病気をネガティブに捉えていませんか? 〜在宅ケアの現場から〜
訪問看護師が伝える「病気・健康・死」をテーマに、「もっと自分を大切にして、健康で豊かな生活」を送るために必要な情報をお届けします。
看護師として病院や地域、在宅での現場を見てきた中で強く感じたことがあります。
●「医療を頼りにしすぎて、病気や不調を病院に行けば治してくれると思っているところはないか(自分の中に治る力があるということを知らない)
●自分の希望を押し殺して、まるでなかったことのように考えることや伝えることもあきらめていないか(他者を優先しすぎていないか)
●その人のこれからを左右する選択を、考えたくても考えられない状況の中で決めていないか(尊厳を代行する立場の人の在り方)
そして、治療を選択することは「生き方」と選択することに繋がるので、自分で選択できる力をもつ必要があるということです。
医療は社会の仕組みや在り方を表します。
健康―病気―医療―看護・介護―死―社会の仕組み 全て繋がっています。
今の現状をみたとき、本当にそれでよいのかと思います。
病気や健康に関する情報も溢れています。自分にとって必要な情報を選択するためには、まずは「自分の意識・捉え方」を見直す、変えていくことが必要です。
では何を見直し変えていけばよいのか…
「自分の人生を選択する力」を身に着けるために
今日はまず「病気」について、フロレンス・ナイチンゲールが残した言葉からも紐解きお伝えします。
最初にお断りしておきますが、ここで言う「看護」とは、決して看護師のみを対象にしている内容ではありません。医療や介護、福祉などに携わる皆様は勿論ですが、自分自身や家族のためにも役立つ内容になっていますので、是非ご覧ください。
病気に対する一般的なイメージ
さて、皆さんは「病気」というと、どのようなことをイメージし、考えるでしょうか?
病気とは、について、Google検索で日本大百科全書をみたところ、何ページにもわたって様々な分野の先生が説明されているのを読むことができます。
百科全書に書かれていた多くの先生の言葉をおおよそまとめると、以下の言葉に集約されるのではないかと思います。
「病気とは、身体や精神になんらかの異状があり、日常的な活動が困難であったり苦痛を伴うような状態をいう。しかし、病気であるかないかの区別は、ヒトという生物としての条件は同じであるにもかかわらず、社会や時代によって異なる。」
「病気」というと、このようにネガティブなイメージを持たれる方が多いと思います。
ナイチンゲールの6つの言葉
ナイチンゲールが伝えた「病気とは」は、全く違っています。
以下、「ナイチンゲール言葉集」看護への遺産(出版:現代社)から抜粋した6つの言葉をご紹介します。
「病気とは何か?病気は健康を妨げている条件を除去しようとする自然の働きである。それは、癒そうとする自然の試みである。われわれはその自然の試みを援助しなければならない。病気というものは、いわば形容詞であって、実体をもつ名詞ではない。」(F.ナイチンゲール)
⇒ナイチンゲールは病気を「悪いもの」として排除していません。病気を単体として捉えるのではなく、様々な環境の中で生活する「人」と一緒に捉えています。この「病気」の捉え方こそ、「健康」を考える上で土台となる視点になります。
「全ての病気は、その経過のどの時期をとっても、程度の差こそあれ、その性質は回復過程であって、必ずしも苦痛をともなうものではないのである。」(F.ナイチンゲール)
⇒病気にも段階があります。今でいう未病や不調と呼ばれる段階では、例えば、どこかの臓器にがんがみつかっても、その診断を受ける前に本人が苦痛を感じていないこともありますよね。だから健診を受けて早期発見しようということになっていますが、病気という状態は、常に回復過程で、異物を除去しようとしているのですから、がんがどこかには発生したとしても、自分の生活を見直したり、ストレスがかからないように注意することで、検査などで発見される前に治癒している場合もあるのです。
「病気とは、毒されたり衰えたりする過程を癒そうとする自然の努力のあらわれであり、それは何週間も何か月も、ときには何年も前から気づかれずに始まっていて、このように進んできた以前からの過程の、そのときどきの結果として現れたのが病気という現象なのである―。これも病気についての一般論にしよう。」(F.ナイチンゲール)
