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『悪は存在しない』のラストを考える

『悪は存在しない』を見て、どうしても考えをまとめなければと思いましたので、本記事にまとめてみます。

※本記事には作品のネタバレが含まれています。まだ見ていない方はご注意ください。





本作を見られた方は、衝撃のラストを見て、驚かれた方も多いと思います。
私自身かなりの衝撃を受け、最初何が起こったのか全く理解できませんでした。
ただ、後から考えてみると、自分なりにこうだったのではないかという考えができてきたので、記事にまとめようと思いました。

自分なりに考えたことをまとめますと、
「巧は自分が娘を殺したことにしようとした」のではないか、
ということです。
なぜこのような考えに至ったのかを、順を追って説明してみます。

まず、ラストの意味を考えるにあたって、中盤にあった「会社と地元住民との説明会」のシーンについて思い出してみます

1.区長の上流〜下流の発言


説明会の中で、区長が発言を促され、語った言葉があります。
それは、川では上流で起こったことは必ず下流に影響を与えるものである。
なので、上流に住む人には下流に住む人のことを考慮して暮らす義務が発生する、といった内容でした。
作中では、グランピング施設ができることで、下流に住む人に影響の出ないようにしてほしい、という内容でしたが、これは他のケースにも当てはまります。
例えば、芸能マネジメントをメインにしている会社側のケース。
社長が補助金目当てに始めたグランピングというビジネスに対して、全然やりたいと思ってもいない社員達が現地に行かされ、地元住民に説明する羽目になっています。
上流である社長が間違った方向に進むことで、下流である部下達に影響が出てしまっています。

さて、自分がなぜラストを考える上で、この区長の発言を取り上げたのかというと、ラストで巧がとっさにとった行動が、この考えの元で行われたのでは無いかと考えたからです。
どういうことかというと、あの場面、娘である花が手負の鹿に襲われたことで倒れていました。
もし野生の鹿に子供が襲われたとあっては、グランピングの話は白紙か、キャンセルされる可能性が高いです。
そうなってしまえば、地元に歩み寄ろうとしていくれていた会社の二人の努力は無駄になり、グランピング場ができることで地元が活性化する可能性も無くなります。
つまり、巧を上流とすると、下流の人たちに影響が出てしまう。
なので、鹿に襲われたということにせず、自分が殺した(あるいは心中しようとした?)ことにしようとしたのでは無いでしょうか?

これは他の方も書かれていましたが、巧は娘を抱いて、来た方向ではなく、山の方へと進んでいきます。
この時点で娘が生きていたかは不明ですが、どちらにせよ助けようとするなら、元来た道に急いで連れていくはずです。
つまりこの時点で、娘を助けようとはしておらず、もしかしたら自分自身も戻るつもりはなかったのでは無いでしょうか。

自分が娘を殺したことにしてしまえば、もちろんニュースにはなりますが、グランピング計画がキャンセルされる可能性は低いです。
さらに芸能会社の高橋(男の方です)を気絶させるくらい首を絞めたことで、危険な人物だったという証言も取れます。
加えて、恐らく先立たれた妻を追ったのでは、というような想像をする人も出てくるでしょう。

あのとっさの瞬間にそこまで考えたのか、あるいは探している途中からすでに考えていたのかは不明ですが、一応辻褄は会う気がします。

彼は上流に生きるものとして、下流の人の存在のことを考えたのではないでしょうか?


2.説明会で語った巧の言葉

説明会では巧も発言していました。
内容としては、自分たちもこの土地に自然を破壊して住み着いてきた、いわば部外者であり、あなた達と大差はないかもしれない。
部外者として大事なのは、バランスである。やりすぎは良くない、といった内容でした。
巧は常にバランスを大事にしており、物事をできるだけみんなの納得いく形で進めたかったのではないでしょうか?

本作では2つの対立構造が出てきます。
ひとつは「地元住民」と「グランピング業者(芸能会社)」との対立。
もうひとつは「人」と「自然」との対立。

グランピング業者は、杜撰な計画のまま、地元住民の同意を得ず、開発を進めようとしました。要は、やりすぎたわけです。
また、娘の花は、いっさい悪気はなかったとはいえ、手負の鹿に近づいてしまい、攻撃されてしまいました。
二つとも、バランスを崩してしまったのです。

巧は、バランスを保つため、2つの対立構造において、自分が犠牲になることでバランスを保とうとしたのではないでしょうか?


まとめ

以上のことから、私は「巧が、自分が娘を殺したことにしようとした」のではないかと考えました。
この作品は、監督がインタビューで、観た人それぞれで考えてほしい、といったようなことを語っていたように、正解はないと思います。
観た人の数だけ、考え方があります。
自分も、2回目を見ると考え方がまるっきり変わっているかもしれません。
ただひとつ言えることは、この作品がここまで考えさせられるくらい良い作品だったということです。
濱口監督の作品は、新作が出るたびに劇場へ足を運びたいと思うようになりました。




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