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大下一真の第七歌集『漆桶』を誦む

大下一真の第七歌集『漆桶』を読む。
よみかたは、「しっつう」。

後記をよむと、平成25年~30年(2013~2018)の間に作った500余首の短歌と、二首の長歌を収めた、とある。(作者65才~70才)
初版発行は2021年7月2日だから、73才の誕生日に世に出た本ということになる。
椨(たぶ)という木がたびたび出てくる。

・ふるさとは母に甘えに来るところ母なきふるさと蝉しぐれ降る
・親はやく亡くして娘が母となり孫抱きて来る歳月は川
・歯切れよくもの言いし人の娘なり歯切れよく言う母の思い出
・盂蘭盆の卒塔婆立つる夕暮を浄土こぼれしような風来る
・息をせぬ体となりて帰り給う小さく小さくなり給いたり
・母の死を告げられ短く礼を述べ受話器を置けば静かなる沼
・畳屋の跡の空き地に背丈ほど伸びて勢いし蓬も枯れぬ
・骨拾いくるる人なきその一生(ひとよ)かなしみ遠く経誦(きょうず)しもうす

最後の歌は、長歌の反歌であるが、この長歌にはまた何とも言えぬ切実さがある。

一期一会
火葬場の炉より出だされ
まだ温き み骨拾いて
親族の壺に納むる
かたわらにしばし経読み
読み終えて脇に移りて
見るとなく見し隣の炉。
出だされし白きみ骨は
見守る人 一人とてなく 職員が
集めて運び 黙々と収骨始む。
いかような生活(たつき)なりしか
縁薄き一生かなしみ
僧われは遠くに見つつ
小声にて経を誦すれば
職員は気配に気づき
まなこもて礼を送り
われもまた目をもて返す。
名も知らぬ人のみ骨に経誦する
一期一会の火葬場の午後。

反歌
骨拾いくるる人なきその一生(ひとよ)かなしみ遠く経誦(きょうず)しもうす

私はこの歌集を読みながら、どうしても父の死と、それに続いた非日常的な数日の事を考えた。

父が生きていた頃の大阪府豊能郡豊野町は私の故郷であったが、父亡き今、何度車であそこへ行っても、何か別の場所へ来てしまったような、虚しい感じがするのである。引用した一首目は、その感覚が歌という物に整えられているような、そんな一首だと感じた。

ここに引用させて頂いたどの歌も、ここにかつていたけれど今はいなくなってしまった誰かの、強烈な存在感と、温かみを含んでいる。

その温かみは、一種、幸福な寂しさとも言えるかもしれない。

しかし最後の一首は、どうしようもないような悲しい気持ちにさせられる。焼かれて出てきた時、その骨を拾う職員は、少なくともそのうちの何人かは、慣れた作業とは言えども、孤独な死んだ人間の孤独さというどうしようもない謎、あるいは問題に、目の前を塞がれる思いがするのではないだろうか。
そんな時に、この和尚は、その焼かれた人に、経を捧げた。それは問題の解決にはならないが、問題に参与するという意思の表明には絶対になる。だから職員も、和尚に「まなこもて礼」をしたのだろう。

この長歌と反歌を読んで、私は少しぼろぼろと泣いた。

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