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書いてもしゃべっても、煮ても焼いても、ただのごみ

寝る前に、ふぅーっとひと息ついて、1日を振り返る時間があったらすてきだなあとずっとずっと思っていた。

実際は、そんな余裕があるというか、それを感じようとする日はめったに訪れるものではなかったり、疲れてそれどころじゃないこともほとんどだし、まだまだ寝るまでには時間が足りないということもあったり、不安やいらいらで、そんな優雅で丁寧な気分になんてなれないと思うときのほうが多い。

すさんだ気分で、すさんだ気持ちに寄り添った音楽を部屋に流したり、好きな本を読もうと思っても、ふと気になったものをネットサーフィン始めて止まらなくなったり、買い物が終わらなくなってしまったりーー。

そんな日々ばかりで、でも、それは、「寝る準備」や「寝るしたく」という時間を、意識的に自分が取ろうとしていないから、そうやってなし崩し的に、時間がないない思ってしまうんじゃないかなあとも思っていて。

だからきょう、ここみたいなオープンな場所じゃない、Wordに、きょうの日付を書いて、きょう1日のことを振り返ったり、つねにとめどなくあふれてきてたまらない言葉の数々を、書き留めようと思って、文字を打とうと試みた。

だけど、きょうの日付だけで、一文字も、なにも、書けなかった。



いざ、なにかをやろうと思って、真っ白なものが目の前に「どん」と現れても、わたしはなにをすればいいのかわからない。

つねにとめどなくあふれてくるものを、それをすべてとどめられればいいのだろうけど、それが現実的に誰もが不可能である限り、なにをピックアップしていいのかとか、自分にはわからない。

とめどなくあふれてくるものの、たまたまその時点でうわっと出てくるものが、書くものになるという、ものを書くのが好きな人がよく言う感覚は、いちばん自分もやりやすい。

だけど、その「たまたま」をとらえたところで、それ以外のこぼれたものがあることの不燃感や、いびつさが、わたしはやりきれないのだった。

同時に、「書く」ことと真正面から向き合おうとすればするほど、気持ちがこわばって、緊張して、仮に書けても、そういうことを書くために書こうと思ったわけじゃないのに、と思ってしまう。

って、なんの話をしてたんだっけ、とわからなくなってしまったのだけど、そうだ、日記の話だった。

日記の習慣は、少なくともいまの自分の日常にはきっと、馴染めないんだろうなと思う。

生きてくのがやっとみたいなときに、パソコンやスマホすら開けない状況のときに、メモ帳や裏紙に、病室だったり、家がなかったときにシェルターとかで書いて、生きていることをひとり確認していた、あのときの日記というか記録の切実さを比べてしまうと、自分が自分に許せない。

こんな生ぬるいことを言っている、過去の自分への冒涜だとも思ってしまう。

なにが日記を書くだ、と思ってしまう。あの、「日記」をつづる切実さがわかっているからこそ、書いてそこで生きていることを証明してつづっていた、一文字一文字への魂の重さに比べてしまったら、いまのわたしの一文字における魂は、生ぬるく甘っちょろいなあと。

そんなわたしが「日記」なんて余裕かまして言っていることが、許せなくなるのだ。

まるでお金持ち特有の趣味やぜいたくを、金持ちゆえに暇で余裕がある似たような属性の人たちが集まるサロンみたいな生ぬるい関係性で、うふふ、おほほとやってるような、生ぬるすぎて、ぶち壊したくなるような、あの雰囲気。

いまも、そうやって、わたしは、こんなふうに、生きることにたいして、暇で余裕がある金持ちみたいな生ぬるさでもって、こんなむだなたわごとみたいな文字を、たくさん生み出している、と思えて許せなくなる。

さいきんは、断捨離をすごくがんばっていて、メルカリへの出品をかなりハイペースでやっているのだけど、出品しながら、「高いものを買う」ということへの虚しさを、ひどくかんじるようになった。

当時、といっても3年前だったり、5年前だったり、10年前だったりで、そんなに昔ではないけれど、その当時はまだ、そのモノの価値は、値段にしっかりと反映されていた。

めったにできない高額な買い物をするために、なんどもその商品を実際に見に行ったり、ネットでもいろんな情報を比較したり、それを手にするためにどれだけがんばってお金を貯めればいいかとか。

