと半分です。
最後の目的地では、私の古い友人が待っていますので、ご安心ください。
次にお会いできるのは、全てが終わってからですね。
心から待ち遠しく思っております。
あなたの夢が叶うことを。そして再び、家族一緒に過ごせることを。

 ザルツベク市の郊外に広がる国営墓地。その門をくぐったすぐ先にある小さな家には、この墓の管理を一任されているシャーマンの女・ミリューが住んでいた。国が直接管理する墓地で儀式を行えるシャーマンは、行政の認可を得た歴史ある一家だけであり、彼女もまた、何百年も続いてきたシャーマンの家系に生まれたのだった。

 第六次世界大戦が始まった頃、ミリューの曽祖母サル・テネブラエは、廃れゆくシャーマンという家業の行末に不安を抱いていたごく普通の女であり、そして子を持つ親だった。家業がいずれはなくなる仕事だと覚悟していたサルは、息子たちには士官学校へ行くように、娘たちには普通教育に励むように言い聞かせた。精霊や神との接触方法などを子供に教えようとはしなかったし、シャーマンの歴史が自分の代で途切れても、それでいいと考えていた。唯一この仕事に興味津々で「知りたい知りたい」とせがむ幼い次女にだけ、受け継いできた儀式のあれこれを、たまに仕事がくるたびに教えてやっていた程度だ。やがて彼女の夫は兵士として前線に旅たった。苦しい家計の中で、彼女は子供たちを女手一つで懸命に育てた。そんなサルの人生をまるきり変えてしまうような転機は、何の前触れもなく訪れた。
 ある夜、大柄な男が突然家を訪ねてやって来て、開口一番「ミセステネブラエ、協力を願いたい」と彼女に懇願し始めたのだ。男は背中に、自分と同じくらいの大きな袋を背負っていた。男がその袋を下ろし、開けて中を見せると、驚くことに入っていたのは死体だった。死体の顔は抉れ、誰かも判別できないような有様だったが。男は真剣な顔で言った。

「この死体を使って、この国を戦争に勝たせなくてはいけない」

 この男は気が触れているに違いない、とサルは恐ろしくなった。しかし男は、自分は軍の幹部だと言って、胸ポケットから軍人手帳を出して見せた。ノウェル・カンバスという名の下に、“少将”と書かれており、それはこの男が軍のお偉方であることを示していた。

「少将ともあろうお方が一体、私に何の御用でしょう…?」

「あんたは、優れたシャーマンだと聞いた。おかしなことを言っているのは自分でも分かっている。正直、俺自身も半信半疑なんだ。だがこれは重要な任務で、俺はやり遂げなければならない。とにかく、この死体の持ち主である精霊と話をしてほしい。そうすればこれが悪い冗談なのかどうか、あんたも俺も分かるはずだ」

 サルは、男に従うことにした。少なくとも、軍の少将が自分を騙すためだけに、死体を背負って北方の田舎までやってきたとは思えなかったからだ。彼女は、男を家の裏から続く草むらへ案内し、そこに死体を横たわらせた。香木に火を焚き、祈りの呪文を唱え、黙祷し、精霊へと繋がるチャネルを開く。
 そして次の瞬間に、全てを悟った。その死体は、自分の夫のものだった。愛する夫は殉職し、ここに連れてこられたのだ。夫の精霊が語りかけて来た。彼が戦地で見てきた恐ろしい光景がサルの脳内に流れ込んでくる。夫の精霊が、この国にどんな未来をもたらそうとしているかを語った。そしてその代償に、彼女と彼女の子孫たちに呪いがかけられるということも。サルは夫の亡骸を持ってきた男を、恐ろしい形相で睨んで言った。

「あなた方の願いは叶った。だが、いつか罰が下るだろう」

 その日からたった数週間後、大勢の命を奪いながら18年もの間続いていた戦争が、突然終わりを告げた。しかも、戦況は劣勢とばかり報道されていたこの国が、戦勝国になっていたのである。“平和”という言葉自体を忘れかけていた国民は大いに湧き上がり、その奇跡を賛美した。しかしサルは驚かなかった。
 あちらこちらで聞こえた爆撃の音や銃声もすっかり止み、人々は世界の静けさを思い出した。戦地から帰ってきた夫を抱きしめる妻もいれば、訃報に泣く家族もいた。様々な感情を抱えたこの国は、それでも踊り、歌い、新しい時代の到来を歓び合った。しかし、サルは夫の墓の場所さえ知らず、家の外に出ようともしなかった。
 そんな折、どこからか都市伝説のような噂が流れ、瞬く間に国中に伝わった。「戦争を終わらせるために自らの亡骸を分解し、国境のあちこちに埋めさせた少将がいた」そんな常軌を逸した話だった。だけれど国民は怖がるどころか、その少将を勇敢な戦士だと称えた。そしてその噂話は、軍と政府が公式に事実として認めたことにより、この国で真実として受け入れられることになる。少将の名が「ノウェル」と明かされると、それは英雄の名になり、やがて神の名になった。人々は皆、新たな神話の信奉者になっていた。戦争の終結は、神の御業に他ならなかったのだ。
 「この国の民が自らの死体を分解し国境に埋めたなら、それがノウェルの築いた防壁を維持し、この国を守ることになるだろう」そんな話を誰からともなくし始めた。やがて軍役経験のある老人が、自分の亡骸を分解するようにと遺言に残してこの世を去ると、また噂が飛び交い、誰もがそれを真似するようになった。この国は“平和”を合言葉に、狂った“正しさ”を蔓延させていった。しかし、そんな恐ろしい感覚も、穏やかな日常にすっかりと埋没し、人々の満ち足りた顔に隠されてしまった。
 やがて、国が墓地を拡大すると報道された。分解された死体を埋めるには、もっと広大で細分化された墓地経営が必要になったのだ。民間企業も乗り出し、墓地事業は大きく発展した。政府からサル宛に、国内で一番大きな墓地をザルツベクに敷設すること、そしてそこを管理するシャーマンに彼女を推薦する内容が記された手紙が届いたのは、それから間も無くのことである。家業を継ぎたがっていたサルの次女は、何も知らずに喜んだ。しかし間もなくサルから、自分が産んだ子供は若くして死ぬことになると教えられると、今度は悲しみに泣き叫んだ。

