見出し画像

たぶん一生忘れない、幼稚園の先生の祈り。

たぶん一生忘れない、幼稚園の先生の祈り。

*

子どもの3歳の誕生日。

頭上に飛んで来たトンビが、

「いい幼稚園があるから入れなさい」

と教えてくれました。

その後、

自分たちでもあちこち見学に行ったけど、

わが家は実際に、

他は考えられませんでした。

そこはたまたまキリスト教系の園。

そこで出会ったある先生。

入園の日から、

その先生が異動される当日までの3年間、

夫も私も、度々、驚かされたのは、

当時の牧師先生のお祈りでした。

その言葉だけ追うなら、

ごくごく普通の、なんの変哲もない、

どこででもよく耳にするような愛の祈り。

わたしも夫もただ、

みんなのやってるように、

手を組み、目をつむってうつむき、

その牧師先生の祈りに

耳を澄ませるだけなのに、

いったい自分のどこが震えているのか、

いつの間にか、涙が出てきてしまうんです。

毎回。

毎回。

入園式でも、

運動会でも、

ほんの小さな会でも、

クリスマス会でも、

卒園式ならなおさらだっただろうな。

それは夫もまったく同じでした。

友人たちも。

あの先生は、

本気で祈ってるんだね、

って夫はよく言っていた。

私はネイティブアメリカンの方の祈りを

何度か体験させてもらったことがあります。

彼女が話していたとおりのことを、

牧師先生の祈りにも感じました。

祈りは、

光の粒みたいに、

赤ちゃんの頬にも、

石のひとつひとつにも、

犬の毛一本一本にも、

笑っている子にも、泣いている子にも、

先生たちにも、親たちにも、

ベールのように優しく、

ふさわしい時間をかけて、

ふさわしいタイミングで、

確実に届くものなのかも。

それが目に見えることのように、そう思えた。

園、という世界の中で、

みんながそれぞれ精一杯やっていても、

そりゃあ日々、時には、

子どもたちも大人たちもいろいろある。

そんな中で、

ここの子どもたちは、

この先生の祈りによって、

間違いなく、そっと守られてる、

と感じないではいられなかったです。

先生は、ふだんは、

とってもひょうきんで、

ユーモアでみんなを笑わせて、

偉そうなところなどみじんもなく、

飄々としている方。

だけど、

毎日の子どもの表情も、親のことも、

とてもとてもよく見ている。

園にちゃんと慣れるのに

1年以上かかったうちの子ども。

夫と私はそのときも、

不器用だけど、わが家だけのやり方で、

手間と時間をかけて、

毎朝、先生に引き渡していた。

他の先生たちには呆れられる中で、

牧師先生だけは、

あの時の私たちの様子を、

とてもとても褒めてくださったんだ。

あれはねぇ、かけがえのない、

素晴らしいことでしたね、

あの日々の背中のぬくもりは、

一生あなたとお子さんの宝になりますよ、

と、わざわざ伝えてくださった。

とてもとても嬉しかったんです。

その園にお世話になって

はじめてのクリスマスイヴの夜。

ふだんは、

なんとなく、や、

誘われたから、という理由だけでは、

決してどこかに行ったりしない夫が、

その時一緒に暮らしていた

 私の妹と共に、

教会でのクリスマスの催しに出かけて行った。

私は子どもが小さかったので、お留守番。

帰ってきた2人は。

やはり。

牧師先生のお祈りと、

クリスマス聖歌に号泣してしまった、

心が清められてしまった、

と、

2人ともまだ赤い目をしたまま、

そんなふうなことを話してくれて、

私まで心が温まったのを覚えている。

今年もクリスマスが近づき、

わが家には、未だにクリスマスツリーも

とくにないけれど、

先日の夜、

夫が、あの日に泣きながら歌ったという

「ノエル」の聖歌をYou Tubeで探し、

夕食の時にかけてくれたら、

夫も私も、涙で手が止まってしまった。

きっとみんな、

それぞれにいろいろある、

今のこの人生のテーマ。

ある人(笑)に見てもらったら、

私のその一つには「祈り」がありました。

私は大学も、

ホントにたまたまキリスト教系だったし、

なんとなく、

どこかの教会に足を踏み入れたこともあって、

そういうお祈り、というのは、

何度も何度も聞いたことがあったけど、

あんな祈りは、

後にも先にも体験したことがないです。

あの牧師先生も、

たったひとりの人間なんだなぁ。

その人間ができることの、

ささやかだけれど確かなことや、

その響きの果てしなさや、

愛、っていう誤解されやすい、

捉えどころのないものが、

本当にあるんだ、ってことを、

はっきりと見せてもらったような気がします。

祈りの力も。

子どもの頃から、今も、

それが祈りとは知らないうちから、

私は、ずーっと祈っている気がする。

子どもの頃は、願い、だったかな。

でも切実に願ってた。

どうしたらあんなに純粋に、

微細なのに温かく、

どこまでも届くほどに

祈ることができるのか、

まだまだわからないけど、

私にとっては、

今の暮らし方や生き方の延長に

それがあるような気がして。

今日も、楽しく過ごしたいと思います。

*

前の家ではずっと施術室に置いてあった、

 骨格標本。

クリスマスコーデが毎年好評でした。

今は、

この家の、

コンクリートと土床の倉庫に眠っていて、

そこに置いた瞬間は、

リアルに、石室に眠る骸骨のようで、

ドキッと笑えました。

睡るコッカクくんにもメリクリ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?