ゴミゼロスーパーで、「これで十分」を思う

世の中にはまだまだ見たことがないものがたくさんある。

見知らぬ土地で一人暮らしを始めたのをきっかけに、この魂胆で「とりあえず行ってみる」ようにしている。そんな暮らしも、気づけば1年が経とうとしている。

ひょんなことから、京都市内のスーパーで働いている方とお話しする機会があった。それもただのスーパーではなく、「ゴミが出ないスーパー」らしい。基本的に量り売り、包装資材は新聞紙以外なし…そんなスーパーが世の中にはあるのか。ほぇ~…。

その時はそこまでの話だった。が、時は12月。

なんだか寒い。

そうだ、鍋が食べたい。とても…。

だが、少食の一人暮らしと鍋は極めて相性が悪い。白菜・大根を余らせがち。余らせないように気合で大量に食べるのは、頭が美味しく感じられないので食べ物に申し訳ない。鍋を食べ切ったころに残りの野菜を使おうとすると味が落ちているし、ときたま腐らせる。そうなれば廃棄。ごめんよ、野菜…となるのはほぼ確定。食べたい、けど、できない…できない…できな…い??ほんとか??

要る分だけ、野菜を量り売りで買えたら??

そう、気付いてしまった。例のスーパーで使う分ジャストで買えれば、私でもほかほか鍋が食べられるのだ!!

ということで、その週末の用事に合わせて京都でゴミゼロ買い物をしてきた。

ゴミゼロスーパーで、野菜を買う

京都市の隣・滋賀県は大津で用事を済ませ、午後一番から散歩がてらてくてく歩いて山を越える。京都市街地の東端にある九条山の峠を越えたのが午後3時半。傾き始めた太陽が照らす京都の街を見下ろしながら、街中に入った。
京都をまともに歩くのは中学校の修学旅行ぶりなので、実に8年ぶり。あの時よりもだいぶ人が増えたように感じるのは、やはり観光ブームの力なのだろうか…。

京都を南北に貫く鴨川を渡って最初の通りを右へ。しばらく行くと例のスーパーがある。
ゼロウェイストスーパー・「斗々屋」さん。小さいので通り過ぎてしまうかもしれないが、花屋さんのような店構えで、落ち着いていてとってもオシャレ。

お店の中はほぼ「量り売り」で統一されており、調味料や粉類・穀物類もタンクに入れられている。蛇口やハンドルで必要な分だけ出す仕組みらしい。マイバッグはもちろんのこと、マイボトルやマイ容器がないと買い物が成立しない(無ければ借りられるとのこと)。なるほど、ゼロウェイスト。

今回は鍋を作るために来たので、白菜と大根を「ほしい分だけ」買わせていただく。
野菜コーナーはお店の一番手前側。基本的には京都周辺の農家さんからの野菜を仕入れている様で、外国や遠くの場所のものは印象に残っていない。フードマイレージ低めなのかな。
ところどころ、新聞紙でくるまれている野菜がある。隙間から見ると、半分になっていたり3/4になっていたり。これが「野菜の量り売り」の正体か…。本当に要る分だけ切れるんだ…。

大根と(すでに1/4がどなたかに購入された)白菜を手にレジへ。野菜を他人に切って頂いたことがないので戸惑いながらも、「このぐらい切ってもらえますか~?」と店員さんに聞いてみる。すると店員さんはレジ後ろにあるカッティングスペースで野菜をざくりと切り、そのまま秤量器へ。重さ×単価で「要る分」の値段が表示された。普通のスーパーと変わらぬスピーディさで会計は終了。見事「鍋に残さず使える分」の野菜を手に入れることができた。

帰宅後、鍋の準備。包装は新聞紙だけ、プラごみはゼロ。ゴミ箱の中には野菜の皮程度しか入らずに食事の準備ができた。待ちに待った鍋は、至福の味だった。

「ゴミゼロ実際どうなのよ?」

ゴミゼロスーパーで買い物をしてみて、「これは自宅の近くにもほしい」と思った。
この「何でも量り売り」スタイルは、環境や資源のことを考えればとても意味のあることで、そういった意味で「身近に欲しい」と思った部分はもちろんある。一方で、地球規模の話からもっと小さなレベルに目を移した、個人の実生活にもメリットがあると感じた。
例えば…

