『悪魔の辞典』A・ビアス著、奥田俊介・倉本護・猪狩博訳、角川文庫
なんとも怪しげな書名であり、その内容もえげつない毒を含んでいる寄書といえる。辞典だから言葉の解説なのだが、そこは「悪魔」という物々しい言葉で形容される書であるから、言葉や概念のとらえかたも、「悪魔」がかっておりにたりと笑わせる薬がよく効いている。
私はときどき、こいつを書棚から取り出して言葉を意味を引いてみる。その定義の的確さに喝采したくなったり、意味がよくわからなかったり、あまりに毒気に反発したくなったりしたりもする。そして、しばらくすると、その意地悪な見方をふたたび味わいたくなってページを開く。そんな禁断の知恵の宝庫といえば大げさであろうか。今回は、「話すこと」から連想した言葉を調べてみた。
詭弁ともいえ、雄弁とは紙一重であり、どちらがどっちといえないかもしれない。相手を納得させるが、そのことに好感をもって受け入れなければ「詭弁」であり、好感をもって支持されるようなど「雄弁」であるといわれるだろう。
これは、笑えてしまう。まさにアメリカの大統領選挙戦が加熱してくるなか、この「壇」こそが、その候補者の嘘やでたらめをずっと目撃しているものはないであろう。きっと、候補者は少しでも人よりも高いところにのぼると、ついつい興奮してしまい、サービス精神が旺盛になり舌がすべるのであろう。
実際の三段論法では、大前提、小前提、結論とつながり、最初の二つの前提がそろうと、結論は自動的に正しくなると習うのだ。しかし、実際に、三段論法にかなっていても、正しくないことがあまりに多い。そんな疑問を、この定義はきれいに払拭してくれる。それは、「前提」ではなく「仮定」であったわけだ。そうみれば、「前提」だからと考えたから、導かれた間違いにたじろくのである。「仮定」だったら、素直にその「仮定」は間違いだったとわかるのである。これは、みごとに「悪魔の辞典」のおかげで、ひとつの悩み事を解決してもらった好例になる。
アンブローズ・ビアス(1842〜1914?)は、今日では技巧的な短編作家として評価されているが、生前はむしろジャーナリストとしての高名を馳せた。辛辣な風刺家として知られ、コラムニストの地位と権威を高めた新聞記者であった。不正のはびこる時代と時代精神に鋭く挑戦した。しかし、彼の私生活は、辛辣と反抗的な論調のように勇ましいものではなく、妻との別居、離婚、二人の息子の夭折など、私生活そのものは悲劇の連続であった。1913年、動乱中のメキシコに向かい、以後永久にその消息を絶った。残された全集十二巻と傑作と呼ばれた短編とともに、この警句集『悪魔の辞典』という寄書が残されていたという。
この『悪魔』の中には、ビアスの憤怒もあるだろう。正義の炎もあるだろう。軽蔑や侮蔑もまざり、嫉妬やいらだちも加えられ、寂寥や絶望も含まれているのかもしれない。しかし、どうこうあれ、ジャーナリスティックな人を見つめる熱いまなざしと、それを言葉に託していく商業魂は、どのページを開いてみても血がでるように生々しい。これは毒だ。だから、薬にもなる。ときどきならば、処方すると効果は絶大である。だが、くれぐれも読み過ぎないように。たとえどんな魅力的な蛇が詭弁を駆使して誘ってもね!
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