見出し画像

夜はいつでも回転している

94夜 ルイ・アームストロング


飛行機の窓を上げるともう夜だった。急に夜になったように感じた。いつも徐々に夜になっていくのが嘘のようだ。突然帰省することになった。母親が再婚するからだ。物事が起こるというのは大抵唐突に起こるものらしい。再婚するような相手がいるなんて全く聞いていなかった。「まぁそういうものよ」と母親は電話口で言っていた。妙に艶っぽい声だった。住んでいた実家は今は他人に貸している。子供の頃に住んでいた家が今は他人が住んでいるというのは何だか変な感じだ。母親と再婚相手は二人でマンションに住んでいる。「あんたが眠るところくらいは作れるわよ?」と言われたが久しぶりに友達にも会うからそっちに泊めてもらうと嘘をついてホテルを予約した。
 

久しぶりに会った母親は何だか若くなっていた。髪も肌も艶々していた。ネイルされた爪が光っていたし手の皺もなく潤っていた。私は飲み屋の洗い場で洗い物ばかりしているガサガサの手を思わず隠した。やたら高そうなレストランで食事をすることになった。再婚相手は仕事で少し遅れるらしい。母親は食前酒を飲みながら生演奏のピアノにうっとりとしている。そんな母親の姿は見たことなかった。まるで違う人間に見えた。再婚相手が到着した。何だか曖昧な顔の男だった。大学での生活のことなどを聞かれて話したがすぐに話題がなくなった。母親と再婚相手は音楽だとか映画だとかの話を始めた。私は二人が何を言っているのかわからなかった。適当に相槌を打ちながら二人を眺めた。違和感を感じた。母親の右目の下には黒子があったはずだ。それが無くなっている。病院に行けば結構簡単に取れるらしいがいつ取ったんだろう?昔そんな話をした時に「運命が変わるから取りたくないし、わたしは結構気に入ってんのよ」と言っていたのを思い出した。
 

母親がトイレに行くために席を立った。どうやって食べればいいかわからない料理が運ばれてきてぼんやり眺めていた。白い皿の上でウネウネと何かが動いている。ラブクラフトの小説に出てくる邪神みたいだ。
「この曲は知っているかい?」と再婚相手の男が聞いてきた。顔を上げて初めて男の顔をまともに見た。どうして気が付かなかったんだろう?男はトランプのキングそっくりだった。というよりトランプから抜け出してきたかのようだ。


「この曲はね、ルイ・アームストロングの『この素晴らしき世界』って曲なんだ。君のお母さんとの思い出の曲さ」そう言ってトランプのキングはウネウネと動く邪神を口の中へ入れた。私は震える右手を左手で押さえた。右手は余分な角質が落ちてすべすべになっていた。レストランのギャルソンがテーブルの下に落ちた私の抜け殻をサッと拾い上げて社交ダンスのような身のこなしでテーブルの合間を縫って厨房へと消えていった。



                       End

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?