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君たちはどうコールするか?

33rdSGアンダーライブ

来る、2023年9月29日より開催される、乃木坂46 33rdSGアンダーライブ。

  個人的に横浜アリーナというのは、大きすぎず、小さすぎず、きわめて「ちょうどいい」会場だと思っている。どの位置からもメンバーが見えて、比較的密にメンバーとコミュニケーションをとれているような感覚がある。まあ、配信でしかまだ見たことが無いわけだが。
 早速余談ですが、配信で観た時に、スタンドのファンと、外周を歩くメンバーが一緒に映るやつが私は結構好きです。「オタクの顔オタク」としては、横浜アリーナは本当にオタクが「いい顔」していて好き。それに、横浜アリーナ 3Daysでアンダーライブが行われるというのには、なかなか時の流れを感じて、感慨深くもある。

 比較的「かわいい女子」をみる目が肥えているであろうJKをも「松尾かわいい。ヤバい。」と言わせる、松尾美佑さんを座長で行われる本作のアンダーライブ。そして、そんな座長と共に行われる最大規模のライブ。そんな、アンダーライブ史的にも重要になるであろう公演を前にして、私は一点、心配事がある。

バックステージ席でそろわないコール

 さて、時はさかのぼり、今年の神宮公演。私は、三塁側、ステージを真横からのぞくような位置から参加した。もう数ブロック先はバックステージ席である。
 個人的に、このバックステージ席というものには、軽いトラウマがある。コロナ禍に入るずっと前、一度だけバックステージ席で乃木坂のライブに参加したことがあるが、ステージから絶対に見えないからこそ、己の存在をメンバーたちに伝えようと、時に過剰に声を出す彼らに全く集中できなかった記憶がある。
 まあ、当時は特に「騒いだもん勝ち」という雰囲気で、また、私自身も今以上にコールを好まないタイプだったので、なおさら居心地の悪さを感じていたわけだが。

 時は過ぎ、2023年。今回はコールがあって嫌な思いをするようなことはないと思っていたが、いざ聞こえてきたコールを聞くと、その印象は少し違った。声量としてはそう変わらないがどうもぎくしゃくしている。皆必死でコールしようとしているのはわかるが、単純な不慣れさではない、違和感がずっとあった。

言葉を選ばずに言うなら下手になったと感じた。

コロナ禍で変化したコールとファンの距離感

 もちろん、単純に長らく有観客かつ声出しを認める公演が数年間なかったこと、そしてそこで一定数ファンが入れ替わっている事、それに関連してコロナ禍に発売された楽曲は特にコールがふわふわしていること(というかコロナ禍発売の楽曲はコールしないことが自然になっているケースもある)等も、もちろん大きな理由ではあるだろう。しかし、個人的に最も大きいと感じているのは、必ずしもコールがライブを楽しむために必須のものではなくなった、ということである。

 星野源氏などがしばしば口にしていることと通ずるが、「音楽に対して自由に体を動かす、または聴き入る」というのはごくごく自然なことである(いうまでもないが、そうした「自由」の出力の結果がコールであるということは大いにありうるし、それもまた自然なことである)。
 そこから踏まえると、いわゆる「コール」的なものを不文律に則って行うことはある種特殊なモノであったともいえる。
 コールがアイドルというアートフォームの中で大きな割合を占める不可欠な要素であるということは事実である一方、コロナ禍の配信ライブ等でその要素が欠けた状態で活動が積み重ねられてきたということも事実である。
 そして、そのたび、ファンもアイドル側も「楽しむ方法」を模索してきた。その過程で、曲自体も必ずしもコールを前提としないことが増えたし、またファンもコールだけではない楽しみ方を見いだしているように感じた。

 奇しくもコロナ禍前後の数年間には『I see…』『全部夢のまま』などまさに「体を揺らす」のにもってこいな楽曲がリリースされており、そうした中でコールせず、ある種音楽にフォーカスして楽しむという経験を自然に通ったファンは少なくないと感じる。事実、コロナ禍のライブでは、コールが無い分必然的に「自由」な時間が増えているとも感じる。
 そうした中で、ある種あやふやな数年前の記憶をたどりながら、とりあえずコールを行うというやり方がどうも、チグハグに映った。結果的に「コールするためにライブに来ている」ような人のある種乱暴なコールばかりが鳴り響いているようにも感じた。そして、その人が声がデカいからなんとなく従わないといけないという不自由さ。そして漂う、そうした諦めに似た雰囲気。それが違和感の正体である。
 私は、前日に日比谷野外音楽堂で行われたSPECIAL OTHERSのライブに参加していた。勿論、アーティストのキャラクタもジャンルも場所も違うので、単純に比較はできない。しかし、そこで、思い思いに皆が自由に踊り、叫び、音楽を感じている光景と比較すると、どうしても窮屈に映った。

新しいコール様式

 ここで改めて、以前から続くコールに対する勉強を各々がし、探り合わずに行うことでパフォーマンスとしてのコールの精度を高めていく、というもの一つのやり方ではあるが、この機会に私はあえてある種「柔軟な」「音楽の一部となるような」コール、というものを提案したい。
 すべてのファンがあらかじめコールを予習しておくのは現実的ではないし、今作『おひとりさま天国』のように公式なコールの手引きがあるならまだしも、そうでないなら、そもそも統一することは現実的には難しい。

 また、必ずしもコールが決まっていないならば、より当日のパフォーマンスにゆだねて変化させていけばよいというのが私の考えである。
 事実、なんとなく「聴き入った方がいいんじゃないか」みたいな雰囲気は察して素直にコールを止める素直さを持ち合わせているファンもそれなりにいる。それに、『乃木坂スター誕生!』のライブの観客の様子を見れば、「コールしないとライブ見れない」タイプのファンではないのは明白である。