 ミリューは、ベッドの上で熱に浮かされる一人娘を、心配そうに見つめていた。時折苦しそうに咳き込むたびに、ミリューは娘に、コップに入った水を飲ませた。水には、細かく擦り潰した薬草が混ぜてある。熱に効くものだというが、気休めにしかならないだろうことを、彼女は分かっていた。

 ミリューの母親は、彼女を産んですぐに他界した。それは、自分達家族にかけられた呪いのせいだと祖母は言っていた。かつて、この国の未来を変える一つの儀式が、曽祖母の手によって行われ、その代償として、彼女の子孫は一代おきに若くして死ぬ不治の病に冒されるのだという。どうして曽祖母がそんな呪いに関与することになったのか、彼女には理解できなかったが、実際、母親の病はどんな呪術に頼ろうと、どこの医者に連れて行こうと一向に良くならなかった。そういうわけでミリューは、結婚して子供を産むことを恐れていた。
 そんな彼女のもとに、ある男がやってきた。マルクス・マックマービルと名乗ったその男は、ミリューたちにかけられた呪いを解く方法を知っていると言った。彼は思想解放団のリーダーだった。しかし、その呪いを代償にして得られたこの国の“平和”は、呪いを解くと同時に破壊されると彼は言った。ミリューは、彼の口から、自分の曽祖父と曽祖母が関わった国家計画を知ることになった。
 いつしかミリューは、この国を憎み、マルクスを慕うようになった。どうしようもなく彼に惹かれた彼女は、ついにマルクスと恋仲になり、二人の間には娘が生まれた。生まれつき病弱で、寝たきりの娘だった。その理由を二人はよく知っていた。そこで、ミリューの夫となったマルクスは、思想解放団が水面化で動き出していた計画を、実行に移すことを決めた。
 自分が産んだ娘が、母親と全く同じ症状に苛まれ、すぐにでも息絶えようとしている姿を目の当たりにしたミリューは、家族にかけられた呪いが避けようのない現実なのだと理解した。娘を救うためには、その呪いを断ち切らなければならない。親として、どんなことでもやらなくてはいけないと思った。例えそれが、この国に背く恐ろしい行為だとしても。大勢の人を傷つける悪魔の所業だとしても。マルクス・マックマービル率いる思想解放団は、ノウェルの防壁を破壊する目的を持っていた。そしてミリューも、夫に協力することを決意したのである。

 ミリューは、汗の浮かんだ娘の額をタオルで拭い「あと少し、もう半分で終わりだから」と、自分に言い聞かせるように言った。
 北の大地・ザルツベクの空には暗雲が立ち込めていた。間も無く肌寒い冬がやってこようとしていた。

マックマービルの息子

 南へ下る列車の最後尾。その車両の中で、私はマルクスと向かい合っていた。マルクスの後ろでは、彼の仲間であろう男が、不安そうにこちらの様子を伺っている。顔を隠すように帽子を目深に被っているその男をよく見ると、移民規制の厳しいこの国ではほとんど見かけることのないアジア人だった。

「少尉、私が軍にいるのは、果たしたい目的があるからに他なりません」

 ここにきて、マルクスは何の躊躇いもなくそう言い放った。俺は、間も無く彼の口から明かされる事実に、得体の知れぬ恐れを抱いていた。耳を塞いでどこかに逃げ出したいような気持ちと、一刻も早く彼の正体を知りたいという気持ちが何重にも交差し、心が落ち着かなかった。

「マルクス…やはりお前は、軍に入り込んだんだスパイだったんだな」

「私は父の意志を継ぐために、今ここにいるのです。私の仲間たちも同じです。もうお分かりでしょうが、少尉が大事そうに抱えてくださっているその袋の中身が、かつての私の父です」

 俺は悲鳴を上げそうになった。なんとなくそうではないかと疑っていたとはいえ、目の前にいる人間の肉親の死体、それも真っ二つに切断されたその片方を今自分が抱えているのだと思うと、やはり恐ろしくて仕方なかった。

「あ、あの老人が話していたのは、お前の父親のことだったのか。異端審問にかけられて処罰されたとかいうあの…」

「そのヒュエルゴ・マックマービルが、私の父です」

 やはり…。俺の嫌な予感は当たってしまった。

「どうやって手に入れたんだ!?囚人の死体なんて」

「苦労しましたよ。囚人の死体が焼かれる国営の火葬場を襲撃しました。といっても、役所の連中、脅しただけで大人しく手渡してくれましたよ。囚人の死体になんて使い道がないと考えていたんでしょう。口止めに大金を持たせたら、大事にすらなりませんでした」

 マルクスは冷静にそう話した。それにしたって、こいつは一体どんな気持ちで、実の父親の腐った死体を長い間運んでいたというのだろう。一度だって悲しそうな顔も、苦しむ素振りも見せやしなかった。ただずっと俺の隣で淡々と仕事をこなし、無表情のままことの成り行きを黙って見ていた。俺には到底そんな真似できない。
 そう考えると、この国の神話は狂っているように思えてきた。なにせ、いくら本人の頼みとはいえ、ノウェルの妻は彼の死体をバラバラにして、あちこちに運んだんだ。愛する家族の身体にナイフを刺して、分解するなんてことができるだろうか?死体分解が当たり前になったこの時代でさえ、分解作業は軍に依頼されることになっていて、自分の手で家族の死体にナイフを突き立てる人なんて皆無だというのに。
 いつのまにか俺は、おかしいのは自分ではなく、この世界なんじゃないかと思い始めていた。マルクスは、考え込んでいる俺をよそに、身の上話を語り出した。

