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千駄木で蕎麦を食べた話

 一つ手前、千駄木で降りた。冬空のような晴天が眩しい昼下がり。何か腹に入れる心算でぶらぶらと歩き始めた。初めてこの街に踏み入ったとき、この趣は肌で感じるものだと悟った。以来、この辺は私の遊歩道となっている。だが、飯屋の暖簾をこの手で分けたことはなかった。私の心はもう決まっていた。今日は何故だか蕎麦の気分だ。

 私の知っている二軒の蕎麦屋は同じ道に面している。交差点で軽く斜めに曲がると、いつものように真っ直ぐの道が姿を現した。ほどなくして、一軒目の前で立ち止まった。並びはない。少しばかり道の遠くを見やると、そこに二、三の人影が見えた。暖簾が決まった瞬間だった。

 私の目の前、カウンターの角に席が一つ残されていることを確認し、わざと徐ろに鞄を床に置いた。そして手の消毒をした。まずは相手の土俵を知ることだ。様子を伺う寸分の時は過ぎ去り、遂に席の案内はなかった。仕方ないので席に近づくと、すぐに店員が奥から現れた。手には布巾と消毒液があった。まあ、こういうこともあるだろう。席に着いて直ぐに注文した。

 茶を口に含みながら店内を軽く把握しにかかる。左の席には中年の男と若い女。右後ろの二人席はおそらく若いカップル。右に見えているカウンターは、手前に私と同じくらいの男。その奥に四人いたが、これ以上は覚えていない。客層のレベルは高め、大方の予想通りである。それだけ蕎麦という食べ物は貴い。

 スマートフォンを触っている右の男、不思議とこの雰囲気に馴染んでいる。そもそも、私と同じくらいで昼に専門店の蕎麦を食べているあたり普通ではない。そう、こういう友人が必要なのだ。対価を惜しまず、価値あるものを享受する。私はそんな体験を求めている。そして、自分の体験のために他人の体験を欲しているのだ。こうして私の人生は豊かになるのだと信じて止まない。束の間、つけ蕎麦が彼の手元に運ばれてくると、私はふっと視線を逸らした。

 温度が下がると味が変わるんだよ、左の中年は若い女に言った。通もここまでくると盲信じゃないか、そう思った自分をすぐに恥じた。蕎麦ではなく燗酒のことだと気づいたからだ。日本酒のメニューを眺める。そのすべてが知っている銘柄、しかし飲んだことがあるのは半分に過ぎなかった。中年はかけそばを注文した。私はあまりに未熟だ、すでに店の趣に飲み込まれていた。

 気を紛らすようにスマートフォンを取り出した。昨日のあいつの記事を確認していなかったことを思い出したのだ。あいつは珍しく小説を書いていた。クサい表現が多いなあ、読み終えてまず感じたことである。しかしすぐに思い直した。それはそれで誰でも書けるようなものではない。そして、私の数十倍の速さであいつは文章を書いている。とりあえず、気は紛れなかった。カップルに蕎麦が行ったようだから、次は私だろうか。

 結局、十五分くらいで蕎麦にありつけることができた。冷やのぶっかけ蕎麦、今の私にはちょうどいいだろう。つゆを半分ほどかけてごちゃっと混ぜた。やはりというべきか、蕎麦の味は分からなかった。間違いなく美味しいのだが、それを「蕎麦のよさ」に結びつけることができないのだ。カップソバを美味しいと思っている時点で才能がないのだろう。舞茸一つ、唐辛子、海老の順で天ぷらを口に運んだ。

 つけ蕎麦においては、蕎麦はつゆにあまりつけないほうがいいらしい。ぶっかけ蕎麦ではどうだろうか。定義的には、すべてかけて然るべきだろうか。しかし、すべてかけるなんて素人の所業だろうか。よく考えてみたら、出されたつゆをすべて使わないのはよくないのではないか。そもそも私は素人なのだから、つけ蕎麦だってつけ麺のように食べるはずではないのか。

 残りのつゆをすべてかけた。そして、別に出された七味を少し振った。そのとき気づいた。この山盛りの七味をすべてかける人は、少なくとも通ではない。そういうことか、自分の過ちを甘受した。益々味が分からなくなった、そう思えたのは少しばかり成長した証拠なのかもしれない。右の男はいなくなっていた。二つ目の舞茸を口に運んだ。

 底にたまった蕎麦のくずをさらい、ふと左に気を向ける。中年と若い女は何やら真面目な話をしているようだ。サシ飲みは蕎麦屋も悪くないな、そう思った。価値ある体験が蓄積される瞬間だった。千六百五十円をカウンターに置いた。ごっそーさん、最後は自分の土俵で店を出た。

 根津のほうに歩きながら思う。かけそばの器にならないとな、クサい表現だと心の中で笑った。二軒目の人影はなくなっていた。見上げると、街灯には「文豪の街」の文字。気が紛れた私はスマートフォンを取り出した。

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