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『豚の報い』感想(過去作)

(2022年に書いた又吉栄喜『豚の報い』を読んだ感想。データが途中までしか残っていなかったので、ぶつ切りとなっています。)

 豚の報いの、沖縄の祭祀を描きつつも、その祭祀が持つ神秘性や特異性に頼り切っていないところに感心した。沖縄の祭祀を描く際、ノロやユタ、ウタキなどの神に近い不可侵な領域に惹かれ、神格化していく傾向にあると思う。だが、又吉の『豚の報い』は、若者らの人生と滑稽さを祭祀と絡め合わせて書いている。そのように、神に対する畏怖の念と人間の愚かさの対比が大きければ大きいほど、物語として強烈なインパクトを残すのだろうと考えた。

 物語の主人公である、正吉は、琉球大学一年生と記されている。正吉が浪人せずに、入学したと考えると、スナック通いしているという時点で私の大学生活とかけ離れていることに驚かされる。私が大学一年生の頃は、コロナ禍で大学に入ることすら禁じられ、毎日モニターを見つめては、無限に湧いてくる課題をヤーグマイして片付けていた。友達すら出来ず、勿論飲み会にも参加したこと無い生活を送っていた。そのため、正吉のスナック通いの大学生活は異国の話のように感じ、少し恨めしくもある。

 タイトルにあるように『豚』は、物語におけるキーポイントとなっている。最初に登場する『豚』は、スナック「月の浜」に押しかけてきた豚である。その豚は、スナックの和歌子をひどく気に入り執拗に襲う。和歌子はマブイを落とし、死を恐れたために真謝島へ祈願するために向かう。私は、和歌子を襲う豚が、妙に生々しく描かれ、人間の男女の交わりのような気味悪さを感じた。

 そして、次に『豚』が出てくる場面が真謝島での宴である。正吉が女の館へ向かうと、既に豚肉料理が食卓に並べられ、女たちは絶えず食べていた。「正吉さん、食べて」と和歌子が声をかけ、泡盛を注ぎ宴会が始まる。その宴会では、暢子が「この豚、男かね、女かね」と尋ね、「もちろん、男の方が食べがいがあるよ」というやりとりがある。また、和歌子が正吉に寄せるギラギラとした欲望も、男女の睦事を連想させる。豚を食べた女たちは、直後に腹を下し正吉へ助けを求めるという流れである。無我夢中で豚を食べる和歌子や女たちの描写は、どこか恍惚とした様子で、スナックを襲う豚の出来事と真逆の構図である。

 お腹が膨れるほどに食べた和歌子が、正吉のドアをノックし「おなかが……」と顔をしかめて真っ青になっている場面は、どこか「出産」を連想とさせる。和歌子だけではなく、ミヨや暢子も同じく、立ち上がれないほどの腹痛に襲われている。私は、いずれの女たちも、懺悔で子供や出産のことを述べていることが気になった。
「女」にとっての報いは何であろうか。善行や悪業の結果として身に受けるものが「報い」である。それならば、性行為の末に生まれる子が「報い」であるのだろうか。出産とは、新たな生命の誕生であると同時に、母となった者はその命を背負わなければならない。それは、性行為や快楽を知った者の代償であるように感じる。
物語は、正吉と女三人の御嶽巡りを滑稽な様子で描かれている。だが、「豚」と女

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