「父は戦争が始まる前から軍人でした。父は、戦後この国にやってきた移民の子孫である母と結婚し、やがて私が生まれました。移民と言っても人種は近いですから、私を見た目で混血と見抜くことは、少尉にもできなかったでしょう」

 マルクスが言った。俺はふと、列車の中で夕日に照らされた彼の瞳が薄緑に輝いていたことを思い出した。恐らく、あれは見間違いではなく、異国の遺伝子によるものだったのだろう。

「異なる文化・宗教を持つ移民の母と結婚するような父です。この国の思想に染まっているはずがありませんでした。父はずっと歴史学を学んでいました。この国の思想、特に死生観は、戦前と戦後で大きく変わっている。ご存知“ノウェルの神話”によってね。父の研究テーマはまさにそこだったんです。父が軍に入ることを決意したのは、軍の管理する書庫に出入りするためです。そこには、発禁処分になり世間一般に出回らなくなった本や、国の機密資料が山ほどあることを、父は知っていたのです。そして、父はこの国の真実に辿り着いた」

 頑なに俺との会話に乗ってこなかった無愛想な部下が、今こうして流暢に喋っているのは気に食わなかったが、俺は早く、マルクスたちの目的を知りたいと思った。行動原理を理解することで、得体の知れなさに恐怖する心を沈められるかもしれない。俺は恐る恐る声を出して尋ねた。

「で、その“真実”ってのに辿り着いた父親の意志を継ぐお前たちは、一体どういう異端組織なんだ?」

「異端組織とは聞こえが悪いですが、まあ良いです。我々は思想解放団を名乗っています。言うなれば、“肉体原理主義者”の集まりのようなものです」

「肉体原理主義者?なんだそれは?」

 気味の悪い言葉に、俺は思わずたじろいだ。

「文字通りですよ。肉体こそが魂の根源だと言っているです。少尉、身体の“所有権”はどこに存在すると思いますか?現行の法律上、それは身体に宿った魂ということになっています。だが、我々はそこに疑問を提示する。この身体は、“神からの預かり物”でしかない。魂が召された時点で、その亡骸は神に返されるのです。そして戦前までは、この国の民だって、それを知っていた。今現在横行している、肉体を故人の遺言に従って切り刻む行為は、神への冒涜に他なりません。そもそも、その故人の価値観すら、戦後、国によって意図的に植え付けられたものなのですから。我々は政府の悪事を明かして、この国を洗脳から解放し、第六次世界大戦以前の“正しい”思想に戻そうとしているのです」

 俺は困惑していた。肉体を切り刻むことへの恐怖は、俺が秘密裏に感じていたことだ。その恐怖をマルクスは、たった今肯定してくれた。しかし、彼の言っている理屈は全く理解できない。俺は死体分解の仕事が嫌いだったが、それはなにもこの肉体が神からの預かり物で、本人ですらも不可侵な神聖なものだからだ、などとは考えたこともなかったのである。

「正気か?お前が言っているのはつまり…自分の身体が自分のものじゃないってことだよな?本当にそう思っているのか?俺には詭弁にしか聞こえないんだが」

 戸惑っている俺を見て、マルクスは不敵な笑みを浮かべた。

「そりゃあそうでしょうね。自分の意志で動かせるものを、自分のものだと思ってしまうのは、当然といえば当然です。そうですね…もし、他人の身体を意図的に傷つけたら、あなたは処罰されます。それは他人の財産を盗んで捕まるのと、基本的に同じ理屈に思えるでしょう。しかし、本当は全く違うのです。本来、自分の身体を傷つけることも、他人の身体を傷つけることも、罪状は同じでなくてはいけません。どちらも神への冒涜です。しかし今この国では、たとえ自分の身体を傷つけても裁かれることはありません。法律は、身体を単なる“所有物”とみなしているからです。自分の家に自分で火をつけても、それが隣の家に燃え広がらない限り、何の罪にもならないのと一緒です」

「お前たちは、この肉体をずいぶんと特別視しているようだな」

 俺は、右手で胸の辺りをさすりながら言った。自分の心臓が、自分のために鼓動している。それは、この身体が俺のものだと、俺に教えている。そんなのは、直感的に分かることじゃないか。しかし、この男はそれを間違っているという。

「はい、肉体は特別です。それを単なる魂の器、ましてや魂の所有物などと曰うのは、あまりにも恐れ知らずというものです」

 マルクスはそう断言した。

「肉体原理主義というやつには、俺は全く共感できなさそうだ。だが、ひとまずそれは置いておくとしよう。ただ、お前たちの言っていることはずいぶん宗教的だし、お前たちは神への敬虔な信徒と見える。しかし、それは今のこの国の人々が思想を持つのと何が違う?彼らの宗教観とお前らの宗教観が相容れないのはわかった。だが、なぜお前たちが正しくて、国民が間違っていることになるんだ?」

 俺が眉間に深く皺を寄せ、そう尋ねると、マルクスは即座にこう言った。

「ではお聞きいたしましょう、少尉。“ノウェルの神話”がまるっきり嘘だと知って、それでも国民たちは自らの死体を意味もなく分解することを望むでしょうか?」

「なんだと…?」

 ノウェルの神話がまるっきり嘘…そんなこと、どうしてマルクスに分かるというのだ。
 どんな宗教のどんな聖典であっても、「作り話にしか思えない」という輩はいくらでもいる。だが、それが全くの嘘だと証明されたことは、いまだかつてない。真実でも偽りでもありえるからこそ神話なのであり、それを信じる人々がいるのではないか。
 マルクスは、狼狽える私に向かって話を続けた。

