中高時代の違和感。そして今の幸せ。
最近、ライターとしてインターンを始めたので久しぶりにnoteを書きます!
コロナの影響で授業はリモートになり、何を思い・感じたか人それぞれかもしれません。もちろんキャンパスにも通っていなないので1人も大学の友達はできず、その代わりたくさんのコミュニティで活動して交友の輪を広げています。 あたしと仲良くしてくれている方々にありがとうです!
さて、この記事ではあたしが少し過去に感じていた違和感について書いています。不幸自慢に聞こえることもあるかもしれませんが、そうではないということを頭の片隅に入れて読んでくれることを願います。
あたしは中学3年生ぐらいの頃からずっと思っていたことがあります。
それは、
「なぜクラスという箱が存在しているのだろう。」と。
当時あたしは、高校受験を本気で頑張っており、その一方クラスの子たちは推薦入試や先願入試で合格を決めていました。もちろんそんな中でこれといって仲のいい友達はできず、受験に必死なあたしを小馬鹿にしている人もいました。
そこであたしはふと思ったのです。
「なぜ、クラスという箱の中に勝手に入れられて、自分の選択の余地もない中で勝手に優劣をつけられて、悪口を言われなきゃいけないんだろう。」
当時はただ、友達がいなくて辛かったというのもあると思います。でも、あたしが感じていたこの思いは、高校時代まで続きました。
だって、毎日顔を合わせれば嫌なところだって見える。その人の性格やギャグセンスに飽きてくる。なのに一緒にいなければならない。切磋琢磨して何かを成し遂げなければならない。特にあたしにとっては、決められたクラスの中で仲の良いグループを作って、その子たちと毎日ご飯を食べなければならないことが難しかった。
挙げ句の果てにそれができなかったら、”クラスでは浮いた存在”として小言を言われる。
「なんて理不尽なんだ!こんな箱に詰められなかったらこんなに嫌な想いはしなくてよかったのに。」とよく考えていた。
そして、あたしは人の悪いところが見える瞬間がとにかく嫌いだった。
自分にとって悪いこと・嫌なことは完全に主観なのだが、人を嫌いになってしまうきっかけになりかねない。
あたしは人を嫌いたくなかったし、平和にニコニコ生きたかった。
なのに、グループを作らなければその想いは実現しないことにずっと悲しみと違和感を抱いていた。
中学を卒業した後、中学の仲の良かった仲間たちと話すのはとても気が楽だった。なぜなら、箱の中のクラスメイトという監視カメラを気にすることなく、好きな時に、好きな友達と、好きな場所で会話できる。
誰からも悪く言われることはない。
今は高校を卒業し、誰と仲良くなるか、誰と知り合うか自分で選択できるようになった。なぜ、高校生までこんな当たり前のことができなかったのだろう。不思議だ...。
最後に
これを読んでくださっているかつ、リアルでもオンラインでも仲良くしてくださっているみなさん。
あたしと仲良くしてくださってありがとう!
あの頃に比べて、あたしはとても幸せです。
楽しい思い出もっとたくさんあたしと一緒に作ってくれると嬉しいな!
ちょっといいな♪と思った方ぁぁあ! 少しでいいのでお菓子代を恵んでちょっ😚