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「言葉の正しさ」とやらに惑わされるなよ?

「言葉の正しさ」に取り憑かれている方々が散見される気がしています。
この記事がそんな方々の気付け薬になれば幸いです。

言葉の正しさってなんですか?

最近から好例を一つ。

ポイントは「Cの次に背が高い人」をどのように解釈するかです。
私なりに少し考察を入れてみましょう。

「次に」という表現は順番の存在が前提となっていますが、その順番がA→EなのかE→Aなのかで解釈が分かれるわけです。
いま、順番を決定しているのは「背が高い」という表現ですが、ここに解釈が二分される要因があります。
なぜなら「背が高いほうからの順」はE→Aと解釈される一方、「背が高くなっていく順」はA→Eと解釈されるのが一般的だからです。
これより、前者で解釈すればBを選択し、後者で解釈すればDを選択することになります。

さて、この結果を見たら次の問題を提示したくなるのはごく自然でしょう。

論理で考えれば、BとDの選択は反転することになります。
なぜなら、改変されたのは「背の高い」という表現を対義語である「背の低い」という表現にした箇所のみであるため、前問で解釈した順番と反対の順番で本問を解釈することになるからです。

しかしながら結果はそうではなく、Bが想定よりも多くなっています。
すなわち、「背が高い」から導き出される順番と「背が低い」から導き出される順番の両方をE→Aとしている人々が存在することになります。
これは論理としては矛盾しているように見えます。

以上の問題群に対しては様々なコメントが寄せられていますが、ほとんど共通して感じられるのは「自分の解釈が正しい」という謎の自信です。
(そのほとんどがBD派のようです)

ここで私は一つ問いたくなります。
言葉の正しさは何が決めているのか、と。

学校で得たものが正しい、辞書に載っているものが正しい、その言説を否定するつもりはありません。
しかし私が伝えたいのは、言葉の正誤を決めることは言葉の本質ではないということです。
言葉は問題を出すために存在しているわけではないのです。

これを示すために、いまのシチュエーションを利用して、今度は私が問題を出していきましょう。

言葉の本質を捉えよ

③「Eの次に背が高い人」は誰でしょうか?
④「Eの次に背が低い人」は誰でしょうか?

少なくとも一方の回答はDになるはずです。
あなたはもう一方をどう回答しますか?

「存在しない」という回答、非常に多いのではないでしょうか。

確かに論理はそう言っていますよね。
順番をどちらで解釈してもEは順番の端にいるので、Dでない側に人は存在しません。

そんな皆さんにもう一つ。

本当に「存在しない」という回答をしますか?

皆さんがいまのような立場にいれば、きっと回答は曲げないでしょう。
そもそも他にどう回答すればよいか分からないでしょうね。

しかし、これが日常会話だったらどうでしょうか。

F君「このショーケース、ヤバいカードばっかやな!」
T君「《ブラック・マジシャン》のアルティメットレアが75000円でトップやな」
F君「次に安いのは何や?」

これに対して、
T君「次に安いのなんてあらへんやろ笑」
はちょっとヤバい奴じゃないですか?

T君「《13人目の埋葬者》のノーマルが45000円やな」
ってなるべきだと思うんですよね。

おそらく気づいたかと思いますが、「Eの次に背の高い人」と「Eの次に背の低い人」が同一人物を指すことは自然なことなのです。
実際に言葉を使う際には、お互いが言葉を用いて示している概念が一致していればよく、そこに含まれる論理はあまり重要ではないのです。
ですから、確信を持ってどちらもDと回答するべきなのです。

では、①②に戻った際に同じことが言えるでしょうか?
それがノーであることを結果が示してくれています。
「Cの次に背の高い人」と「Cの次に背の低い人」は一致しないという論理的解釈が一般的なのです。

ではBDもしくはDBと回答すべきなのかというと、そうでもないことは明白です。
なぜなら、自分の「Cの次に背の高い人」と相手の「Cの次に背の高い人」を一致させることが回答の目的だからです。
仮に相手がどちらもBであれば、自分もどちらもBと回答しないとコミュニケーションが成立しなくなってしまうのです。