「私の父が辿り着いた真実とは、この国が意図的に“ノウェルの神話”をでっち上げ、世界における今の立ち位置を獲得したという歴史的事実だったんですよ」

 それは、軍人である前に一人のこの国の民として、あまりも受け入れ難い話だった。俺はその場に磔にされたように、動けなくなってしまった。

「確かに第六次大戦中、分解されて埋められた死体があったのは事実です。しかしそれは、この国の英雄…ということになっているノウェル・カンバスではありません。全くの別人です。ノウェルという少将は、その死体を運んだ人物であり、軍に利用された駒の一人に過ぎません」

「待て待て待て。軍の目的が見当もつかないぞ。そもそもバラバラにされて国境に埋められた…つまり本物の“ノウェル”は、じゃあ一体誰だったんだ?」

「ヴィクス・テネブラエという軍人です。彼は英雄ではなく、軍によって選ばれた生贄でした。不運なことに、彼には選ばれる理由がありました。なんせ“シャーマンの夫”だったんですから。天に送られる魂と送り届けるシャーマンの縁が深いほど、強い呪術をかけることが可能なのです」

 マルクスの口から、よく分からない言葉が次々と飛び出し、俺の思考は停止した。シャーマンというのが引っかかった俺は、気になっていたもう一つの疑問を、奴にぶつけた。

「なぁ、これは間違っていてほしいと切に願っているんだが、ザルツベク墓地のあの若いシャーマン、ミリューもお前たちの仲間なのか?」

「よく分かりましたね。正解です」

 マルクスは俺を揶揄うように、あっさり肯定してしまった。俺は頭を抱えて唸った。

「国営墓地の管理を任される由緒正しきシャーマンが、異端組織の仲間とはな。お前たちも、よくもそこまで勢力を広げられたもんだ。それで、この死体、お前の父親をこの国の南北に埋めることが、お前たちの目的だったということだな?一体それが何になるっていうんだ…」

 俺は抱えている死体袋に視線を落として尋ねた。

「ええ、我々が今遂行しているのは、言うなれば“ノウェルの防壁”に対するカウンター、防壁を破壊する呪術なのです」

「は?防壁を破壊する?どういうつもりだ!まさか、また戦争を起こそうっていうのか!?」

 慌てふためく俺に、マルクスは憐れむような視線を送った。

「少尉、まだ勘違いをされているようですね。そもそも“ノウェルの防壁”なんてものはないんです。あれは軍のでっち上げた嘘だと言ったでしょう」

「いやしかし、実際この国は18年も続いた世界大戦に終止符を打ち、奇跡の戦勝国になったではないか!」

「いいえ、世界は休戦協定を結んでいるだけです。放っておいたって、いつこの平和が打ち破られ、神話が嘘だったということが国民に知られるかは分かったものではないのですよ。つまり国民は、この一世紀近く、国に与えられた“仮初の平和”という夢を見させられている何も知らない赤ん坊も同然なのです」

「何だって!?」

「驚くのも無理はありません。政府と軍の中でも限られたトップの人間を除いて、国民は真実に気づかないような呪術をかけられていますから。先ほどのヴィクス・テネブラエの亡骸と、その妻であるシャーマンによってね」

 この時マルクスの口から明かされたのは、予想だにしていなかった話だった。自分が生まれ育ったこの国が、嘘で塗り固められていたことも、マルクス率いる思想解放団とやらが、ここまでスケールの大きな反逆を企てているということも、あまりにも現実味を欠いていて、驚きを通り越して、悪い夢でも見ているような気になってくる。

「でも、おかしいと思いませんでしたか?もし戦争が終わっているなら、どうして軍が解体されずに今もこうして残っているんです?どうして士官学校は積極的に生徒を募集しているんです?我々の仕事は死体の配達ですが、軍事訓練は毎日行われていますし、我々も参加していますよね」

 言われてみれば、確かにその通りだ。どうして今まで何一つ疑問に思ってこなかったのだろうか。この国が戦勝国ならば、軍隊はもう必要ないはずだ。残すにしても、縮小するか、自衛隊に止めて然るべきだろう。俺は言った。

「マルクス、答えてくれ。この国は一体何のためにそんな恐ろしいことをしているんだ?俺には訳が分からない」

「この国は、あのまま戦争を続けていれば、敗戦国になっていたはずです。それを休戦することができたのは幸いなことでした。しかし、我が国は圧倒的不利な立場でしたから、休戦協定の内容は、経済的にこちらが大国に搾取される形とならざるを得ませんでした。そして、我が国が経済復興の即時解決のために考案したのが、国民の眠った資産を強制的に動かすこと。かつて、この国には富裕層が富を独占するという問題がありました。昔は、死後の資産は残された家族へと相続されるものだったのです。葬式にかかる金額などたかが知れてましたから、老人が使わずに溜め込んだお金が、そのまま子孫たちに渡っていった。子供もそれを貯金してしまえば、使われないお金が使われないまま増え続けるんです。そこで軍は、彼らの財産を相続させない方法を考えました。そのための理想的な神話が“ノウェルの防壁”です。そして国の目論見通り、死者は自らの死体の分解と埋葬に全財産をかけるようになり、葬儀屋と墓地経営などの産業が大いに潤いました。この国と民間企業にお金が移動し、経済効果が産まれ、我が国の主要産業にまで発展した。その半分以上に国が関与していますから、実質は死人の貯蓄のほとんどが税金になったようなものです。政治と軍のトップの人間は、大国側から贈賄を受けることと引き換えに、国民を騙して得た大金を、戦争賠償金として支払っています」

「俺たちは、まんまと国のでっち上げた神話を信じ込んで、何の意味もなく大事な貯金を死体の分解に使い果たしてたっていうのか?不思議だ。急にお前の話が正しいような気がしてきた。なぜ自分がこの仕事に、そしてこの国の常識に、これまで何の疑問も持たなかったのか、今ではそちらの方が不可解なくらいだ」