「今われわれは、病気というものを、あたかも犬や猫が存在すると同じように、存在していて《当然》なひとつの存在とみなしているが、不潔な状態とか清潔な状態などと同じように、私たち自身の手でコントロールできる状態と見なせないものであろうか。いいかえれば、病気とは、私たち自らの手で招いてしまったある状態に対して、自然が思いやりをこめて働きかけてくれている、その状態だと考えられないものであろうか。」(F.ナイチンゲール)
⇒私たち自らの手というのは、決して病気になったその人のみを指すのではなく、社会全体として捉える必要もあります。一言で言うなら「ストレス」になりますが、「ストレス社会」という言葉があるくらいですから、「個人の責任」では片付けられない社会の構造や仕組みも病気に関係してきます。どちらにしても、「病気」という状態にして「立ち止まって見直して」という警告であり、それでも自分の身体を大切にすることをしなければ、今の生活を強制終了=入院ということになるのです。
「病気や疾病とは、健康を阻害してきたいろいろな条件からくる結果や影響を取り除こうとする自然の〔働きの〕過程である。癒そうとしているのは自然であり、私たちは自然の働きを助けなければならないのである。」(F.ナイチンゲール)
⇒私たちは、「病気」という警告に気づき、回復過程を医療任せにせずに、自らも病気に至った原因を取り除き、回復を助けるような食事や睡眠の見直し、リラックスできる環境をできる限りつくっていかなければならないということです。
ここで一つ共通認識しておかなければいけないのは、ナイチンゲールが生きた時代背景です。イギリスヴィクトリア朝時代(日本では江戸末期から明治時代)、産業革命で近代化する一方、人々の階級格差も大きく広がり、下層階級者の住む場所も劣悪で感染症も蔓延。衛生面や医療も整っていなかった時に暮らす人々が対象になっているということです。
「看護」にあたる女性たちも、病人の世話・ケアについて学んだ経験はなく、おおよそ病人の世話などできる人はいなかった時代となるため、病人の世話をする人(看護)の重要性を説きながら具体的なケアの仕方、向き合い方まで伝えています。
病気を個人だけの問題にしていない、社会環境や暮らしの中での「病気」と捉え、ケアする人、建物、教育など、あらゆる分野から病気の原因、要因を捉えていることが、極めて重要です。
更に、こうも述べています。
内科的治療も外科的治療も障害物を除去すること以外には何もできない。どちらも病気を癒すことはできない。癒すのは自然のみである。外科的治療は手足から治癒を妨げていた弾丸を取り除く。しかしその傷を癒すのは自然なのである。(F.ナイチンゲール)
薬を与えることは何かをしたことであり、いやむしろそれがすべてであり、空気や暖かさや清潔さを与えることは何もしていないことである、という確信がなんと根強く行きわたっていることか。
私の答えはこうである。「それらの病気や、その他これに類した多くの病気に対しては特定の医療や療法が用いられているが、それらの正確な価値は決して確かめられていない。一方、看護に目を転じれば、病気の成り行きを決定するうえにおいて、注意深い看護がきわめて重要であるということは、至るところで、あまねく経験されているのである」(F.ナイチンゲール)
ここでは、「治療」と「看護」について述べていますが、現代医療にも全く同じことが言えます。
このことは、また次回お話したいと思いますが、今日お伝えした「病気とは」は、医療の選択、健康管理、社会の在り方を見直す上でもその土台となるものになります。
冨澤文絵プロフィール
20年以上看護師として終末期医療、地域医療、在宅医療の現場を経験。
2015年には中野で「しいの木訪問看護ステーション」を立ち上げ。
在宅での看取りや旅立ちの日まで地域で暮らす人たちに深く関わった。
現在はNPO法人コミュニティケア・ライフの代表として、
地域の中で最後まで自分らしく生きるためのコミュニティの創出を目指している。
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