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写真の価値の本質・・良い写真の本質はなんだろうか・・情報伝達と写真の創作

写真の価値はどこにあるのか

筆者も写真を撮る者として、自分なりに良い写真を撮ろうと日々努力しているつもりである。

良い写真か否かは、極めて主観的で曖昧であるから、他人の評価は気にしないつもりではいる。しかし、やはり人である。SNSに投稿した写真に「いいね」がたくさん付くとやはり嬉しいものである。で、その「いいね」の付き方を見ていてあることに気がついた。この写真を見ていただきたい。ただの干し柿の写真である。

干し柿

単に、干し柿に白い粉がふいたことを伝えたかったわけだが、このなんのへんてつもない写真に普段よりも多くの「いいね」が付いたことに驚いた。

写真を見る側にとって、関心ごとは何が写っているかが第一義であって、写真としての良し悪しはあまり関心ごとではないのではないか・・その時私は気づいたのであった。

上記写真を見た者は、「干し柿」という情報に関心を持ったのであって、「写真」に関心を持ったわけではないのである。この状況を例えて言うと、写真の看者の気持ちは、干し柿で有名な「市田柿」を宅配の配達員から受け取った受領者の気持ちと同様であろう。
写真に写ってる干し柿のイメージが宅配された「市田柿」に相当し、撮影者は宅配の配達員に相当する。すなわち、撮影者は、イメージを看者に配達しただけである。

このような写真の場合、写真の価値の本質は、干し柿のイメージそのものであり、写真という創作物にあるとは言い難い。

映像伝達者(情報伝達者)としてのカメラマン

このように、写真の価値が写っている被写体の映像にのみある場合、撮影者は、A地点にある映像・イメージをB地点に転送する映像伝達者にすぎない。換言すれば、映像による情報を伝える情報伝達者ということである。この場合、看者もまた、撮影者がなんらかの創作をしたからすごい、なんてことはひとつも思わないだろう。送られたきた映像(情報)に意識が向き、撮影者がだれで何を創作したのか、には関心は向かないであろう。
写真と言うものが、単に被写体の映像を伝達するための手段に留まるのであるなら、写真家と言うものは、例えば郵便配達人や宅配人と同じであって、単に被写体の映像という情報を看者に伝えるだけの事しかしていないわけである。
だからと言って、その行為に価値がないということではない。この領域を極めると尊敬される写真家になれる。「フォトジャーナリズム」という報道写真の分野である。伝達者は報道カメラマンであり、フォトジャーナリストと呼ばれる。
ここでの価値は、創作としての写真の価値ではなく、看者の知る権利に貢献する「情報としての価値」であろう。

作家としての写真家

撮影者が事実の伝達者ではなく創作者として評価されるには、写真がその写っている対象物の情報以上の情報を患者に与えなければならない。

では、写真撮影者が画家と同様に「創作者」となるにはどういう写真を撮れば良いのであろうか。それは、絵と写真を比較すると理解しやすいように思える。上記干し柿が画家によって描かれたものであった場合、それが干し柿の写真と全く同じように見えたとしても、画家は単なる映像の伝達者ではない。その映像たる「干し柿」をまさに本物のように描いた(創作した)者として評価されよう。
スーパーリアル絵画として、「干し柿」を見た人は、「すごいね、まるで写真みたい」と感動するが、同じように見える「干し柿の写真」を見た者は、「ああ、写真ね」ということになる。そんな経験ありませんか?

何が違うのでしょう。私は「創作した」という実感が伝わるか伝わらないか、それがあるのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。

故に、撮影者が創作者(作家)として評価されるには、写真に写っている事実としての「対象物の存在」に加え、それ以上の情報を写真が看者に与えなければならないのではないか、と思うのです。

そこが、写真の創作性を決定づける要素ではないか。では、写真に「創作性」を付与するにはどういう写真を撮れば良いのであろうか。

“「写真は,被写体の選択・組合せ・配置,構図・カメラアングルの設定,シャッターチャンスの捕捉,被写体と光線との関係(順光,逆光,斜光等),陰影の付け方,色彩の配合,部分の強調・省略,背景等の諸要素を総合してなる一つの表現である。」”
知財高裁 平成18年3月29日判決 平成17年(ネ)第10094号

以前にも引用したが、上記が判例で示された写真の創作性の根拠である。

この判例に沿って、上記「干し柿」の写真を評価してみると以下のように判断される。
被写体の選択:干し柿を選択
配置,構図:被写体を真ん中に配置した日の丸構図で、被写体の存在を強調
カメラアングルの設定,シャッターチャンスの捕捉:大した工夫はない
被写体と光線との関係:どちらかというと順光である。やや左に陰影を付けた
明度:やや明るく
背景:ぼかして被写体を強調・ボケはグラデーションにして美しく

このように「干し柿」の写真は、著作物たる要件を満たすためのそれなりの工夫は施してはある。
しかし、この工夫から、看者は何を感じたのであろうか。単に美味しそうな「干し柿」の映像に惹かれただけではないだろうか。その「美味しそうな」に上記工夫が多少は関与していたとしても、看者は、撮影者を創作者として意識したであろうか。単に「干し柿」の映像を看者に送り届けた映像伝達者以上のものを感じたであろうか。

撮影者が単なる映像伝達者から創作者になるためには、ここが肝心であろう。写っている映像をそのまま写っている映像としてだけではなく、さらに、撮影者の意図した「なんらか」、「撮影意図=創作意図」「創作感」を感じとってもらえるようなそんな工夫、それが施されている写真。それこそが、「創作性」を満たす写真ではなかろうか。

真に創作性のある写真とは

で、問題は、真に創作性のある写真とは何かということになる。結論としては、「なんらかの創作感」「撮影意図・創作意図」が伝わり、それを感じとってもらえるようなそんな工夫。
この点、動画は静止画より簡単である。動画はストーリーを記録できるからである。静止画も組み写真となれば、複数の写真の相互関係から看者に一定のストーリーを想起させることが可能となる。一番難しいのは、単写真であろう。しかし、必ずしも不可能なものではなさそうだ。
多くの歴史に残る写真は、看者になんらかの感動を与える。単写真で、撮影者の撮影意図・創作意図が伝わる写真、さて、どうしようか。

そんなこと考える日々。つづく。

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