「騙されたのは呪いのせいです。しかし真実を知れば、国の与えた幻想から覚めることができる。といっても、それも簡単ではありません。真実を恐れ、幻想にしがみつこうとする人間は多いですから。少尉にはもともと素質があったのですよ。嘘を見抜き、真実に気づく素質がね」

 俺は、今までマルクスの話に対し感じていた焦りや恐れが、まるで浜辺から波が引いていくように、一気に遠く離れていくのを感じた。呼吸が深さを取り戻し、頭は冷静になっていった。
 平静を取り戻したとき、車内に停車を告げるアナウンスが流れた。すると、それまで黙っていたアジア人の男が、マルクスに声をかけた。

「マック、そろそろ話を戻していいか?」

「ああ、そうだな。少尉、紹介させてください。この男はサツキ・ヘッケル。私の同胞です」

 マルクスにサツキと呼ばれた男は、こちらに丁寧にお辞儀をした。

「マックから話は聞いています。自分は戦後この国にやってきた移民の子孫なんです。この作戦では、情報伝達を任されています」

 サツキはそう言って、マルクスに何かを耳打ちをした。それを聞いたマルクスの目がぎらりと輝いた。

「少尉、我々の計画は滞りなく進んでいるようです」

ノウェルの正体

 俺たちは、セントラルシティでさらに南に下る列車に乗り継いぎ、他に誰もいない先頭車両に乗った。マルクスは、同士として同乗していたサツキとフェルマーを近くに座らせ、俺に紹介した。先の列車で、俺を唆した黒コートの男・フェルマーは、マルクスに連れられ戻って来た俺を見て、やけに嬉しそうにニタニタと笑っていた。

「真実を知った上で仲間になってくれたんですね。なんとなくそうなる気がしていたんですよ、私は」

 フェルマーが言った。その言葉が不本意な俺は、即座に言い返す。

「仲間になどなっていない。ただ抵抗すれば殺されると言うんでね。それに国が鉄壁と喧伝するノウェルの防壁が嘘だと知って、それでもなおその神話のために騙された人々の死体運びをするのは気が引ける。それで、この謀反の成り行きを見届けることにしたまでだ」

 俺の話を聞いているのか、いないのか、フェルマーは相変わらずのニタニタ顔で

「仲間が増えるのは嬉しいことです」

と返した。話が通じないらしい。俺が呆れていると隣からマルクスが話しかけてきた。

「フェルマーは、あのザルツベクのシャーマン、ミリューのお兄さんですよ」

「そう、つまりマルクスの義兄でもある。少尉さん、妹にはザルツベクで会ったんですよね」

「ええ、まぁ、はい。というか、え?マルクスの兄っていうのはどういう…」

「ミリューは僕の妻です」

 マルクスが、こともなげにそう言ったので、俺は仰天し、大声を上げた。

「なんだと!?」

 こいつはどこまでペテン師の才能があるのだ。いや、それはザルツベクのあのシャーマンも同じことか。二人して俺を騙していたとは。俺は自分がとんだ間抜けに思えて来た。

「娘に呼ばれたときには、もうバレてしまったかと思いましたが、少尉は案外鈍いのですね」

 マルクスにそう言われて、ザルツベク墓地からの帰り際、ミリューの娘がこちらに向かって来たときのことを思い出した。

「やはりあれは“お父さん”と言っていたのか。あの子は俺じゃなく、ずっとお前を見てたんだな」

 俺は、マルクスと死体を運んできたこれまでの道のりで起きたことの全てに、合点が行くような感覚を覚えた。
 マルクスの隣に座るフェルマーが、真剣な顔になって語り始めた。

「思想解放団に参加したのは、もちろんマルクスの志に賛同したからに違いないが、しかし可愛い姪っ子を助けたいという想いも強い。家業を継ぐほかなかった妹が不憫でな」

「助けたい?あの子は確かに具合が悪そうだったが、ノウェルの防壁の破壊とあの子とどう関係があるんだ?」

「ああ、そうか。少尉さんは、まだ何も知らないのか。俺のひいじいちゃん、ヴィクス・テネブラエの魂が、ひいばあちゃんの呪術によって、この国を戦争のない幻想の世界にしちまったその代償でだな、俺やミリューたち家族は一世代ごとに不治の病に冒され死んでしまう呪いにかかっちまったんだ。一人のシャーマンがあまりにも強い呪術をかけるためには、それなりの代償を支払うことになる。それで俺の母ちゃんは、妹を産んですぐに死んだ。次は妹の娘の番ってわけさ」

 フェルマーはそう言った。俺はマルクスの方に向き直った。

「なるほど、思想のためという大義名分ではあるが、マルクスお前も娘を助けたくてのことなのだな」

 マルクスの顔が切なそうに少しだけ歪んだ。

「実は、娘のために、この計画を早めたのです。本当はもう少し軍の中で情報収集に努めるはずでしたが、娘の具合が一刻を争う様子だったものですから。幸い、人事に顔の効く男と懇意になりまして、それですぐに死体配達班へと移動になったのです」

「ぬかりない男だ」

 そう言った俺は、内心では、マルクスの数奇な運命に同情していた。きっとこれまで、自分には計り知れない苦労をしてきたのだろう。しばらく沈黙が続いた後、我々3人と少し離れて座っているサツキに、俺は声をかけた。

「サツキはアジア人か?どうやってこの国にやってきたんだ?」

「俺は、第六次対戦中、この国に傭兵としてやってきた爺ちゃんの孫です。国が“ノウェルの防壁”なんて嘘をでっち上げたせいで、国民を騙し続けるために国境整備が厳しくなりました。移民規制も強まりましたが、同様にこの国を出ていくのも難しくなったのです。俺は両親を連れて母国に帰りたい。だけど、このままではそれも許されません」

