見出し画像

【エッセイ】26日の日記/光(夢骨とみや)のpixiv百科事典/そういうポイ活ありませんか/投げやりカーニバル

 エッセイ漫画が流行るならエッセイ小説も流行っていいんじゃないか。これを「私小説じゃないか」と指摘する人もいると思うのだけれど、少し違う。エッセイ漫画は、漫画でありながら、カッコつけない。おっさんがデフォルメされた美少女のアバターで漫画を描き、女性絵師が飾らない白ハゲとかで自分を表すから、あれはウケている。エッセイ漫画のアバターが美男子や頭身の高い美女であったなら、きもちわるいと思われるだろう。しかしこの法則に反し、私小説はすべからくカッコいい。それは淡々と文学的な文章を見せつけられると、たとえ文中でどのように描写されていたとしても、書き手がイケメンに見えてくるからである。だから書き手がイケメンに見えないような文体で私小説を書けば、それは白ハゲエッセイ小説とも呼べる何かになるかもしれない、という可能性があるわけだ。で、そんな文体って何だろう?  舞城王太郎か?
 いや、はんつ遠藤だな。

で、話を戻すと、そんないきさつでブログを書こうと思ったわけです。
前置き長すぎですよね。僕、文字を書く仕事なんで、こういう適当なタッチの文章なら際限なく書けちゃう。YouTubeで1時間しゃべり続けられる人と同じ感覚で、1時間、ずっと文字を打ち続けられちゃう。すみません。でもなんとなく、思っていることをつらつらと文字に変えてみてます。
(長いと、誰かが「驚愕の何万文字で対抗!」とか書いてくれるかしらん)(こら!)

