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快楽を求めることは地獄の入り口か

快楽が好きか

 人は少なからず、快楽を求める快楽主義者だと思う。人だけでなく、恐らく多くの生き物が本来はそうだ。有名な話で言えば、ラットを使った実験でこんなものがあった。電極に繋がれた自身の脳に快楽物質を発生させるボタンを目の前に用意されたラットは、寝食を忘れ、1時間に実に7000回以上もそのボタンを押し続けた。そしてそのまま快楽や多幸感の夢の中、飢えと睡眠不足によって死んでしまったのだ。それほどまでに、快楽の持つ力は強く、生き物を“病みつき”にさせる。
 「生きる」という全ての生き物に共通する本質さえも凌駕してしまう快楽。「“気持ちいいこと”のためなら、死んだって構わない!」という人がいたとして(少なくはないんじゃないか?)、その理由は、彼らにとっての生きる喜びとは、快楽を経験することに他ならないからなのだ。
 さて、ここにギャンブラーがいたとする。こいつは、闇金で金を借りてまで競艇や競馬、パチスロに行こうとするとんでもない奴だ。それこそ、命知らず。明日飢えて死ぬとしても、賭け事を止めようとはしない。一般的な人からすれば到底理解し難い愚か者であろう。しかし彼は今日も行くのだ、パチスロに。そしてその時の彼の胸の高鳴りは、“一般的”な私たちが感じたこともないような強烈な快感、興奮状態なのである。翌日すっからかんになって飢えに苦しむその苦痛と足して2で割っても、決して損はしないほどのね。
 ならば我々が心配してやるほど、彼は不幸じゃないのかもしれない。「どうしようもない馬鹿だね。そんなことお止めておきなさい」と老婆心で言ってやる必要などないのだ。幸不幸は一義的なものではない。何を選んでどんな形の幸せを手にしたいかは、人それぞれだから。

快楽とは何か

 あなたにとっての快楽は何か。好きな人と体を交えることか。美味いものをたらふく食べることか。酒やドラッグを嗜むことか。金を稼ぐことか。誰かと深く理解し合うことか。大勢から認められることか。夢を叶えて自己実現することか。きっと人それぞれだが、なんだかんだ似たり寄ったりの快楽ファクターを我々は持っているのだろう。
 それでもって、とてつもなく救いのない話をすると、人間は不快感から逃れられない。なぜなら、快というのは不快という相反する状態によって定義されているから。当然、逆も然り。心電図のように快と不快の間を行ったり来たり、揺らぎ続けるのが脳の仕組みであり、毎日同じ幸せを享受していても、それを全く同じ新鮮さで感じることはできないし、快楽の量は目減りしていく。
 その証拠に、70年前と現在で、人間の幸福度に大した変化はないことが分かっている。日本では戦後間もない時期、貧困を極めた時期である。そこから現在まで、経済はどれほど豊かになったことか。どれほどのGDPの上昇を実現したことか。しかし、国民のは幸福度は劇的に改善などしていない。なんなら自殺率は増加している。その意味するところは何か。それは、我々は結局のところ、生物学的に「永遠の至福」状態に入ることが不可能だという残酷な事実なのである。生き物が得られる幸福には天井があったのだ。
 アドレナリンは出続けることはない。快楽を強く感じるためには、その前段階として不快な状態が必要悪のように存在しなくてはいけない。天井をぶち破って、人間の多幸感が持続する社会を実現するには、それこそ先ほどの実験ラットのように、人間の脳を電極にでも繋いで強制的に快楽物質を出し続けるしかない。それがユートピアかディストピアかは判断しかねるが。

不快感は克服できるか

 さて、かつて釈迦は言った。「一切皆苦」つまり、この世の全ては苦しみであると。快楽は言わば、その苦が減じた時に見せる錯覚に過ぎない。だから快楽を追い求めるな、と。快楽という幻を求めることで人は不幸になると、二千五百年以上前から仏はそう教えている。では、僧侶は修行して何を得るのか。快も不快もない安穏、心拍数ゼロの心電図のような波の起こらない一定の安心感と諦念か。本当に?というか快も不快もない状態は幸せなの?
 正座をして瞑想をしてみればいい。自分の内側を観察してみるのは、何をするより大切なことだと思う。目を瞑ってしばらくすれば足が痺れ始めて、でもその痺れも無心で観察し続けると、なんだか別に不快なものなのかよく分からなくなってきて、自分の体がやがて他人の体みたいに遠いもの思えてくる。それはまるでただの「呼吸する箱」。
 満員電車に乗るとイライラする。上司に嫌味を言われた。恋人からの返信が遅い。初めて買った惣菜の味がイマイチだった。友人のSNSでの自慢げな投稿が目に入った。帰り道、ハイヒールの踵が溝にハマった。不快感に繋がる日常生活のあれやこれ。特別な理由がなくたって、イライラすることはある。でも全てを切り離して遠くから眺めてみたら、なんか全部、別にどうでもよくなってくる。口うるさい母親の小言も、最近結婚した友達の惚気話も、職場の嫌いなおっさんも、混雑した道でぶつかってきたあの人も、サイズの合わなかったオシャレ着も、別に「不快」ではない。そのジャッジをしているのは自分自身で、それはむしろ自分の内側の問題である。誰かのせいでも、何かのせいでもない。
 数日間、他人になったつもりで自分の日常を観察し続けると、案外と不快スイッチは押されずに済む。身の回りの事象と自分の中の「快感」「不快感」を切り離し続けてみる。慣れてきたら、今度は喜ばしいことについてだけ、快感に繋げてみればいい。これができるようになると、いわゆるポジティブシンキングというのが可能になってくる。ネガティブ思考が身についてしまっている人でも、「観察」を続けることで変わっていくことができる。

快楽主義者のままでいい

 私は快楽主義者だ。快楽を求めて快楽のために生きている。しかし、私はそのために、金を稼ごうとも、恋人を作ろうとも、美味いもんを食おうとも思わない。自分の外側に快楽を探しに行くのが非効率的だと知っているからである。
 全ては最初から内側に備わっている。だから、今まで通りの人生で構わない。私は修行僧ではないし、不快を消し去ることは出来ないが、最小限にすることはできる。同時に快を最大限にすることも。
 日常における全ての事象を不快感から切り離し、ただの物事だと冷静に観察し続ければ良い。そしてその一方で、快に繋げられる物事をなるべく多く見つけること。快も不快も幻覚だと自覚しながら、自分の状態をただ自分にとって良い方向に持っていこうとだけ、考えればいい。
 誰にでもできる、簡単なことだ。他人や自分の外側にある物事は変えられないが、自分は変えられる。そして自分を変えれば、自分に見える全てが変わっていく。この世界は自分の頭の中を映す鏡のようなものだから。
 快楽を追いかけたって、地獄になんていかない。やり方を間違えなければ、ね。

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