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Physical

「やっぱりドラッグとかはヤバイよ、ビートニクはもう捨てなさいよ、ビートたけしまででいいよ、ビートニクは」弟はそうつぶやきながら殴打。私は腫れ上がった左目を抑えつつ徘徊先を探して徒歩にて栄まで向かった。

霊感の閃きによって、背後霊を「楢山節考」よろしく背負い、あらかじめ地中深く埋められた一つの瓶の液体から生まれたドブ川の源流へと遡り、辿り着いたのは住宅街の中でひっそりと営業している喫茶店だった。先に「楢山節考」と例示はしてみたものの、それは深沢七郎の小説ではなく、むしろたまたまテレビでみた老婆を背負った緒形拳のイメージではあった。

主婦たちが集う午後、ファンシーなソファに敷き詰められた、ファンシーなクッションを投げ捨てると、喫茶店は鏡張りの密室であった。ウェイトレスが半開きの唇で告げる。「コーヒーは何も轢きたてでなくとも、ましてや冷めきっていたとしても、ノドを滑り落ちる感覚は淫靡でそんなに悪くはないと思います」

そのウェイトレスの娘は特に右斜め下から眺める顔が美しい。おそらく写真に映るときは決まって自らその角度で顔を作っているのに違いない。私がメニューを開きながらも、いつまでも注文せずにいたため、しびれを切らした背後霊がコツコツとメニューを爪で叩いた。


「そういう覚醒剤とかの話はさ、フィクションだからいいわけであって……」

隣のテーブルを占拠した主婦は皆、ギラギラとした目付きで創作について語らい、自分たちの退屈しきった日常から気を紛らわせているようだった。

「つまり、あらゆる小説というものは拡大解釈で成り立っているわけ。作家自身が経験しようがしまいが、それは彼の妄念/妄執の彼岸において形成される、一つの呼称であればいいと私は思いますよ」

店主はコーヒー豆を轢き潰しながら、ほかの客をはばからぬ大声でしゃべり散らす主婦たちを忌々しそうな表情で睨みつけていた。

「ドラッグ体験を知覚経験そのものとして描かれた作品に意味はないのであって、ラジオからラジオの話きいたって、テレビでテレビの画ずっとみてたってさ、つまんないわよね。それと一緒で。死んだ人の話、死んだ人に向かって話してるみたいで」

どうも彼女らの話す内容が自分に対しての当てつけのようにきこえていたが、それは被害妄想というものであろう。時折、背後霊が感心したように頷いているのが癪に触る。

ウェイトレスは自身の乳房を半分さらけ出しつつ、コーヒーを二つ運んできた。一杯は私が、もう一杯は背後霊が飲む分だ。フレッシュを注ぎ人差し指で冷めたコーヒーをかきまわすと、表面に独りでに「地獄」と書かれたかのようにみえた。

隣のテーブルで文芸談義に華を咲かせていたとばかり思っていた主婦たちは、今度は機関銃の玩具を手に「怪、談……」などと言ってふざけ合い、大声で笑いを響かせた。先日までオカルト専門誌で怪談の連載をしていた私は屈辱のあまりに思わず拳を固くしたが、すぐにそれが自身の被害妄想に過ぎないことを悟り、ことさら恥ずかしさに身をよじる。

テーブルに置かれたコーヒーカップの中から、親指大の中年男性が身を乗り出し、「こんにちは。私は幽霊です」とつぶやきながらフレッシュとコーヒーまみれの裸体でのたうってみせた。

それは私の屈辱そのものかも知れなかった。カップから躍り出た中年男性はテーブルの上を這いずりまわり、端から床へと転倒。そのまま姿を消してしまった。

後にはただ、テーブルの上に「さらば」と褐色の文字だけが残された。なんだか嫌な気分になった私は、コーヒーを口にすることなく店を出てしまった。

店主が「そのうちいいことありますよ」と、レジの前で微笑んでくれたことだけが救いだった。



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