それを手に入れたら、その値段並みの価値を感じたし、がんばって手に入れた感もあって、ゆえに愛着も生まれた。

だけど、さいきんは、リセールを考えてものを買う習慣が、当たり前になってしまった。

どうせ買うならリセールがいいわかりやすい万人受けするブランドを買ったほうがいいな、とか。

モノへの愛着が、生まれる土壌がなくなってきてしまったように思う。

やっと手に入れた高くて、いいモノたちを、いま、ライフスタイルや価値観などの変化で、手放さなければいけない決断をわたしはしたのだけど、メルカリ市場というものを知って、これまでのモノへの価値観は、変わらざるを得ない状況になっている。

大げさかもしれないけれど、たとえば、わたしは革靴がほんとうに大好きだったのだけど、10万円で手に入れた靴も、5万円で手に入れた靴も、1万円で手に入れた靴も、3000円くらいになればみんなが買う、みたいな市場が形成されている。

1万円ならまずまずのリセールだけど、5万、10万で買っても3000円のリセールだとすると、あんなにがんばって手に入れたのは、なんだったんだ、となる。

そんなふうに、「高いモノ」への幻想や価値が、無価値化されていく。

それと同様に、芸能界とか文壇だったりといった「大御所」とよばれる人だったり、その道の「大先輩」だったり、昭和レトロ感という価値をまとっていた「老舗」のお店だったりも、わたしのなかでは、メルカリの価値と同様に、そういった年季の入ったものに感じさせられる、堂々とした風貌をまとっているとオートマティックに感じられてきた価値が、さいきんはがらがらと崩れていったのだった。

それがけっこう、ショックというか、まだ自分のなかで、そうやってぐらぐらいともかんたんにゆらいだことが、さいきんは戸惑っている。

ああ、そうやって、「富士山」みたいに不動のものとして、不動の価値を感じていたものが、ある日、予兆もなく変わってしまうことってあるんだな、ということに、戸惑う。

断捨離をしようと思っても、なかなかこれまでできなかったものが、パラダイムシフトしたことで、できるようになってきたのは、この自分のなかでの「価値」の変化だ。

「自分のなかで」といったけれど、自分だけじゃなくても、そういう感覚を感じている人はいるかもしれない。

もしかしたら、時代がそうなっていて、わたしも知らず知らずにそういう風潮に飲み込まれているだけなのかもしれない。

「価値」にしがみつくよりも、「消耗品」としてとらえて、アップデートしてったほうがいいなと感じられるものも増えて、自分でも戸惑っている。

これと同じように、「文字」の重みも変わってきている。

さっき少し言ったような闘病とか非常時とかの「文字」の重みは、やはりあるというか、まだ変わらないけれど、それ以外は、別に、どこに文字をぱちぱちと打とうが、自分だけで静かに完結しようが、ツイッターで140文字でシェアしようが、アーカイブ趣味のある人以外は、こんな言葉があるのかわからないけれど「電子ゴミ」を生産しているだけのように思えてきてしまうのだ。

いや、そうではない。重みのある、魂のちゃんとこもったゴミじゃない文字もある、と自分を言い聞かそうとするのだけど、電子ゴミのイメージが、ふと気を抜くと頭をもたげてくるのだった。

なにに「価値」を置くかは、自分自身のなかにある、とはいえ、とめどなくあふれてくる言葉が現れては消え現れては消えていくように、たわいのないおしゃべりも、「たわいがない」と言うくらい消えていくように、書くこともまた、電子ゴミということでいいのかもしれない。

ともすれば、すべてごみくずのように感じて、生きていくこともできる。

ごみくずみたいな日々を、わたしは生きているんだなあとも感じる。

わたしは純情でありながらも、冷めている面もすごくあったり、かなりフェアでもあるから、ごみくずのようなもののばかりのなかで、あえてそれをピックアップして、なにかに変換したりする理由が、もはやわからない。わからないから、そうする気力が、よほどがんばるぞ、とかじゃないと、生まれない。

書いてもしゃべっても、煮ても焼いても、ただのごみ。

なにもかもに味気ないなかで、なにに色をわたしは感じればいいのか、わからないのかもしれない。

色のない世界で、色とりどりの世界を作っていく、むずかしさよ。

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