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答えはいつもシンプルなのは分かってはいるけれど

6月11日(土)

昨日くらいから、ほしいものややりたいことが、たくさんあふれてしまって、困る。

そして、焦りのようなもの。やらなきゃ、やらなきゃと。

やれっこないのに。すべてやったらパンクするのに。わかっているのに、それを止められない。

椎名林檎さんの「月に負け犬」という曲の冒頭の歌詞「好きな人やものが多すぎて 見放されてしまいそうだ」にあるみたいに、これでは見放されてしまうだろうと思う。

そんなふうな、見放されてしまいそうで自分で自分が怖くなるような時期が、たまにめぐってくる。

だからといって、「体がもっといくつもあればいいのに」とか「1日が24時間じゃなくて48時間くらいあればいいのに」とは決して思わない。そういう自分のことを欲張りなんて言ったりもするのだけれど、正直しっくりきてなくて、ほんとうは欲張りなのではないように思う。

そんなことしたら疲れちゃうことがわかっているし、そんな時期が終わると、その反動で、無気力状態がくるのもわかっているから、できればいつも、そんなどっちか極端のような無茶はせずに、ずっと穏やかにコンスタントにいければいいのになと思っている。

欲張りは、なんでも手にしたいことだと思うから、むしろ、わたしはそんなに欲しいものなどないことを、自分でよくわかっている。なんなら、欲しがらない自分がほしい。それがいちばん楽だと思うし。

ほしくもない、そうでもないものさえ、ほしいと錯覚するような、バグった感覚を、どう飼い慣らしていいのかわからない。

なにもかもにおいて、当事者でありたいと思ってしまう。なにもかもを、自分でやってみたいと思ってしまう。

憧れと、自分のできるできないはちがうのに、そういうような時期はとくに、その線引きが自分でもつかなくなるようなバグが起こってしまう。明らかにバグってるとわかってもいるのに。

「なにもかも」と言ったけれど、それはよく考えたら、さいきんはちがっていた。さいきんは、どんなにがんばっても無理なものにたいしては、憧れとして距離を置くことができている。

だけど、いまだにやっかいなのは、これなら自分もやれそうだと思えてしまうものにたいしての、心のありようだ。

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