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“1人分の”シャニアニ感想(第1話)

0.はじめに

 この感想は、先行上映を観た当時の感想(ほぼ第1話に関するもの)を書き留めていたメモを焼き直したものです。「超個人的観点」からの感想となっておりますので、その点ご承知おきください。
 
 そういうわけですので、是非最後までお読みください、などとはとても申し上げられません。こういう世界観は無理だなと思ったら、そっと閉じていただくことをお勧め致します。
 
 それでも最後まで読み進めようと思った奇特なあなた、誠にありがとうございます。読後に何が残るかは保証致しかねますが、少しでも何かを感じ、味わっていただけるなら幸いです。

1.「1人分の空」から想起されたこと

「1人分の空」
 
 シャニアニ第1話冒頭で発せられた真乃のモノローグである。
この言葉を聞いた時、自分の中に言いようのない高揚感というか、わくわくしたような感覚が静かに沸き上がった。そしてそれは消えることなく私の中にずっと横たわっていた。
 
 この感覚の正体は何か?なかなか言語化できずにいたが、ふとした折に思い出した。

「昔書いた卒論の内容に通じる何かがあるのではないか?」
 
 その卒論の内容とは、ウィトゲンシュタインの著作『論理哲学論考』(以下、『論考』と記述)をテキストに、ウィトゲンシュタインの独我論的世界観を解釈してみたというものである。
 
 ウィトゲンシュタインは『論考』の執筆を通じてどのような世界を見たのか?当時の私は卒論の中で以下のように結論付けた。
 
①     主体がその中に存在することはない世界である。
②     しかし、そのことをも含めた実在が、まさに当の主体が世界を限界づけることによって保証されている世界である。
 
 これだけだと何の事やら?であるが、ウィトゲンシュタイン自身も用いていた「視界と目の例え」を用いると少々わかりやすくなる。
 
①     目そのものは視界の中には存在しない。
②     視界の中に存在しない目で見ることによって、初めて主体は視界の中のものを認識できる。そして目は視界の限界を成す。
 
 主体→目、世界→視界と置き換えてみることで、少しはイメージしやすくなることと思う。

 そこで、「1人分の空」である。
 制作陣がどのような意図でこの言葉を用いたかはさておき…

 上記を踏まえるならば、この言葉は「櫻木真乃という“主体”によって限界づけられた“櫻木真乃の”世界」と言うことも可能なのである。

 このようにして、少なくとも私にとっては「シャニマス的、もしくは櫻木真乃的独我論」なるものが提示されたように感じられたわけである。そしてこの感覚もまた、「私と言う“主体”によって限界づけられた“私の”世界」の中での感覚なのである。この文章のタイトルを「“1人分の”シャニアニ感想」としたのも、そうした感覚ゆえにである。

 ただし、この文章は論文の類ではなく、あくまで「感想」の域を出ない事を申し添えておく。ウィトゲンシュタインの用い方もそこまで厳密ではない。「1人分の空」という文言から昔の卒論で書いた内容を想起し、妙な高揚感でこのような文章を書いてみたくなった、シャニアニの感想にかこつけて久しぶりに哲学的な言葉遊びなどもしたくなった、というのが正直なところだ。そのような機会を与えてくれたシャニアニには感謝の念を禁じ得ない。

2.第1話感想

 「1人分の空」という真乃のモノローグから始まる第1話。真乃が見る「世界」を構成する要素の中には、まだプロデューサーも、灯織も、めぐるも、283プロも存在しない。

 そこにはただ「櫻木真乃の日常」が、ありのまま描かれるだけである。言葉による説明などはほとんどない。それが逆に「櫻木真乃の日常」を、その実在を、如実に描き出す。

 およそ一般的なアニメのそれとはかけ離れた導入の様に思える。いや、実際そうである。おそらく万人受けはしないだろうなと薄々感じながら、私は第1話を観ていた。しかしその「万人受けしないだろうな」という感覚が、私の高揚感をさらに強いものとした。万人受けしないからこそ、私にの心には強く刺さっている。そういう確信はあった。