はんつ遠藤


 最近は花粉症でダウンしている。この文章に必要な要素だからはっきりと書くけれど、あなたたちがいま想像したものの五十倍はつらい。インフルエンザの一日目くらいつらく、昨日と一昨日はほとんど寝込むしかなかった。常に鼻水が出っぱなしで、これは体力的には「一日中ずっと号泣している」のと近い。また、時折くしゃみが出そうで出なくて、「インフルエンザの検査で鼻の奥に綿棒を突っ込まれたとき」みたいなつんざく・・・・痛みがはしったりする。体力はなく、ずっと寝てる。ただ、そんな地獄のような春休み(3月25日は阿良々木暦がキスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードと出会った日!)も抜け、今日はずっと雨が降っているからか、とても楽だ。寝すぎて腰が痛いけど、そのくらい。体力だけは、あまり戻っていないけれど。
 今日はクレジットカードの引き落とし日だった。完全に忘れてて、最初の夜間引き落としに失敗していたが、もう六回以上はこれになってるから全く焦ることがなく、夜になってからのろのろコンビニに出向いた。銀行の迷惑とかそういうのを気にする向きもありそうだし自分でも怖いけれど、たぶんその辺はシステムでなんとかなってるはずだし、それに、これが僕の限界なのだ。本当に。
 もうつまびらかにしてしまうと、今月の請求は4万円だった。来月の請求も4万円だ。僕はまず、親にもらった年間定期を買うためのお金をいったん請求にあてて今月をしのぎ、Skebの収入と兄が捨てようとしていたテレビやポケモンカードを売ることで来月をしのごうとしている。定期は4月に入り次第、クレジットカードで購入する。つまり、本当にやばいのは、5月下旬。定期代41000円+4月に使うお金が全部乗せで請求されるその日、ということになる。いまgroup inouの「LAMP」聴いてて、ちょうど「これでだめならもうだめです」って歌詞にあたった。
 ともかく今日を生きれない人間に明日を生きることはできないので、僕はコンビニに向かった。死ぬほど雨が降っていたし風も強く、また、めっちゃ寒く、僕は寝間着のうえに昨日ちょっと着た服を上下に重ね、それからトレンチコートを着て、靴下を履かず、サブ靴(サブの靴)で外に出た。予想以上に空気が冷たく、途中で手袋をした。とても暗かった。
 一軒目のコンビニではなぜか三井住友のキャッシュカードが非対応になっていたので(どうして?)、二軒目、セブンイレブンに向かった。そこそこ歩いた。出る前、親に夕食の時間はいつ頃か聞いて、「七時半くらいかな」と言われた。そのときは18:45くらいだったから、余裕だと思って外に出た。帰ってこれたのは七時半を少し過ぎたころだった。極小のWWI。世界史をまじめにやらなかったので、第一次世界大戦についてはじめに出てくる知識が、「『クリスマスまでには帰れるさ』と言って、なかなか帰って来られなかったこと」になっている。
 もっともまじめにやった教科というのはひとつもないのだけれど、数学は少しやりたい。ただ図形の問題は苦手で、なのに難しい範囲になると必ず空間に関する思考力を会得していなければいけなくなるから、難しいものは勘弁だ。中学生のころの、学校の授業や塾で、ひたすら因数分解の問題が七問くらい書かれただけのプリントを捌き続けていただけの時間が恋しい。あれより楽しいことない。いまも、ポイ活アプリとかで因数分解をするだけでAmazonギフト券がもらえるやつがあったら、死ぬほどやると思う。そういうポイ活ありませんか。
 いまの収入源は、親にもらうお金、Skeb、まねきねこGAMESでもらえるまねきねこで使えるクーポン、の三つである。こうして見るとなんて情けない人間なんだ。僕の生活はメサコン・今世・エスケープでもベスト・ファイナル・パーセプションでもなく、「親・インターネット・ポイ活」。死にたすぎる。
 花粉症がつらいぶん、また、最近幸せだったぶん、今日は久々に夜に一人で外を歩けた。何かの帰りじゃなかった。目的があるぶん散歩じゃないが、ジェネリックとしてはよかった。夜に散歩をするのが大好きだ。なぜなのかずっとわからなかったけれど、明るくなろうとする必要がないからだと思う。暗いし、寒いし、人もいないから、どんな表情をしていてもいい。僕は20歳近くなるまで自分の部屋がなかったし、また家族の顔をうかがわないといけない精神環境で育ったから、「根暗がバレてはいけない」という観念を持っている。根暗がバレると、無理にでも聞きだされてややこしい問題に発展する、という確信があったからだ。学校でいやなことがあっても体調が悪くても黙って学校に行くのが僕の処世術であった。それだから、不登校でもなかったのに10代がつらかったと主張する、謎の人間にもなってしまった。ダブスタを防ぐために併記しておくと、楽しかったことも、たくさんあった。
 閑話休題。夜の、人っ気がない近所を散歩していると、暗くても許される気がする。そういう自分でいてもいい気がする。本当は自信がなくても、劣等感にとらわれていても、正の方向にも負の方向にも何も進まない。夜の外は時計がなく、だから時間が止まっている。これ以上暗くもならないし、明るくもならない気がする。
 ああ、うむ、それが好きなのかもしれない。朝はいつか昼になるし、昼はいつか夕方になるし、夕方はいつか夜になるけれど、夜だけは、朝にならない。夜はどう考えても直接朝にならない。朝は昼になりそうだし、昼は夕方になりそうだし、夕方は夜になりそうで、それがいやだし、寂しい。せわしない。朝と昼と夕方は自分が自分に敷いた自分像を守っていないといけない気がする。時間が進んでいるから。でも夜の外だけは、進んでいない気がする。ポーズ画面みたいなやすらぎがある。ロックマンで安全地帯があるとめちゃくちゃうれしくて思わず立ち止まるのと同じ、あれだ(僕はロックマンが結構好き……)。人工的な街灯とコンビニの看板のみで示される定量的な明かりは、これがいつか朝になるなんて珍事を匂わせない。