「なるほど。訳あり移民たちも、お前は上手く取り込んだんだな」

 俺はわざと嫌味っぽくそう言って、マルクスの方を一瞥したが、彼は気にする様子もなく

「古今東西、利害が一致する人間は仲間にしやすいでしょう」

 と言った。しかし一理ある。利害を共にするこの者たちは、恐らく十分信頼に足るだろう。途中で裏切り者が出れば、処罰されるのはこいつらだけでは済まない。同時に俺の首も飛ぶはずだ。マルクスたちのやることを黙認することにした以上、この作戦は成功させてもらわなければ困る。
 やがて、列車は無事にセントラルシティに到着した。怪しまれるのを避けるために、サツキとフェルマーとはそこで別れ、俺とマルクスは死体と共に列車を乗り換えた。死体の腐敗は一層進み、マルクスの父親、ヒュエルゴ・マックマービルの死体の臍から下半分は、周囲の人間が思わず怪訝な顔をするほどの異臭を放っていた。

 国の南端に位置する都市、インドルジアへ向かう列車に乗り込んだ俺とマルクスは、思いやりを持って、なるべく人の少ない車両に移動した。それほど混み合ってはいなかったが、死体の放つ匂いのキツさは、同じ車両にいれば気になって仕方ないほどだからだ。俺たちは、他に誰もいない車両を見つけると、向かい合って席に着いた。

「なぁマルクス、俺にはまだ分かっていないことがいくつかある。インドルジアに着くまでの間に、それを説明してもらえないか?」

「構いません、全てを理解すれば、あなたは我々の味方になると、私は確信しています」

 確信がある、とマルクスは言った。こいつは一体なぜ、そんなに俺を信頼しているのだろうか。

「お前は、最初から俺を仲間に引き込むつもりだったのか?それとも俺が信頼に足る人間かどうか、隣でじっと見極めていたのか?」

「どちらとも言えますが、私には、少尉がこちら側の人間だという直感がありました。なんなら、少尉が逃げられないところまで来るのを待っていた節もあります。ほら、ここまで来てしまえば、たとえ僕たちを軍に告発したって、関与を疑われますから。もっと悪ければ、手引きした仲間の一人として処刑されるかもしれませんね」

 マルクスがそんなことをどこか楽しげに話すので、俺は身震いした。

「マルクス、お前、俺に何の恨みがあってこんなことを」

「ありませんよ、恨みなんて。ただ、死体配達がバディで行う任務であるからには、その相手を仲間に取り込んだ方が手っ取り早い。最後まで騙し続けるのは神経を使いますから。でもあなたなら、意外と簡単に騙し通せたかも」

 どこまでも計算通りというように、にやりと不敵に笑うこの男を、俺はもう自分の部下だとは思えなくなっていた。こいつは、思想解放団のマルクス・マックマービルなのだ。俺は途端に、疲労を感じてため息をついた。

「俺は運が悪いな」

「あるいは、とても運が良いか」

 俺の言葉に即座にそう言い返してくるマルクスは、本当に可愛げがない。

「どうしてお前の父親なんだ?つまり…この国をノウェルの防壁って幻想で騙すのに使われたのがフェルマーやミリューの曽祖父だったのもそうだが、そのノウェルの防壁を破壊する呪術が、お前の父親である必要性は一体なんなんだ?」

「呪術というものは、言うなれば、隠と陽の相反する力が交差することで強い効果を生み出すのです。終戦を強く望みながら戦死した兵士の魂が、その妻の呪術にかけられるというような“ねじれ”が必要ということです」

「ねじれ?」

「そうです。不幸ともいうべき、ある種のとんでもない運命のねじれが、呪いを強くするのです。その結果は皮肉なものでしたし、政治家や軍のお偉方の私腹を肥やすことになりましたが、それでも百年以上にも渡って、国民の命を守ることに成功したのですから、ヴィクスとサルは素晴らしい功績を残したと言えます。まさに、ねじれが生み出した奇跡です」

「おい待て。お前は今からその功績をぶち壊しにいくんだろう?」

「そうです。私には、父親の意志を継ぐ責任がある。父親を殺したこの国を私は絶対に許しません。私はそのために必要だと思って、ヴィクスとサルの子孫であるミリューに近づきました。打算です。でも、彼女もその兄のフェルマーも呪いに苦しんでいた。ノウェルの防壁の代償として受けた、逃れられない呪いにね。私たちが望むことは、奇跡的に一致した。かつて彼らの祖先が作り上げたノウェルの防壁という幻想を打ち破ることです。そしてその奇跡は、娘を、フィーリアを私たちに授けてくれた。そのとき、私は気づいたんです。まさにその状況こそ、大きな“ねじれ”を生んでいるということにね」

「…自分の父親の死体を使って、妻の祖先の功績を破壊させることが“ねじれ”だと?」

「そうすることでしか、私たち夫婦は幸せになれない。そいういう運命のねじれです」

 俺は、なんだかよく分からないような、でもなんとなく腑に落ちるような、あやふやな感覚を持て余した。しかし、それ以上質問するのはやめにして、とにかくことの成り行きを伺うことにした。マルクスの言うことが正しいのなら、実際に今俺たちが持っているこの死体をインドルジアに届けさえすれば、ノウェルの防壁は破綻し、この国は再び現実に呼び戻されるはずだ。この国の至る所でデモが起きるか、クーデターが企てられるか、それは分からないが、この国全域に、激震が走ることになるのは間違いない。
 マルクスの話を聞いて、俺は、ザルツベクで会ったミリューのことを思い出していた。あの綺麗な唄声で綴られたのは、死者へ送られた別れの呪文ではなく、今を生きる我々の妄想を打ち壊し、長い眠りから覚ますための呪いだったのだ。しかし、そうは思えないほどに美しく、心に平穏をもたらしてくれるような豊かな響きだった。
 列車は、この国の運命を握る死体の半分を乗せて、ただ真っ直ぐに南へ向かって伸びた線路の上を、滑るように走り続けた。決められた道を進むことしかできないのは、今の自分も同じだった。せめて、その先に待つのが地獄でないことを、俺は祈っていた。

