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台湾ワーホリで想定外の大出費で困窮した話(始まりはそう、いつだって辛ラーメン)


2013年3月から1年間、台湾にてワーキングホリデーをしていました。


台湾に来て早々、シェアハウスにて辛ラーメンをきっかけに韓国人ルームメイトと大喧嘩、「ボケカス」と吐き捨ててシェアハウスを飛び出した私には予期せぬ引越しによる想定外の引越費用が重くのしかかりました。

それを機に台湾華語で喧嘩しても打ち負かせるぐらいの語学力が欲しくなり、語学学校の授業数を多く取る為、費用を捻出しなければならなくなりました。

私の住んでいた台中市は当時、日本語環境の求人はなく、現地の言葉が理解できなければ仕事に就けなかったのですが、運悪く当時の私のレベルでは聞き取りはできても会話のキャッチボールができるほどではありませんでした。

そうは言っても背に腹は変えられなかったため、求人の張り紙が貼ってあった近所の日本式焼き鳥店に履歴書片手に直談判をしに行き、ありがたい事に採用していただける事になりました。

実際に働いてみると、今まで語学学校の授業で習ったことのない調理・接客に関する単語・表現ばかりの指示が飛んで来ました。聽不懂すぎてマジで使えない木偶の坊でしかなかった。


出勤3、4日を過ぎた頃、スタッフが誰も洗い物や掃除をしようとせず、いつもオーナーから指示をされてからようやく取りかかる事に気づきました。

この世はいつだって隙間産業が無双、当時の私にできることはこれしかないと思い、まず出勤したら洗い物の有無をチェックし、それが終わったら店先の掃き掃除と台拭きを徹底するようにしました。

その頃から、他のスタッフから「この日本人やる気ある」と認めてもらうことができ、今まで以上にたくさんの業務を教えていただけるようになりました。

私自身も皆の期待に応えたかったし、もう2度と木偶の坊なんて思われてたまるかと思った。
皆の動きを観察してオペレーションを身体に染み込ませられるようにしたり、接客時の文言を皆が話しているそのまま暗記したり、常連のお客様のお名前を覚えたりと日々の小さな努力を積み重ねていきました。

3ヶ月後、接客と調理補助業務は一通りできるようになり、新しく入った学生さんに業務を教えられるところまで進歩していました。

いつも通りバイトをしていたところ、2名のお客様から突然に名刺を差し出されました。
聞くと近々日本料理店をオープンするからどう?とお仕事のスカウトでした。(ボスが名古屋の某高級居酒屋でバイト兼修行されていたことが何だか嬉しかった)
とても良い待遇で迎えていただくことができ、金銭的な問題は解決することができました。


私はこの経験から、自分の叶えたい夢や目標があった際は結果だけにこだわるのではなく、まず今の状況で自分の最善を尽くすことが大切であり、結果は自ずと付いてくるのではないかと感じました。

相変わらず私は何の結果も出せず、大した額のお金も稼げず、半額のシールがついた生鮮食品ともやしで命を繋ぐような生き方しかできていないし、同年代の女性のようにおしゃれなカフェに行ったり、デパコスなんて夢のまた夢。

こんな暮らししか送れない私の考えや生き方がこの日本の資本主義社会において賢明なのか未だ答えは分かりませんし、社会的に見れば私はきっと”落ちこぼれ“の一言で片付けられるような存在なのかもしれません。

だけど、私は今も何か厳しい局面を迎えた時には、何か現状を打破できるようにとりあえず行動だけは続けるようにしています。

貧困家庭出身、高校・大学バイト3つ掛け持ち、奨学金全額借入、元ホームレス。
ここでくたばってたまるか、ボケカス。

※写真は20代後半、歪んだ性格が顔に出ていますね。当時の口癖は金が欲しい。

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