 そうだコンビニだ。コンビニで、蒙古タンメンとストゼロと、レモンとライムのサワーを買いました。9%ロングが二個と蒙古タンメン。金もないのに買った理由はさびしかったから。こういうときに買うお酒は意志性において自殺と一緒であり、「最悪死ねば全部大丈夫になるか……」で全部乗り切っていた10代のころと同じく、「最悪体壊すか……」という最後の選択肢の《におい》が生活に漂っていることで、なんとかなることがあるのだ。だからこれは全部冷蔵庫にしまっておく。いつか飲む。
 ↑ここまででちょうど3333字らしい。
 色々振り返ってみたんだけど、やっぱりどう考えても僕は明るい人間ではない。的外れもいいところだ。最近、底抜けに自信家でメンタルの強い自分と死ぬほど根暗でメンタルの弱い自分が二人いることに気づいた。インターネットには前者を頻繁に出している気がするけど、無視できない頻度で後者が顔を覗かせているのだとは思う。ただ前述の通り僕は「根暗がバレてはいけない」という信念(哲学的意味での)を抱えているから、隙を見せないことに執心してきた覚えがある。めちゃくちゃ傷ついたことをキレ芸でごまかしたりしてきたこともあって(バイト先の店長にLINE無視されてたこととか)、そのたび、でも、嘘だと知っていても、うれしかった。それも本当になってる気がしたんだよな。いまgroup inouの「CRISIS」聴いてて、「金がない」って三回歌ってた。僕にとってインターネットって嘘を本当にする機械で、それは変身ヒーローの変身アイテムでもあるし、あるいはフィクションの小説を読んでノンフィクションの感動を得ようとするような脳の動きそのものでもあったし、要するに武装だった。好きなキャラ、好きな曲、好きな口癖で武装することが僕らには可能だったし、自分をキャラクター化できていたし、夜咄ディセイブ歌うのが似合うって言われるのが人生で一番嬉しいに決まっている。それはたとえば血液型やMBTIで自分を語るようなものでしかなくて、ちょっとシャバいだけの行いなんだけど、でも営みだったんだよ。そういうのがまたどっかでできるといいな。
(全然関係ないけど、こういうのっていまのVTuber文化の本質だと思う。人がガワを使って変身し、武装したエモを繰り出すことに成功している。「もっと『なりきり』をしてほしかった」として批判されがちな文化だけど、個人的には、あれは単純な生主の発展系じゃなく、全く別のもうひとつの熱い理想を叶えてくれてると思うよ。生主の発展系としてのVTuberをやっている人も、もちろんたくさんいるけれども。)
 ちなみにこの願望ってエヴァに全否定されてるんだけど、でも僕はエヴァが好きだ。最近全部見た。
 ウルトラマンティガの最終回では、子どもたちがティガと同化するんですよ。みんながウルトラマンと一緒になって、闇と戦う。圧倒的な輝きを放つヒーローを前に劣等感で絶望する必要はなく、「人は誰でも自分自身の力で光になれるんだ」というのがティガのテーマ。特別な力がなくても思想や願望だけでヒーローと同じきらめきを宿すことができる、というのが『ティガ』の考え方。庵野秀明さんはそれを「夢(=虚構)に逃げた」と言っていて、対して『エヴァ』は「現実に帰っていった」と言っている。「光になれるのなんて一部の才能ある人たちだけ。そうなれない人たちは地に足をつけて自分を確立し、虚構と決別して大人にならなきゃいけない」というのが、たぶんエヴァのテーマだと思う。
 僕はどっちも本気でそうだと思っている。「なれる」と「なれない」を両方本気で信じていて、わりとぐちゃぐちゃだ。
 僕の書いた『メサコン・今世・エスケープ』って小説は、人助けの才能がないのに動かずにはいられないメサイアコンプレックスの女の子が、メサイアになることをあきらめる話だ。でも、べつに全否定じゃなくて、それぞれにそれぞれの落としどころがあるだろう、という終わり方になっている。あれは現実を見て希望をなくす話なんだけど、それは「これから先、未来永劫、希望を抱くべきじゃない」という意味ではない。あくまで、希望を土に埋めるだけ。「人は誰でも自分自身の力で光になれるのか、はたまた、なれないのか」、その答え合わせを、うやむやにして、無責任に指図してくる大人たちを、全員ばかにしてやった。苦しかったし気持ちよかった。短編集であのあとに収録した『ベスト・ファイナル・パーセプション』は、前作と決別するための作品ではあるんだけど、でも、あれは「説教」みたいなもんなので(いや、これも少し違うんだけど)、思想的な意味、および「言いたいこと」的な意味では、『メサコン・今世・エスケープ』を上回るものは、やっぱり一生書けそうにないと思う。
 「光になること」、これが僕の人生の中で最も重要なテーマである。「光になる」ことは、「夢を叶える」こととも、「恋をする」こととも、「人気者になる」こととも、「誰かを救う」こととも、「希望を持つ」こととも、「正義である」こととも、「虚構と自分を同一視すること」とも、少しずつ違う。宗教じみていると言われたらそうなのかもしれないが、ともかく、そういった信条(心情)があり、僕はこれにかかわるような内容で誤解されることをひどく嫌う。こうした部分は時折、気難しく見えていることだろうと思う。
 思えば僕の書く文芸の多くは、光と影の二項対立である。特に二作目の本『メサコン・今世・エスケープ』に収録されている短編は、じつはすべてがそうだ。光である虚構存在と、光になりたくてもなれない影である人間存在。光は常に正しく、潔く、本人なりの葛藤の中でも、運命的に正解を選び取り続ける。対して影は優柔不断で、くねくねといつまでも生き汚い。そしてそのどちらもが美しいと本気で思う。これは高三のときに書いた『蛇足的最終回倫理』という小説に顕著で、正直文章がザコいのだが、いままでにあなたが読んだこの記事の文章より短いから、よかったら読んでほしい。

