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中立に努める競技観戦者のすゝめ

東京オリンピックが開幕しました。
《開催賛成 vs 開催反対》とかいうしょうもない議論が過去のものになったことは大変素晴らしいことだと思います。

皆さんはオリンピックを観ていますか?
私の周りはどうでしょうか、観ている人のほうが少し多いみたいです。
私自身は、親が観ているときに少し観るくらいです。

さてここでは、競技観戦に対する私の個人的な思いを述べていきます。
私も表現者の端くれ、タイムリーなイベントには便乗せざるを得ません。

感情の暴力に晒されて

元々、競技観戦は嫌いでした。
今も好きとまでは言えないのですけど。

子供の頃から体を動かしたり大声をあげたりということをあまりしてきませんでした。
それもあってか、野球中継を観たときの少し引いてしまう感覚が昔からずっと残っています。
あのように感情を曝け出すことには、あまりに大きな抵抗がありました。

少し表現を変えてみます。
喜怒哀楽という言葉がありますが、喜怒は動的感情、哀楽は静的感情であるという気がします。
競技観戦にあるのは、まさにその動的感情のカオスです。
基本的に静的感情を抱えて生きてきた私は、動的感情の暴力に耐えることができないのです。

そんなこんなで、基本的に競技観戦とは距離を置いて生きてきました。

競技観戦で人間が知れる

ここまでは感情のお話。

一歩引いて物事を見ることが大事とよく言われます。
ただ私としては、二歩でも三歩でも引けるだけ引いて物事を見るのがよいと思っています。
ミクロな視点とマクロな視点の両方が物事の把握には必要だと経験的に思っているからです。

図らずも、競技観戦に関して私は四十歩くらい引いた立場にいました。
そんな私の目に映ったのは、呆れるほどの醜さでした。

敵のミスには煽り立て、敵のファインプレーには舌を打ち、味方のミスでも吊し上げ……
とりあえず叩けるところを叩いて満足できればいいというようなことでしょうか。
あまりに自己中心的な思想であって、人と呼ぶのもおこがましいと感じます。

彼らのような悪質な観戦者は、少しばかりか競技を理解してしまっているがために、ミスをつつくのだけは本当に一流です。
そんな彼らには独特の口癖があるので、良質な観戦者と見分けをつけるのは簡単です。

彼らは言うんです、そう、

「オレのほうがうまい」

とね。

競技は観戦者のものではない

何より、彼らの主張は結果論でしかありません。
競技者と観戦者ではレベルがあまりに違います。
ほんの僅か視点を動かすだけで気付くような話です。

「〇〇したら勝ってた」

言うのは残酷なまでにイージーです。

競技者はそんな低いレベルの世界で生きていません。
悪い結果に後悔するのは意義が小さいことを競技者は知っています。

「結果だけにこだわります」

競技者はよくこう言うんです。
正直、観戦者へのご機嫌取りが3割ではないでしょうか。

結果にこだわるために、競技者は日々パフォーマンスをブラッシュアップしているのです。
当日短冊に願い事を書き込むレベルの観戦者とはワケが違います。

競技者へのリスペクトがあまりに足りていないのです。
競技は競技者のもの、当たり前の話です。

「どちらも応援しません」

将棋棋士である豊島将之竜王(当時八段)が第3期叡王戦決勝七番勝負の前夜祭で発した言葉です。

その時の対戦カードは、高見泰地七段(当時六段)と金井恒太六段でした。
豊島竜王は本戦トーナメント1回戦で高見七段に悔しい逆転負けをしていました。

例えば、自分を負かした棋士にタイトルを獲ってもらいたいだとか、自分を負かした棋士を負かしてほしいだとか、何らかの理由で一方を応援すると(仮にネタでも)発言するというのが私の固定観念でした。
豊島竜王はおそらく競技者として、自分がタイトルを獲れないのならば別にどちらが獲ってもいいという当然の帰結を強く示したのだと思います。

この言葉は、趣旨は違えど観戦者にも重要な視点を提供するものであると考えています。

一方を贔屓にすると、どうしても多少の心無い言葉は出てしまうのです。
実質的に対立構造の当事者になっているわけですから、それは仕方のないことだと思います。
私も似たような経験をしたことがありますし、今後そういう立場になったらそうなると思います。
ただ私は、そういうのを極力避けて生きていきたいのです。

そんな私の結論は単純です。
どちらも応援しないのです。

どちらが勝ってもよいとしてしまえば、それだけで精神衛生が保障されます。
そして応援なんかしなくても、観戦されるようなスポーツというのはそれ自体が面白くなるようにできています。

オリンピックに合わせて、もっと鋭利にいきましょう。

自国を応援するのをやめるだけで、競技の面白さがダイレクトに伝わってくるんですよ。

念のために言いますが、これを観戦者の皆さんに押し付けたいわけではないのです。
棲み分けは簡単なのですから。

競技そのものの面白さを感じたい

そんな《中立に努める観戦者》の目線は、競技者ではなくてプレーです。
競技観戦なので当たり前の話ではあるのですけど。

素人目に見ても分かるファインプレーを見るのはシンプルに楽しいですよね。
私はYouTubeなどにあがっているスーパープレー集を観るのが結構好きで、ジャック・ウィルソンはかなりの回数観ました。

ここまで競技という表現を用いてきました。
それが野球のような身体競技であれば、身体能力が問われているのだと思います。
それが将棋のような頭脳競技であれば、思考能力が問われているのだと思います。
ただどちらにしても、共通して問われるのは判断能力だと思っています。

現在の競技で、人間の頭の中だけで閉じることができる正確な数値体系を構築できるものはおそらくないかと思います。
そうである以上、競技中の選択については数値比較できず、少なからず競技者の感覚的判断が伴います。

感覚的判断は理性の産物でありながら、理性のコントロールから離れて働きます。
理性で分かるようで分からない、そんな競技者の感覚的判断を楽しめるのも競技のよいところです。

オリンピックの競技は身体能力と判断能力で構成されるものがほとんどですね。
適当に思いついた競技を当てはめてみます。

身体能力が観戦できるのは、体操、陸上、水泳、ウェイトリフティング。
判断能力が観戦できるのは、柔道、レスリング、フェンシング。
球技全般は両方が当てはまる気がします。

自分が到底できないようなことを競技者がやって、その身体能力に驚嘆し、その判断能力に脱帽するのが楽しいのです。
だから私はオリンピックを観ます。

もし本当に「オレのほうがうまい」と確信しているのだとしたら、きっとその競技の観戦はつまらないと思います。

おわりに

(いつになくまとまりのない文章になってしまいましたので、ここで頑張ってまとめてみましょう)

私から伝えることがあるとすれば、繰返しになりますが、競技者へのリスペクトを常に意識してほしいということです。
そして、見苦しいものを極力曝け出さないでほしいということです。

競技の本来の面白さを忘れることで、悪質な観戦者は生まれます。
私は関わりたくありませんし、当然なりたくもありません。

そもそも、私は動的感情に支配されたい人間ではありません。

だからこそ良質な観戦者にもなれない私は、《中立に努める観戦者》としてコソコソと競技を楽しむことにします。
皆さんも一緒にどうですか?

では、楽しい競技観戦を。

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