ここで重要なのは、相手がどのような解釈をするかというのは一般的解釈などから推測するしかないということです。
ですから、あのような結果がある以上はDBと回答するのがコミュニケーションの正着に近づくことになります。
私の場合、まわりの人々がほとんどBDだと確信していますが、状況によってはBBと回答する必要があると思っています。
BDになるのは問題で出されたらの話であって、日常会話ではBBも自然になり得ると思っているからです。

結局のところ、自身の解釈なんてどうでもよいのです。
相手がどのように解釈するかを推測して言葉を選ぶことが、言葉の本質に即した言葉との向き合い方だと思います。

言葉なんて脆いものだ

少し話を広げてみましょう。

「気が置けない」という言葉があります。
(これだけでピンとくる方々も多いはず)

「気が置けない」の辞書的な意味は「気配りや遠慮をしなくてよい」となります。
しかし、多くの方々は「気配りや遠慮をしなくてはならない」という意味でこの言葉を使っているようです。

これを見て「学がない人が半数近くもいるのか」と思っているようでは、それはあなたの学がないと言わざるを得ません。
なぜなら、この話題においては「気が置けない」の《正しい意味》《誤った意味》などといったものは存在しないからです。

流石文化庁というべきでしょうか、表現に細心の注意を払っていることがよく分かります。
「正しい」「誤った」といった表現を一切使用しておらず「本来の」「本来と反対の」といった表現になっています。
言葉の正しさの拠り所があまりに曖昧であることを知っているからでしょう。

では結局のところ「気が置けない」という言葉はどちらの意味で使用すればよいでしょうか?
ここまでの話の流れを汲めば、相手の解釈に合わせて使用するということになるでしょうか。
しかし、ここで第三の選択肢があります。

こんな言葉は使わなければよいのです。

「気が置けない」という言葉の類似表現なんていくらでもあります。
そちらを使えば誤解なく相手と解釈を一致させることができるでしょう。

本来から外れた意味で使用され始めた言葉の行く末は二つに一つです。
意味が上書きされるか、もしくは消滅するかです。
本来の意味に戻そうというムーブメントがあったとしても、流行に逆らう限りそれは失敗に終わります。
それだけ言葉は激しく流動していることは、若者の言葉遣いを見れば明らかです。

絶えず生成変化消滅を繰り返しているような言葉の脆さがある中で、言葉に正しさを求めるなんてそれこそナンセンスではないでしょうか。

言葉は自由なものだ

自分の解釈が相手に伝わればよいのですから、その範囲内で言葉は自由です。

「了解する」という言葉があります。
(これだけでピンとくる方々も多いはず)

「了解する」という言葉を目上の人に使うのは失礼であり「承知する」という表現に変えるべきなのだそうです。

理屈は分かりますよ、そこまで頭悪くありません。
「了解する」と「承知する」はどちらも「わかる」という意味がありますが、「承知する」のほうだけが謙譲語になっているということです。
しかし、それを理由に「了解する」を使うのは失礼であるという結論に至るのが過剰だと思っています。

敬語を使うことが目的となってしまっていて敬意を示すという本質を見失っているように見受けられます。
敬意の示し方は敬語だけではありません。
言い方を変えるだけで敬意は伝わりますよね?
普段の敬意の積み重ねがあれば、敬語を使わなくても敬意は伝わりますよね?

相手に敬意が示されれば、その範囲内で言葉は自由です。
必ずしも敬語を使うことはないのです。

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「承知しました」を使っておけば無難なのはまあ間違いないです笑

おわりに

言葉の意味で揚げ足を取ることの無意味さが伝わったなら嬉しいです。
本来の意味とは異なっていても、それで伝われば何の問題もないのです。

言葉の正しさなんて幻想です。

(サハラ砂漠の意図は伝わりますよね)

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