見出し画像

きみの「記念日」を前に

あしたでちょうど、この世界に生まれてきて8ヶ月になる小夏ちゃんを、「8ヶ月のバースデー」ということで、とあるレストランに行ってお祝いをする。

お祝いをするからこそ、いま思っている気持ちを、忘れないように、いいや、忘れてなんかいないーーそうではなくて、自戒をこめてーーというのも適切な表現ではないかもしれないーー忘れてなんかいない自分がここにいるということを、自分が見失ってしまわないためにも、そう、自分のためにも、いまここに、もう数時間後には出発するわけだけど、刻んでおきたいと思った。

そのレストランを予約したのは、昨日だった。Mさんが、前日にならないと、いつ休みになるかわからない不規則な仕事をしていることもあって、一緒に過ごせる日というのが、直前になってわかったりする。

そのレストランは、インスタではけっこう有名で、記念日を過ごしましたという、おめかししたわんちゃんの写真がたくさんアップもされている。

記念日には、サービスで、お店側がプレートを用意してくれることになっていて、わたしはメールで記念日プレートの希望を「有」にして、予約の前々日に送ったのだった。

そしたら前日のきょう、そのレストランから電話がかかってきた。

若めの女性の声で、とても忙しそうなかんじだった。なにを説明しても、早口でまくし立てられているように聞こえた。

わたしは人の説明は、一度聞いたら理解できるほうだと思うのだけど、何度聞いても、レストランのその女性はなにかに追われて焦っているのか(いらいらしているのも、すごく伝わってきてしまう。そういうのを自分は察知しやすいというのもあるかもしれないけれど)、相手に伝えようというよりかは、一通りしゃべって押し付けようとしているようにすら思えて、ほんとうに、さっぱりわからなかった。

ただ、どんなニュアンスを交えて伝えたいのかなあというのだけは、すぐにわかった。直前に予約してきて、それを拒むわけでは全然ないのだけど、忙しくなるから、いやだなあ、というかんじを押し付けたいんだなというのは、わかった。

だけど、事前に、犬用の特別なケーキだったり、メニューだったり、プレートだったりを準備する必要があるから、ヒアリングしておきたいというのが電話をかけてきた意図だったことが、わかりづらいながらも、次第にわかってきた。

ただ、繰り返しになるけれど、押し付けるように早口でそれらを説明をして、何を言っているのかほんとうにわからなかったから、わたしは何度かすごく気を遣って丁重に言葉を選んで質問したのだけど、それにたいして誠実に説明をしてくれることは、なかった。

さらに早口で、めんどくさくてこれ以上説明させるな、という威圧的な態度となった。

こちらも気持ち良くないので、最低限のコミュニケーションしかもうしたくなくて、説明がよくわからないけれど「じゃあ、まあ、とにかく、それはいりません、プレートだけで」と言って答えたら、向こうも、「なしでいいですよね」と答え、あ〜準備しなくてよかった〜みたいな、ほっとしたかんじになった。

それを圧をかけて、「いらない」という言質をとる方向に持っていきたかったんだなと、わたしも、電話の意図のわかりにくさへの、答え合わせできたような気持ちになった。

逆に、プレート以外もあれこれ用意してほしいと頼んだら、くそ忙しいのに、ふざけるな、とキレられていたところだろう。

じゃあ、「プレート用の写真だけ、これから至急、写メで送ってください。ほんとうは、数日前までしか受け付けてないんですけど、でも、まあ、こちらも急いでやりますけど」と、仕事上のクライアントばりにせかされて、仕事をしている気分になって、げんなりしたのだった。

カスハラ(カスタマーハラスメント)というものが、ずっと前からあったものだけれど、さいきん社会問題としてもよく取り上げられるようになってきた。

サービスを受ける「お客様」の立場のほうが強くて、サービスする側がなにもいえない、そういう弱みにつけこんで、サービス提供側に、土下座させたり怒鳴ったり、威圧的な態度をとったり、セクハラしたりするというものだ。

そういう言葉も出てきたように、「お客様」の立場とか、消費者意識も強くなっている。

一方で、「人気」のお店というのは、なぜ行列ができるのかもわからないけれど、並んでる人たちも何に並んでるのかさえ分からなかったりして、とにかく人が集まってくるものだから、それだけで、お客を見下すような態度になりがちだったり、忙しくて余裕がないんだろうけど、「対応してやっている」というような、ずいぶんお店側の態度が「強い」ところも一部にはあるよなあと、いろんなサービスを日々、受ける側として感じていた。