南の果てのインドルジア

 冬の空気が冷たく肌に突き刺さるようだったザルツベクとは違い、この国の南端はまだ暖かく、秋の色を残していた。俺達がインドルジア墓地に到着
すると、そこで待っていたシャーマンの男が、恭しくこちらに挨拶をした。この男も思想解放団の仲間なのだろうか。マルクスはちらっとこちらを見てから、彼になにやら耳打ちをしていた。大方、俺のことを警戒しなくても良い旨を伝えているのだろう。

「初めまして、ロイといいます。私はここインドルジア墓地のシャーマンをしています」

 男はロイと名乗った。背が低く、丸々と太った男だった。俺はよろしく、とだけ返して握手をした。
 ロイはマルクスから死体袋を託されると、それを大事そうに抱え、俺たちを引き連れて墓地に入っていった。

「なぁマルクス、あいつはどういう理由でお前に協力してるんだ?」

「ロイは、サツキの幼馴染なんです。この国は北部と南部で貧富の差が激しい。南部にはサツキのような貧しい移民も少なくないんです。ロイとサツキは子供の頃から近所で仲良くしていたそうです。ロイは、もともとこの国の思想、つまりノウェルの神話について懐疑的ではありませんでした。しかしサツキを通じて、我々思想解放団からこの国の歴史に隠された真実を知ってしまってからは別です。自分達一族がシャーマンとして、国の悪巧みに協力していたことを恥じ、我々に協力する仲間になりました」

 マルクスは何食わぬ顔でそう言ったが、俺には、彼らがロイという青年の約束された将来を剥奪したように思えてならなかった。真実といえば聞こえはいいが、それを知ることで人生が台無しにされる人だっているのだ。俺だって、きっと何も知らないままでいた方が幸せだったのだろう。途端に後悔が湧いてきた。首を突っ込まなければ良かったと、深く自戒し始めていた。
 俺が暗い気分に苛まれている間に、ロイは儀式の準備を整え、俺たちの向かいで「それでは始めます」と言った。

 最後の死体の埋葬はあっけなく終わった。とてもじゃないが、これで明日から世界が変わるなんて思えないほどに、あっけなくだ。明日からも世界がこのままだったとして、俺はこれまで通りの日常が送れるだろうか。今から基地に戻る。そうしたら、翌日にはまた別の死体を運ばされるんだろう。今まで何百回もやってきたことだというのに、もう俺はそんなことが自分にできるとは思えなかった。ザルツベクからインドルジアに下る間に、俺は分解された死体がすっかり恐ろしいものに感じるようになってしまっていた。

 全てが終わった時、マルクスはロイに礼を言って涙を流していた。俺は現実とは離れた別世界で、その光景を見ているような気がした。マルクスはこれで満足したのだろうか。父の野望を果たし、家族を守った充足感と幸福のただ中にいるのだろうか。俺はというと、疲労と虚無感で一杯だった。ザルツベクから南へ向かう列車に乗ったときから、どうも落ち着かないままで、心のどこかで少しだけ、これは夢なのではないかと疑っていた。

第三章 A new order starts a new game.

復讐の彼方

 この国で最初の大きな反乱が起こったのは、俺たちがヒュエルゴ・マックマービルの死体に呪術をかけ、南北に埋葬し終えてから数週間後だった。その時、俺はようやく、マルクスの話に嘘偽りが無かったことを確信した。
 長い平和な冬が終わり、春風はこの国に真実を運んできた。“ノウェルの防壁”なんていう御伽噺を、どうして信じ込んでいたのか、もう誰も思い出せなくなっていた。国土を覆っていた呪いは完全に解けてしまった。この国は民を騙していたのだ。軍と政府は国民から巻き上げた金を大国に納めて私腹を肥やす悪党どもだった。誰もが激怒し、反旗を翻した。皆が思想解放団を、そのリーダーであるマルクス・マックマービルを新しい英雄だと賛美した。
 気づけば、季節は夏になっていた。その熱気と照りつける日差しの強さは、国民の怒りと新たな革命への渇望の表れのように、日毎に増していくのだった。
 国内のあちこちで反乱が起きるようになって数ヶ月後、ついに軍は国民に屈する形で、上層部の解体を余儀なくされた。その後、簡易的な選挙が行われ、ノウェルの一件と大国からの贈賄に関与していなかったとされる軍のエリートたちが、新たな幹部に選ばれた。同時に、軍はマルクスを特別指揮官という立場に任命することで、国民の溜飲を下げることに成功した。
 しかし当然、大国との休戦協定は立ち行かなくなり、そう長くも経たないうちに、我が国の戦争は再開することになった。この国は、きっと戦勝国にはなれない。これから、この国の人間が大勢亡くなるのだろう。そういえば、第六次大戦はなんで始まったんだっけ?俺はそんなことも知らないで、軍人を名乗っている。

前線に立つ勇敢な兵士

 大きく重厚な扉の前に、俺は立っていた。扉の上のプレートには、“特別指揮官室”と書かれている。俺は、ゆっくりとその扉をノックした。少し間を置いて、中から「どうぞ」という声がしたので、俺は重い扉を開けた。室内は広く、年代ものの調度品が揃えられており、マルクスはその奥、窓辺に配置された机に向かって作業をしている。夕日に照らされたその顔は、しばらく見ない間に、ずいぶんと柔らかい印象になっていた。