  • 食材が無駄にならない

  • ゴミが出ないので、ゴミ出しの頻度が減って楽(プラスチック包装は嵩張る…)

  • 後ろ向きに消費するための献立が減り、前向きに食べたいと思うものを作るための献立が増やせる。最終的に、料理と食事が楽しくなる

  • 何かと余らせがちな一人暮らし生活にはとにかく助かる

もちろん容器を持って行く手間は増えるが、それは上に記したようなメリットとトレードされたものと考えれば、大した手間ではない。

地球規模の話はとても切実で向き合うべき話なのだが、実生活に負荷がかかるイメージもあって正面から向き合いにくいのも事実だ。そのイメージをなんとか乗り越えるためには、日常生活のレベルにあるメリット(それも、「こうしないと悪いことになる」という消極的なメリットと同じぐらい、またはそれ以上に「こうするとこんなによいことがある」という前向きなものを。)が世の中的に広まることが必要なのではないかと私は思っている。そうなれば自ずと、地球規模の問題に対するアクションがもっと広まっていくんじゃないか…と。
その点で、実際にごみを極力減らして何かを気軽にできるこのスーパーは、「ゼロウェイストに近づくことは案外メリットが大きい」と気付ける、中々面白い場所なのではないかと感じた。

「これで十分」

話題は少し大きくなるが、幸せという感覚には「これで十分」が大事なのかな、と思う瞬間がある。これを思う方は、きっと私だけではないはず…。
お金、モノ、地位…もちろんこれらは大事なものだし、一定程度は持っていないと困ることもある。でも、もしもどれかを幸せの基準にしたら?金額に限界はないから、この世の中には星の数ほどモノがあるから、「幸せ」は青天井になってしまう。
だから、何か「十分」と思える暮らし向きを考えて、それを形にすることが「幸せ」なのかな…まだ世の中のことを知らないからわからないけれど、そんな風に思うことがあるのだ。

ゴミゼロスーパーで調達した食材で料理をした次の日、いつも通りのスーパーで買ったもので料理をしたとき、ふとこのことが頭に浮かんだ。

ゴミ箱にポイポイ捨てられるスチロールトレイ、コンソメのアルミ箔、納豆の入れもの。Superである程度のサイズに切られて売られる食材も、それぞれのサイズが満たせるニーズには限界があるから、使い切れず腐って時々捨てなければいけないときがある。部屋を見渡せば、Amazonの段ボール箱に、プチプチや緩衝材のごみ…しかも大きい段ボール箱に入ってきたのは頑丈な缶詰3個ぽっち。まぁ、確かに楽だし傷はつかないんだけどさ…缶詰に擦り傷ぐらいついていいじゃん…?いろいろ、なんか、違わないか??
かたやゴミゼロスーパーでは、要る分だけカットするので「余る」可能性はほぼない。包装は新聞紙だけでも、京都から大阪まで傷めずに持って帰ってくることができた。当然ゴミ箱に入るのも新聞紙と野菜の皮だけ。環境負荷の差は誰の目にも明らかだ。でも「普通のスーパーにあってゴミゼロスーパーにないもの」がなかったところで、そこまで負担には感じていない自分に気づく。

これは、ゴミゼロスーパーで買い物をしたことで、世の中の「これって要るの?」が見えるようになったということだと思う。それは、過剰なものを通して、自分なりの「これで十分」を見つめることなんじゃないか…??

便利であることは素敵なこと。ぼくらは便利さなしには生きていけない。でも、「これで十分」を超えている分の便利さは、ぼくらが地球にかけてもいい負荷をあまりにも超えた負荷をかける元になる。だから、「これで十分」を知ることはとても大切。
だが厄介なことに、「これで十分」を超えた分の存在は「あたりまえ」が「あたりまえではない」空間でしか気づけないものだ
。それを気づかせてくれるゴミゼロスーパーは、「環境に対してできること」を、ミクロな個人の生活のレベル感にまで落とし込んでくれる、とっても刺激的な場所だと感じた。


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