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黒い紳士

 あの夜、黒い紳士はやってきた。ほとんど眠りかけていたわたしに気を遣ったのだろう、黒い紳士はわたしの傍らに腰をおろしたまま、何も語らず、ただそこに居た。
 わたしは最初、恐怖を感じた。黒い紳士は闇に溶け込み、あまりにも自然なかんじでそこに居たから。自然すぎることに、恐怖を感じた。けれど、心のどこかでこうなることも予感していた。そろそろ来るんじゃないかと、漠然と──いや、それは嘘だ。今夜、黒い紳士がやってくるだろうと、わたしは確信していたと言っていいと思う。

 それならばと身を起こし、黒い紳士のすぐ隣にわたしも座る。
「静かな夜ですね」
「ええ、静かな夜です」
 黒い紳士の声は穏やかで、音のひとつひとつが闇へと沁み込んでいくような、不思議な落ち着きがあった。
「貴方が来る予感はしていました」
「そうですか……それで、いまどのように感じていらっしゃいますか?」
「畏れと諦め……でしょうか」
「畏れとは?」
「貴方という存在に対する、絶対的な信頼も含めての畏怖……だと思います」
「絶対的な信頼?」
「貴方は裏切らない。かならずわたしのところへやって来る、という信頼です」
 わたしの言葉に、黒い紳士はすこし笑う。
「では、諦めとは?」
「貴方がこうしてわたしのところへやってきた、ということは、わたしは何かを諦めないといけないでしょう?」
「何かとは?」
「……いまはまだわかりません。まだ、わたしは貴方の手を取っていないから」
 黒い紳士はふたたび笑った。先ほどよりも、嬉しそうに。
「まさに、おっしゃる通りです。あなたはまだ、私の手を取っていない」
「……ええ。まだ」

 それからしばらく、わたしたちは言葉を交わさなかった。黒い紳士とのあいだで沈黙が静かに揺れ、ずっとこの時間が続いたらいいのに、とも思ったが、時は満ちるものだということも、わたしはちゃんと知っていた。時が満ちるまでに、黒い紳士に対して何かしらの回答を提示しないといけないことも、わたしはちゃんと知っていた。

「それで……」
 いよいよ黒い紳士が切り出す。その声に込められたわずかな憐憫を、わたしは逃さなかった。
「はい」
「いかがでしょう?」
 落ち着いた調子で黒い紳士は問いかけてきたが、わたしは先ほどの憐憫を忘れてはいない。確実に、この黒い紳士は、わたしに対して、憐憫の情を抱いていた。
──ならば。
「わたしにはまだ、貴方は必要じゃない」
 黒い紳士をまっすぐ見据えて、一言一句はっきりと発声する。

 わ・た・し・に・は・ま・だ
 あ・な・た・は・ひ・つ・よ・う・じゃ・な・い

 黒い紳士の視界から逃れようとしてはダメだ。誠実に、丁寧に、嘘偽りのない言葉を発するべきだ。
「……そうですか」
 黒い紳士はそう言うと、スッと立ち上がった。その背丈は2メートルを優に超えていたので、座っているわたしを見下ろすために、黒い紳士はヌッと前かがみになる必要があった。そんなわたしたちを傍から見たら、とても恐ろしい光景に映るだろう。でも、わたしはもう知っている。

「最後に……理由を聞かせていただけないでしょうか?」
 闇に消えゆく間際、黒い紳士は小さく漏らした。それはおそらく、イレギュラーな問いなのだろう──黒い紳士の“役割”としては。そして、わたしの答えによっては、その役割すら脅かされることになるかもしれない。でも、正直に伝えるべきだとわたしは思った。

「貴方は優しすぎる」

 言い終えた瞬間、そこにはもう、黒い紳士の姿はなかった。

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