患者の医学史ーーリュック・ペリノ『0番目の患者-逆説の医学史』


医学の歴史のなかで、ある病気が世に出た衝撃的な瞬間、その最初の当事者、すなわち「0番目の患者たち」。発見者である医師と同様、彼らもその病気とともに記憶されてきた。本書は近代以降の医学史に現れるさまざまな「0番目の患者たち」に焦点を当てて紹介していく。

19世紀末、ジョセフ少年は、パスツールによって最初の狂犬病ワクチン被験者、そしてそれによる生存例になった。狂犬病と思しき犬に噛まれ、パリのパスツールが狂犬病の治療法を持っているとの噂を聞いて、藁にもすがる思いでアルザスから遠くパリまで連れてこられ、パスツールのワクチンで命をつなぎ止める。だが、彼は本当に狂犬病にかかっていたのか?彼を噛んだ犬は?彼の前に接種されて死んだと思しき少女は?
著者はよく知られたこの歴史的なケースに対して立てられたさまざまな疑問を紹介する。結果として分かるのは、現代の目から見れば、パスツールのしたことは危険な賭けだったということだ。

19世紀半ば、アメリカ。フィネアス・ゲージは、有能で勤勉な現場監督だった。彼は岩盤を爆破する工事の爆発事故で、なんと左頬から左目を直撃し脳を貫く重傷を負った。彼はこの事故で脳の前頭葉を損傷したが奇跡的に生き延びた。だが、「世話好きで穏やかな性格、いつも平静で正直で親切だった男は、気まぐれで攻撃的、不誠実で気が変わりやすく、下品で嘘つきの男に変わって」しまい、極めて不幸な後半生を生き、36歳で亡くなる。だが、彼のケースそのものが脳の前頭葉の機能への医学の理解を深めた。

著者の視点はシニカルで、それは本書全体をアイロニーで覆っている。一番の皮肉は、本書があくまで医師ではなく患者に焦点を当てていることだろう。高名な発見を成し遂げた当の医師はあくまで脇役。あるいは、別の医師の功績だったのではないかと疑問を挟んだり、「発見」そのものの価値のなさを暴き立てさえする。
 精神分析などの分野そのものに疑問を呈し、さらにはワクチン開発でさえ、「製薬業界の金儲けの種」扱いする。

たとえば、アルツハイマー病は、単なる老衰の一種ではないのか? 20世紀初頭にアロイス・アルツハイマーは一人の50代の女性患者に出会う。彼女は45歳の頃から妄想の症状が出るようになった。統合失調症、老年痴呆にも似たこの症状は彼の注意を引き、彼女の死後、脳の解剖をして病変を発見した。後に彼の同僚のクレペリンはこれを「新しい疾患」として発表する際に、アルツハイマーの名を冠した。だが、この病気が広く知られるようになるのは1980年代以降だ。それからこの病気は老年痴呆に取って代わって「蔓延」することになるが、名前を言い換えただけのことであるともいえる。医学の進歩が脳の研究の方法を発展させ、それで新しい病気が生まれたといえる。「アルツハイマーはこの発表で、ある疾患が増えていることと、その疾患を説明するツールが進歩したことを混同するという誰もが陥りがちな過ちを犯したのだ※1」。

※1……本書、「第七章 アウグステ アルツハイマー病のゼロ号患者」、Kindle版38%。

20世紀半ば、てんかんに悩まされていたHMという患者は、脳に器具を入れて側頭葉と海馬を焼灼するという(!)、現在考えると恐ろしい手術を受けることになった。まだロボトミー手術(前頭葉の切除)も行われていた当時だからこそともいえるが、治療の名の下に行われた人体実験まがいの研究の最たるものだろう。手術はてんかんの発作をやわらげたが、結果として彼は新しい記憶を獲得することができなくなるという重い代償を支払うこととなった。彼は手術前の古い記憶は保持されているなど興味深い症状を呈していた。HMは以降さまざまな医師の研究対象となり、記憶をつかさどる海馬の働きが解明されていった。

著者は「患者を主役に据えたのは、患者に敬意を表するための手法であり、同時に文学的な仕掛け、また歴史家としての策略でもあった※2」と述べる。さまざまな患者たちの人生の物語を語ることは、医学そのものへの婉曲な批判であるとともに、医学を別の側面からも見なければならない、という警鐘でもあるように見受けられた。現在、医学が発展し続けるなかで、新しい病気とその治療者は増え続ける。著者は「診断」と「治療」の区分の重要性を語る。診断は医師たちに独占されてきた。だが、治療はあらためて別のものとして考えられるべきだ。近代的な医学の発展以前から、民間治療的な方法が数々の病気を治してきた。「結果的に治ればなんでもいい」、という乱暴な言い方もできるかもしれない。もちろん、昨今のニセ医学などの流行を見ると、手放しにそう言うことは気が引けるが……。著者が言うところでは「理論的には完璧な作用メカニズムに基づく薬でも、その多くには臨床効果がないことが判明している※3」とのこと。

※2……本書、「おわりに」、Kindle版92%。
※3……本書、「おわりに」、Kindle版93%。

 最後に、本書を読んでの僕の意見として、「患者の物語を取り戻すこと」を提案したい。前述したように著者には医学を批判的に見る明確な意図(それが先に示した引用部の「歴史家としての策略」であろうか?)があるが、そのためでなくとも、患者の物語を語ることは社会的に非常に意義のあることと僕は思う。物語ることは常に主役の側から語られてしまう。本書の第四章で語られているが、19世紀後半、オーギュスティーヌというヒステリー患者は公開臨床講義で催眠療法の実験台にされた。それはジャン=マルタン・シャルコー教授に世界的に名の知れた神経科の医者によってなされ、やがて見世物化していく。彼女はヒステリーのモデルを演じ続け、やがてそれそのものになってしまったと言っていい。だが、人生において病気やその症状は、一部でしかないのではないか?
 症状の側から患者を見たならば、それは単なる医学史の1例に、せいぜい特別な「0番目の患者」にしかなりえない。ただ、彼ら彼女らの人生のなかでは、そのことは決定的に重要ではあるが、すべてではない。病気のその前にも、その後にも彼らには人生があった。
 本書の主役はあくまで患者たちだ。だから患者たちのそれ以前もその後もよく知ることができる。それが良きにつけ悪きにつけ、患者の人生の物語が語られること。患者たちが、僕らと同じように唯一つの人生を生きてきた存在であることを明らかにすること。本書はそのことの重要性を気づかせてくれる。

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