 ところで、むかし『囲われペンギン、きみとぼく』という本を出した際、あとがきに「これは『自殺を肯定することで自殺を否定する話』だ」みたいな文を書いた。これはあまりにも自然に自分の中から出てきたフレーズだったため、きちんと意味を特定できてはいないのだが、いま考えるに、たぶん、上記のような感じのことを言いたかったのだろうと思う。死と生を同時に肯定したい。光と影を同時に肯定したい。憧れと怠惰を共存させたい。
 創作家として出し惜しみはよくないことだと学んでいるため全部言ってしまうけれど、高二のとき、知り合いが自殺した。明るいと思っていたらいつの間にか不登校になってて、いつの間にか死んでいた。知り合いでしかなかったけれど、とても驚いた。そのときの衝撃は、さすがに薄れこそすれ、未だに残っている。
 でも、学年中のやつが、その「死」に、ほとんど関心を持たなかった。朝に学年集会が行われ、いけすかない性格の校長が「〇〇くんがお亡くなりになりました」と言っても、みんなダメージを受けず、なんなら「知らねえよ」「かなしい~(笑)」とネタにしてもいた。中には噂で自殺だと知っていたやつもいただろうに。中には直接その原因になったやつもいただろうに。
 僕はそのとき、「死に意味が与えられないなら、生も然りということになってしまうじゃないか」と思った。僕みたいな人間には一言で伝わることだと思うが、自殺というのは、最終手段みたいなところがある。自分をばかにしたり、傷つけてくるやつも、最悪自分が死ねば罪悪感を抱いてくれるだろう、と思える。でも、彼の場合は、そうはならなかった。僕はそれが信じられなかったし、ショックだった。僕の世界はあのとき壊れたのに、肝心のいやなやつらの世界は無傷だった。一人の人間が、苦しみ、悩み、それでもどうしようもなく、最終的にとった決断、あるいは単純に人生の総括。そんな「死」が笑われて終わるだけなら、生きてるのだって、意味がないじゃないか、と思った。でもそれは間違っているということだけは常に疑わずにいたし、ついに僕はそこにだけは屈しなかったし、抵抗のために筆も執るようになった。
 だから僕は、死と生を同時に肯定することにこだわっている。最悪、美しく死ねるなら、それまで生きたことにも意味が生まれるものだと思うから。|美しい自殺を書くことは世界の素晴らしさを語ることと同じだ《・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・》、というのが、『囲われペンギン、きみとぼく』を書いたときの信念だった。いまでも半分そう思っている。あくまでフィクションの方法論としてにすぎないが(ふつうに知り合いの自殺なんか見たら、死にたくなるに決まってる)。
 ともかく僕の本は、そんなふうに、第一作が「死と生」、第二作が「光と影」の同時肯定の話だったということになる。第三作はどうしようか。そことは全く関係ない本になる可能性も高い。
 ゲームのプレイヤーはゲームのキャラクターにはなれない。不思議な構造だなと思う。
 僕の本質は影だ。わからない人のことを完全に無視して書けば、イーヴィルティガだ。つまり偽物である。しかし僕は生半可じゃない偽物なので、可処分時間のほとんどを、自分が本物であると思い込むことに費やしている。それでこそ偽物である。偽物という生き方にもうちょっと誇りを持ちたい。もっとも、そこに全く気がつかないからこその偽物なのだけど。
 花粉症と金欠が怖い。寒い日だから気をつけろ。






売りもの。全部おもしろい。



質問箱。ないと死にたくなる。



個人サイト。かっこいい。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?