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2年目田舎民、優先順位に惑う。

いやはや、
東京社会人2年目が終わろうとしています。
はやい。早すぎるぞ東京。

同世代の院進した子も卒業の時期、地元では子持ちも増えてきてインスタのストーリーが可愛くて幸せ。
もうすぐアラサー、人の幸せを喜べるメンタルをもち続けたいものですねぇ!!

いつかきっとこのときの葛藤をじんわり思い出すために、本日も若気の至りデジタルタトゥー刻んでいくぜ!

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優先順位の話。
みんなさんは何が一番大事ですか??


私はね、


わっかんねぇんだよなぁこれが。


"プライベートの時間"というほど立派な趣味もなく、
"親友"というほど深い人間関係を築くのは苦手。
広く浅いのは得意なんだけどねぇ、、
もちろん"恋人"という選択肢もあえなく連敗中につき、生い先短い"家族"をほどほどに大事にしています。
たぶん、一般よりも私の家族の概念は広くて、めんどくさいことも含めて大事にしたいと思ってる。

となると、"家族"なのかな?
え、良い人っぽい!笑


でも自分が良く生きていくのが優先で"お金"が目下の最優先事項なのは間違いない。
自分は海外旅行したりして、ちびたちへのお年玉は中々渋い金額にしちゃいました。
大人気ないおばですまん。

んーあとは"お洒落"?
東京に来たらネイルしてビシッと化粧してかっこいいできる女になる予定だったけれど、それを持続させる能力が私にはなかった。
地元の感度高い子の方がよっぽどスマートだなぁと思う日々です。
お金かかるし、、、たまには頑張るけどね?

うわ〜金か、自分。
ちょっと悲しくなりました

弁解させていただきたいのは、お金があったとして豪邸に住む生活を40年もおくる気はないということ。

お金で得られる"人生の体験"が私の最重要事項だ。

だから社会人になって弾丸で海外旅行を決行したし、実家へは夜行バスで帰る。
友人の人生の岐路には花でもキャラメルでも送っておきたいし、個展開くとか世界の果てまで飛んでいってあげたい。
これは友人の節目に共存している自分が好きだから。
デザイナー家具は揃えたいけど、自作で創る時間を価値とする。

そんなすり替えもありつつ、私は私の人生の最大経験値を目指している。

もちろん最大経験値には"お金で買えない体験"も含まれる。

自分史上最強に頑張って認められる、とか
人に感謝される、とか
人に求められる、とか
人のつてで美味しいご飯屋さんにいく、とか
それこそ愛とか?知らんけど。

私の近くにいる人は私がどんなにおでんばでネガティブか分かって幻滅してくれるのだけれど、少し離れると自らの奇行のせいで私はなんとなく凄い人になりがちだ。

ブランディングしていないと言えば嘘になるけれど、実際の自分を受け入れてくれる人はこの先も母数を減らしたくないなぁと思う。

だって私の指標は周りの私への価値だから。
私は最大経験値を最優先で生き続ける。
それは自己肯定感的に揺るぎないものだ。
そんな私をどう扱うは周りにゆだねる。

より心地よく扱ってくれる人に出会うという努力は必要だと思う。

それが転職なのかワーホリなのか、婚活なのか個人事業主なのか、放浪者なのかは分からないけれど。

そして、ここにおいて最大経験値と対極にあるものは後悔である。

ここでの後悔すなわち、なにかをしなかったことを後悔すること。
例えば留学。
例えば告白。
例えば就活。

して後悔するのはok。
でもしなかったことを後悔することはNG。

そうなると課題になるのが同時期にどちらかしかできないと思われることの決断である。

基本的にどっちもできる道を探すことになるのだが、それには健全な生活時間の犠牲が伴う。

大きな波のない、ちぃさな幸せを幸せだといえる人生はなんと尊いものだろう。
しかし悲しいがな、最大経験値をもとめる私はそんな器用な選択はできない。

仕事も自分が納得するところまで100でやり切る。
恋愛も相手をすんごい好きになりたい。笑
実家にも帰りたいし友達とも旅行に行きたい。
そんなただでさえ忙しない生活時間に差し迫る小さな決断が最大経験値を得られるかを左右する。

特に最近は引っ越しもあいまってスケジュール管理に人生で一番困窮している。
いままでは、ばふっと2週間テスト期間やイベント運営などなんとなく区切りをつけて100を注げば成り立っていた生活が分単位で区切りを明確に求められる。
仕事と生活時間は区切りをつけたいけれど、完了させるためには線が曖昧に。
コンペに参加しようものならこれは本当に望んでいる時間なのかという過酷なスケジュール。
急な出張もよくあるから人と会うタイミングは難化している。
それでも当日の思いつきであってくれる友人がいるから良いものの、同棲族の増加によりその癒しは失われつつある。



んーーだから、最大経験値を掲げている以上、ものごとに優劣がつけにくい性格だということをいいたい!笑

みんなの絶対揺るがない価値の軸は、絶対に選択の基準になる価値観だろうか?