今回は、典型的な後者だった。

そんなとき、なににわたしは価値を感じて、そのサービスへの対価としてお金を払っているのかも、わからなくなる。

自分だけのためだったら、とっくに、そんなところでサービスを受けになんていかないし、正当な対価として支払う気持ちにもならない。

だけど、自分じゃない、Mさんと小夏ちゃんも一緒だったり、小夏ちゃんの記念日として利用するのに、個人的にはそういう気持ちになっていても、そういう「自分だけのためだったら」というのは、なかなか両立が難しい。

「すべては愛犬のため」という気持ちを人質にとられたような、カスタマーにはなにも言えない弱さと、似たような性質の理不尽さを感じる。

もやもやを抱えたまま、どう割り切るか、いろいろ思い悩んだ。

もう、ディズニーランドで1日フリーパスで遊びまくるとか、記念日、アニバーサリーとして、非日常として、そういう場を提供してもらっていること、それだけを受け取って、あとのことはもうなにも考えないで、割り切る、というのがいいのかなというのが、自分なりに出した結論だった。

よいサービスを受け取ろうとか、そういうことはいっさい考えない。

極上の寝落ちマッサージといわれる、銀座の「悟空のきもち」の入手困難なチケットをプレゼントしてもらったときみたいに、そのチケット片手に、技術的にほんとうに凝りが癒されることとか、ほんとうに寝落ちてやろうという期待は捨てて、わくわくとアミューズメントパークにいくように楽しんじゃうような気持ちみたいに、もうそれだけで、いいんじゃないかな、と。

そんなふうに考えて、最後にたどりついたことーーこれだけは、ここにしるしておきたいなと思ったことがある。

それは、記念日は記念日であって、やっぱり、記念日だからとかそうじゃないとかにかかわらず、毎日、その瞬間瞬間を、祝福していたいということだった。

記念日に、やたらこだわる人というのがいて、たとえば「結婚記念日を忘れていた夫を妻が怒る」みたいな話を聞いたりもするけれど(これってほんとうなのだろうか?わたしは何日に結婚したのかなんて、ほんとうに忘れてしまっていた。ちなみに、夫の前でこないだ第三者に「6月に結婚したんですけど〜」と話していたら、横から「ちがうよ、4月だよ」と訂正されて、「えー!?」となった。でも4月の何日かも、いつ役所に行ったのかも忘れてしまった)、記念日が大事という感覚は、世間一般よりもだいぶわたしは薄いのだと思う。

小夏ちゃんのあしたで8ヶ月というのも、毎月毎月、夫が教えてくれて、「あー」と気づく。

自分が、記念日などというのをまったく大切にされずに育ったことも影響しているのだろうか。わからないけど。

それはさておき、そんな自分にとって、だけど、あした小夏ちゃんの記念日をこうしてお祝いする意味というのは、「記念日」という非日常があるからこそ、「ハレ」にたいしての「ケ」のいとおしさがわくというところにあるのではないかと思ったのだった。

正直、「記念日」そのものの持つ意味は、一般的な感覚とはちょっと薄いのかもしれないけれど、個人的にはさほど感じられない。

先のレストランでの不快な対応のくだりがけっこう長くなってしまったけれど、そのくらい、「記念日」というだけで、それをお金をかけてまで演出するサービスに群がる人がいて、自分たちもそのなかにいて、こんなめんどくさがられるうえに消費させられて、自分だけだったら「もういいです」って言ってしまうくらいのぞんざいな扱われように、みじめな気持ちになりながら、記念プレート用の写真を写メで、もう仕事のように事務的に至急、せかされたクライアントに送って、なんだかなあとなるような、そんなめんどくさい「記念日」。

そんなして、みんな「記念日」というイベントをほしがる。こっけいで、ふしぎで、ばかばかしい。

だけど、自分だけのためではなくて、小夏ちゃんのためにやってあげたいんだという気持ちがあることは、まぎれもない事実だから、そうやってお客にならなきゃいけないのは、悔しいところだ。

だけど、そんな、人間の欲望が作り出す、そんなばかばかしいからくりの「記念日」に、こんなにも気を煩わされることを通して、だからこそ、繰り返しになってしまうけれど、記念日ではない日の愛おしさに、思いを馳せられるようにもなるのだった。

いつも「ケ」だけだったら忘れてしまうことを、「ケ」の愛おしさを思い出させてくれるために、「記念日」というものがある、そういうふうに考えることはできないだろうか。

そうやって、ハレとケを行ったり来たりさせてくれる、そんなバブのような存在が、記念日なのかもしれないな、と思ったのでした。

あしたは早いのに、もうこんな時間だから、きょうはこれでおしまい。

ほな、ちょっくら「ハレ」の世界に行ってきまーす。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?