 実に面倒臭い性分だと自分で思う。しかしそれで良いのだ。仕事など雑事に追われる日常の中で、この様な、浮世離れした感覚にどっぷり浸れる機会など、そうそう訪れない。時間が有り余っていた学生の頃のような贅沢な時間の使い方は、もうできない。だからこそ、シャニアニを観ているこの時間が、浮世離れした形而上学的な感覚に浸れるこの時間が、貴重であり幸せな時間となった。

 そんな中、公園で真乃の歌を聴いたプロデューサーが現れ、真乃をスカウトする。一度は断る真乃。しかし、時が経って再会した際に、真乃はプロデューサーの誘いを受け入れる。

 ここに至る過程もまた、言葉では語られない。概ね映像での描写だけである。しかし、日常というものは得てしてその様に淡々と流れ、移ろいゆくものなのかもしれない。真乃自身の脳内で言語化されることもなく、一度は「自分にはできない」とばかりに断ったアイドルになる意志がいつの間にか芽生え、一歩踏み出してみる。

 その様なことは、我々の人生においても往々にしてあるのではないか。理由や根拠をうまく脳内で言語化できないうちに、様々な事が決まっていく。もしくは決めていかねばならない。あるいはいつからか自らの内なる何かが芽生え、そして進んでいく。

 そうやって「何となくだけど結果として確かに前へ進んでいる」ことが、少なくとも私には何度かあった。理由を聞かれて答えてみるものの、それは全て後付けである。人生とは案外そんなものかもしれないのだ。

 そうした「そんなものかもしれない」というふんわりした部分を、シャニアニ第1話は描ききったとも言える。これはドキュメンタリーですらなく、真乃の日常の一部をありのまま切り取り、何も加工せずに原石のまま提供したかのようである。

 しかしながら、真乃の「1人分の空」もとい真乃という主体によって限界づけられた世界を描ききるには、それが最適のように思えるのである。もはやそうとしか思えなくなってしまった。

 ここで私は『論考』の最後の1行を思い出す。

「語り得ぬものについて、人は沈黙しなければならない」

 シャニアニ第1話における「語り得ぬもの」の最たるものは、「1人分の空=真乃の世界」を限界づける「真乃という主体」である。『論考』においては、世界を限界づける主体が「語り得ぬもの」とされる。そして真乃もまた然り、というわけである。

 従って、そんな彼女の日常をありのまま切り取り、加工せずに提供するならば、それは「語り得ぬもの」として提供されなければならない。いや、そうであって欲しい。そうであることが私にとっては喜ばしいことなのだ。これは「“1人分の”シャニアニ感想」としては当然の感覚と言えよう。誰にも邪魔されない、私だけの形而上学的概念が、独我論的世界観が、それを心ゆくまで味わう楽しみが、そこには広がっている。
 
 BGM、映像の作り方、一見無意味に思える学校でのシーンや登下校のシーン、無機質な題字でさえも、その全てが私にとっては楽しむための助けとなった。全てが私にとってしっくり来たのである。「櫻木真乃という主体」の「語り得なさ」が見事に描かれていた。
 こうして私は、シャニアニが創り出す世界観にどっぷりはまることとなる。先行上映で第3章まで観終えた当時も、全編にわたってこの世界観が、濃淡や強弱を変えて横たわっていた。だからこそ、どんな描写も受け入れられたのだと思う。
 
 そして改めて地上波で第1話を観終えた今も、その感覚、楽しみは色あせず私の中に横たわっていた。来週以降も、先行上映当時の記憶を呼び起こしつつ、この世界観を楽しみ尽くしたい。
 
 最後にもうひとつだけ。
 
 冒頭の凛世…かわいいし美しいし私服もかわいいし見上げる眼差しが尊いし横顔たまらん大好き!(語彙力崩壊)
 
 ヾ(*´∀`*)ノ キャッキャ
 
 それではまた来週。

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