価値の軸なんて考えたことがない!心惹かれるままよー!なんて答え素敵かもしれない。

私の場合、価値の軸はなんとなくあったのだが、それが判断基準するには心もとないものだったのだ。
それを最近自覚するようになった。
だってキャパオーバーしすぎなんだもの。笑

失敗は経験にならないのか?という疑問があるとするならば、私の中で失敗は無いに等しい。
それに近いニュアンスはどちらかと言うと後悔。
あのチャンスにやはり手を伸ばしておくべきだったという懐古。

実行に必要なことを欠くということはただの凡ミスであり、これだ!!と思った事柄を突き進んだ先に他者に評価されない結果が待ち受けることは失敗と呼ばない。
得られるものはあると思うから。

ゆえに致命的な凡ミスをしたときの自分は割と結構凹む、、、。




この思考、結構行き詰まっていると思う。

この価値観によって私は生きてきたし、生きていく。

けれど、それには確実にキャパオーバーというオチがついてくるとわかっているとしたら、



それはただの阿呆ではないか?


短絡的に考えて、はじめから人に助けてもらうことを計算に入れるしか無いということになる。



自分の最大経験値のために、、?

それって最低じゃないか???


そんな思考回路。


私の無鉄砲な行動に賛同してくれる人もいる。
それはすごく大切にしたい人たちだ。

でも私が彼らの価値基準を満たすなにかを与えることができるのか。

いつもそんな背徳心というか疑念というか申し訳なさを感じてしまう。



私と時間を共にしてよかった。
どんな結果になってもその感情は抱いてほしいというのは傲慢だろうか。



そう。私は私の最大経験値を求めるうちに、関わる人の最大経験値をも得たいと願ってしまう体質になってしまったのだ。

しかもそれはプレゼントを渡して喜ぶ姿を見るという単純なものではなく、何かを共に達成して挫折してそれでも受容してくれるというなんとも複雑な要求である。



そりゃ満たされない訳だ!!!!!


実は田舎者、女子にしては稼いでいる。
彼氏はいないが、友にも恵まれている。
両親も元気だし、私自身五体満足でなにか物理的に不自由しているわけでは無い。
全力で推しているわけでは無いが、気に入ったドラマやアニメや歌手がないわけでも無い。



幸せなはずなのだ。わたしは。




なんでだろうな。
この虚無感が都会の寂しさなのだろうか。




んーーー、、
仮に人類の目標が幸せであったなら、自分が幸せだと感じない幸せは幸せなのか。

文字通り人間は考える葦であるならば、生まれた意味を求めることすら取るに足らないつまらないことなのか。

私は定義しないと不安なのだ。



でもなんとなく、たぶんここに大義を掲げることは無意味な気がする。

結局、うまく料理をよそえたとか、時間ぴったりに到着できたとか、偶然美人な猫に出会えたとか、目の前の些細なことを丁寧に噛み締めていることが、人生なのだと思う。



だから、私の価値基準は間違っているのだと思う。



噛み締める時間を持たない生活は、それはタスクであり、単純作業だ。
人間として、人生をよくしたいと思うならば、思わなければいけない。
喜びを、悲しみを、驚きを。

その感情を比較するのではなく、分かち合うための関係性を築ければ良いのだ。人と。


結果、振り返れば、何を成し遂げたかなんて、歴史の教科書では一文だ。
私がしたことなんて、することなんて、世界への影響は取るに足らないだろう。

その中で利己的に、実に利己的に人生をよくしようと思うなら、目の前をよく思うことが必要だ。




さすらば、なにをすれば良いのだろう?



大きな概念の自分の価値基準を否定して、
目の前に向き合うと決めて、
そしたら、目の前に向き合うものは誰が決めるのだろう。


きっと、昔ならそれは跡取りとか、許嫁とか、階級とか、外部的な要因で決まってたのではないだろうか。
でも幸せな私は自分で決めなければならない。

出来るだけよく、目の前と向き合える環境を。



、、、なんだろう、それって凄く凄く疲れそうだ。
結局そのポジションに辿り着くことをタスクとしてしまいそうだ。
私はなんのためになにから手をつけたらよいのだろう。



もう疲れたよ、パトラッシュ、、、。





そんなことを思う日でした。




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写真題:本当に食べたいのは何ラーメン?

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