 たとえば、もう少し、楽曲をよく聴いてみるとコールも有機的なものにできるのではないか。
 ここからいくつか具体例を書いてみるが、これに関しては私の好みのようなところが多くあるし、これにしようという提言のようなものでもない。
 ただ、もうちょっとコールするにせよ、しないにせよ、自分で選べるようになったら楽しいだろうなという話である。惰性や義務感、慣習だけでコールをしているのだけは、双方にとってメリットがないし、不誠実でもあるからやめたいよね、という話である。そして、こんなことを言うのは、そういう人が結構いたように私にはみえたからである。

 こんなことは言うまでもないが、ライブの「マスター」はメンバーであり、メンバーが望み、煽るならそれには問答無用に、脊髄反射で対応すべきということはもちろん大前提としてあることを併せて書いて置く。

本当にその楽曲のその部分は「おーい、おい。おいおいおいおい。」を求めているのか

 大前提として、既存のコールで十分必然性があり、フィットしているものもある。例えば、『ジコチューで行こう』の「坂を駆け上がって」の後の、楽譜で書くならメロディーが休符になっているところに入るようなケースは、まさにこの手のコールにうってつけと感じる。また、場合によっては、メロディーが立て込んでいる上にレイヤーしてもそれほど違和感がないこともある。
 どちらかというと、良く聴くべきはオケであり、明らかに裏や二拍目にキメが存在するのに、それを無視して上記のようなコールを行うことは、むしろ音楽という意味では衝突に繋がる。

コールがない瞬間は待ち時間なのか

 神宮公演で強烈な違和感があったのはコールのない瞬間の皆の動きである。申し訳程度に両手に持ったペンライトをゆらゆらさせているだけで、全く「踊っていない」。よく、ペンライトも振らない、コールもしないファンを「地蔵」と揶揄することがあるが、惰性でペンライト振ってるだけのファンも、全く同じものだと私は考える。
 いや、わからない。身体を揺らすに値しない、身体が揺れない音楽だと思っているなら別だが、そうではないはずである。あれだけ熱量をもってコールをする人たちが、興奮していないわけではない。
 別に決まった動きがあるわけではない。声に出さないようにして口パクで歌詞をかみしめるもよし、特定のパートを聴きながら体を揺らすもよし。そこは本当に自由だと考える。シンプルにここに関しては慣れていないだけだとも思う。

 余談だが、かつて私は吹奏楽部に所属していた。その時、演奏会を見に行ったとある強豪校は、必ずポップスは二拍目で右、四拍目で左に揺れると決めていたそうで、それをそろえるのに心血を注いでいたようである。しかし、私はそれが不気味で仕方なかった。
 音楽とチグハグ(セオリーとしては間違っていないが、鳴っている音楽をまるで聴いていない「セオリーだけの動き」という意味)した統率された動きほど気味悪いものはない。
 各々感じた通りに動くのが自然だと思うし、動かずにいられないものではないのかと思う。また、もし、そこで何もあなたが感じないなら、踊れないなら、あなたはその曲に「ノっていない」ということだと思うので、無理してノるする必要はきっとない。別に皆好みはあるし、好きな曲もあれば、フィットしない曲があるのも当然である。

パフォーマンスに対して

 個人的にはもっと拍手やクラップをするというのも一つの手だと考えている。どうしてもペンライトで手が塞がりがちではあるため難しいかもしれないが、ちょっとしたソロとかを歌い終えた後にサーっと拍手をするというのは、割とジャズとかのコンサートでよくあることである。
 アイドルだろうが、著名なバイオリニストだろうが、そこでスマートに同じように拍手を送られば、なお粋だとは思う。これに関しては、そうなっている瞬間もあるので、もっとなってもいいんじゃないかと思う。

君たちはどうコールするか?

 と、少しオタクを小馬鹿にしつつも、いろいろここまで書いたのは、意外とこういうことを思っている人は少数派ではないと感じることが多かったからである。
 全国ツアー後のTLを見ていると、一部の楽曲に関しては、というか、アンダラの時期にこれを更新していることから察している人も多いと思うが、「『踏んでしまった』のコールどうすんねん問題」というのがある。

 『転がった鐘を鳴らせ!』より早い楽曲で、君たちはどうコールするか。というか、そもそもコールしたいのか。個人的には、2サビの後の「これからどうしようか?」のくだりは、クラップの方が合うんじゃないかと常々思っているが、そこらへんはどうなのか。松尾美佑さんからの指導はあるのか。
 まとめると、皆、惰性ではなく、前例による慣習でもなく、意志を持ってコールをしようということである。そして、自分で思った通り、思い通り、誰にも指図されることなく、周りに合わせるかの選択含め、自分の意志でアンダーライブ盛り上げようぜ、ということに尽きる。
 
 ちなみに、会場が広くなると当然、音は遅延は起きているので、本気でコールをそろえたいなら、全員が音ではなく、映像(光)を見て合わせれば、理論上はほぼ完ぺきに揃うという話も改めて書いておく。

終わりに

 いろいろ尽きないわけだが、ここで「オタクの団結力」だけでビタビタにそろった、二拍目四拍目の「オイ!」が揃うのも見てみたい気もする。それも含めて自由である。そして、そこまでそろえば、それはきっと傑作。
 松尾美佑さんを始めとした、アンダーメンバーに「ヤバい盛り上がり」見せましょうや。



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