「特別指揮官どの、お時間少々いただきたく」

 俺の言葉に、こちらを見上げたマルクスが苦笑して立ち上がった。

「やめてください。そのような喋り方をされると、こちらが緊張してしまいます」

「ずいぶん偉くなっちまって、気軽に話しかけにくいったらない」

 俺はそう言って、肩が凝ったというように首をすくめるジェスチャーをしてみせた。

「肩書きがついたというだけの話です。私は変わらずあなたの部下のつもりですよ」

 マルクスはそう言うが、実際、こんな広い部屋で軍の指揮官をしているのだ。これまで通りに接する方が難しい。

「俺の部下は、口数の少ない無愛想なマルクス・フェリッツという男だった」

 俺が嫌味っぽくそう言うと、マルクスは笑って

「あの頃は、まだあなたを信用していませんでしたから、無駄口が叩けなかったんですよ」

 と言った。

「まぁいい、頼みがあって来たんだ。来る作戦なんだが、大国との国境ライン、敵兵を迎え撃つ最前線に俺を立たせてくれ」

 俺の言葉を予期していたのか、そうでないのか、マルクスは真剣な顔でこちらを見つめ、穏やかな口調で尋ねた。

「それはまた、どうしてですか?」

「お前を正しいと思って、俺はお前に協力したし、この国を変えられてよかったと思っている。…だけど、やっぱり戦争ともなると、少なからず責任を感じてしまうんだ。軍や政府の悪事に目を瞑っていれば、まだこの国は戦勝国でいられただろう。国民がその夢から現実に還るのを、俺たちは大幅に早めてしまった。だから」

「あなたが前線に散っても、事態は何も変わりませんよ」

 マルクスが冷徹に言ったその言葉の意味を、俺は痛いほど自覚していた。

「分かっている。早く死んで、罪悪感から逃れようとしている俺を、お前は情けないと思っているのだろう」

「いいえ。あなたが無惨に死ぬところを、私が見たくないというだけです。指揮官にあるまじき、私情ですね」

 マルクスにそう言われ、不思議と嬉しさが込み上げた。あの鉄面皮が、かつての上司にわずかでも愛着を持ってくれていたとは、意外である。

「やっとお前の可愛げのあるところが見れたな、マルクス。だが、頼む。こんな形でしか責任を取れない俺を許してくれ」

 しばらく間を置いて、マルクスは小さく頷いた。

「あなたには感謝しています。どうか…ご武運を」

 マルクスはそう言って、俺に向かって敬礼した。俺は敬礼を返し、マルクスに背を向けると、そのまま指揮官室を出た。
 特別指揮官マルクス・マックマービルもまた、国境ラインでの迎撃作戦に当たり、後方の戦線に兵士として立つことを俺が知ったのは、作戦の前日だった。

 作戦決行の日は、雨だった。じっとりと湿って重たい空気の中、俺は最前線に銃を持って立っていた。遥か彼方に、こちらに迫る敵軍が見える。倍ほどの軍勢だろうか。目視できる範囲だけでも、こちらより遥かにその数が多いことが分かった。雨に濡れた軍服が肌に張り付く感覚は、俺の体の自由を奪っているかのようだった。

「死体で経済を回していた国が、やがて国ごと墓になっちまうなんて、よくできた話だな」

 俺はそう呟いて、まだ射程距離から遠く離れた敵軍に向かって銃を構えた。これは夢に違いない。そうだ、俺は夢を見ているのだ。俺の身体は、目前の光景に震えることすらしなかった。銃口が真っ直ぐに敵兵を捉える。後方で、マルクスはどんな顔をしているんだろう。不敵に笑っているだろうか。そんな気がする。奴はきっと、後悔なんてしていないんだろう。ノウェルの神話が嘘になったとき、マルクスたちの正しさは証明された。けど、負ければその“正しさ”だってクソと同じ。いつだって勝者が正しいからだ。思えば“正しさ”とは、空虚な言葉だ。時代や社会に応じて、その中身をコロコロと変えちまう軽薄さと表裏一体である。それなのに、その“正しさ”のために、俺たちは殺し合う運命なのだ。くだらねえ!敵軍の先頭が射程距離に入った。ついに俺は引き金を引いた。俺の打った銃弾が、敵兵の頭を吹き飛ばした。そのわずか数秒後、俺の隣の同胞が撃たれ、悲鳴を上げることすらできずに倒れた。その鈍くて重たい音に、心拍数が跳ね上がる。ああ、これは夢じゃない。しかし、なんて虚しい現実だろう。それでも、嘘で塗り固められたあの平和より、俺はこれを“正しい”と思ってしまったんだよ、ごめんな。俺は隣で死にかけている同胞に目を向けることなく、敵に向かって銃を打ち続けた。誰でもいいから早く俺を撃ち殺してくれと、ただそれだけを願いながら。

愛する妻へ
愛する君と娘との時間を取り戻せたと思った矢先、戦地へ赴くこととなり申し訳ない。
願わくば、もう一度、フィーリアの寝顔を眺めながら君と話すあの平和の象徴と呼ぶにふさわしい穏やかな午後が、僕の元に訪れんことを。
ミリュー、私はあの子が元気に走り回ったり、笑顔でこちらに駆け寄ってくるのを抱きしめるたびに、私たちの決断は正しかったのだと確信することができた。後悔はしていない。
この戦争は、簡単には終わらないだろう。あるいは、敵国にとって簡単な形であっさりと終わってしまうかもしれない。
いずれにせよ、必ず帰るとは言えない、すまない。少なくともこの身体だけでも、君の手で神に葬ってほしいと思っているが。
ノウェルの防壁というヴェールをやっと剥がされた国土は、再び始まった戦争により、今度は真っ黒な現実に覆われてしまうのだろうか。この国の歴史に幕が降りる時が来るのだとしたら、それが今なのかもしれない。
それでも私たちは正しいことをしたんだ。ミリュー、そうだろう?
父の意志を継ぐのは息子の使命であり、娘を守るのは親の使命なのから。
愛する君よ、そうだと言って抱きしめてくれ。どうか。どうか。
マルクス


Nobody knows where it will end.

#ジャンププラス原作大賞

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