集団自殺をやらかしそうになった時の話

私が集団自殺をやらかしそうになった時の話を記録しておきます。自殺しようと思った経緯はまた暇な時にでも詳しく書くかもしれませんが、一番の原因は「高校時代のいじめ」です。ずっと「死にたい」と思いながら生きてきました。成人してからも精神状態は悪化の一途を辿り、遂に死ぬことを決意しました。その時の話です。


2022年10月4日


私はツイッターで「#自●募集」と検索をかけた。いくつかのアカウントがヒットした。その中で、プロフィールやツイート内容を見た感じ「この人は恐らく本気だろう」と思った人にDMを送った。プロフィール欄に「練炭 車出せます」と記載してあった。
しかし、DMを送った人からその日中に返信はなかった。

2022年10月5日 


朝、DMの返信が来ていないか確認すると、相手のアカウントの過去のツイートが見れなくなっていた。(後に本人から聞いたところ、twitterの利用規約違反に引っかかって一時的に利用制限されていたらしい)
しかし仕事の昼休みにDMを開くと、アカウントが復活して返信が来ていた。

相手は男性(以下A氏)。東北の人だった。私からDMが来る前に、関東圏に住む人と連絡を取っていたのだけど、1人目からは直前で「親にスマホが見つかってしまいました。この話はなかったことに…。」と連絡が来て、2人目はA氏が関東に到着したところで音信不通になったそうだ。(A氏は「親にスマホが見つかったなんて嘘でしょうね。日和ったんでしょう。」と言っていた。)
東北から関東まで車を走らせて来ていたA氏は途方に暮れていた。そんな時に、私から連絡が来たとのことだった。
私は関東から遠く離れた四国在住だったが、A氏は「ここまで来たら四国まで行きます」と言った。twitterのアカウントが凍結されて連絡が取れなくなる恐れがあったため、私たちはLINEを交換し、そこで待ち合わせ場所・時間などを決めた。

17時半、仕事を終えた私は、交通費のためにATMで10万円ほどをおろした。そして、待ち合わせ場所であるスーパーの駐車場へ向かった。スーパーではパンと水を買った。練炭なので吐く可能性が高かったが、私たちは東北まで行って決行するつもりだったので、お腹が空くことを考えて一応購入しておいた。
何故、決行地をわざわざ東北にしたのかというと、10月の四国では少々気温が高かったからだ。私は四国にA氏が到着したらすぐ、と思っていたのだけど、A氏曰く「練炭は寒い所でやった方が成功しやすいらしいです。練炭の熱が暑くて窓を開けちゃう人がいるらしい。絶対に失敗したくないので、東北でやりませんか。」ということだった。

20時になった頃、スーパーの駐車場にA氏が現れた。車の助手席に乗り込むと、後部座席にカセットコンロの箱のようなものが見えた。
お互いに本名は名乗らなかった。車の中で「親族か誰かが失踪したことに気付いて連絡が来た場合、連絡を返さずにスマホを捨てるか電源を切ること」「夜の方が寒いし見つかりにくいので、東北に着いたら夜になるまで一旦適当な場所で休憩しよう」などのことを決めた後、スーパーの駐車場を出発した。私の車は、車に鍵を付けたまま乗り捨てて行った。
twitterを見ると、お互いのアカウントが凍結されていた。A氏は「LINE交換しておいて正解でしたね。」と言った。

車内では色んな話をした。「何故死にたいと思ったのか」ということや、他愛もない話まで。A氏と私で一致したことは「死ぬ前に好きだったことを精一杯楽しみたかったので、後先考えず散財してきた。」ということだった。私の場合、10月1日から2日にかけて、大阪に行ってお笑いライブを見た。死ぬ前に大好きだった漫才が見たかった。その流れから芸人の話や大阪の話もした。

「疲れたら運転変わるので言ってくださいね」と何度も言ったが、A氏は何度も「大丈夫です」と言った。サービスエリアで休憩を挟みながら、東北へ向かった。

私は車に乗っている間、スマホの中身を整理していた。まず、写真は全て消した。家族、友人の結婚式、旅行の写真、全てを消した。家族や友人のことが頭の中でチラつくと、死にたくなくなってしまうことが分かっていたからだった。スマホアプリも殆ど削除した。Apple Musicだけは残しておいた。死ぬ時に聞きたい曲があったからだ。メモ帳には簡単な遺書を書いた。
スマホの整理が終わると、私はひたすらずっと頭の中で自殺のシュミレーションを行った。失敗することなく、痛みなく、眠るように死んでいく自分を何度も想像した。死への恐怖を無くすためだった。「楽に死ねるはずだ」と自分に暗示をかけ続けた。

2022年10月6日

車内での会話はほとんどなくなった。A氏はサービスエリアで煙草休憩をとりながら、眠気を覚しているようだった。東北から関東、関東から四国、そして現在まで、A氏はほとんど寝ていないらしかった。
私はLINEを開いてみた。誰からも連絡は来ていなかった。twitterで「#自●募集」をすると、警察が家にやってくるなんて話を聞いたこともあったが、今のところは問題ないようだった。
まるまる一日風呂に入ってない髪がベタついているように感じて気持ち悪かった。買ってきたパンと水は袋の中に入ったまま、そのままだ。お腹が空いたような気もするが、食べなくても平気だった。

朝方5時頃、群馬県にあるサービスエリアに入った。
A氏は煙草を吸いに外に出るわけでもなく、「疲れた」と言いだした。何度も「疲れた」と言った。その言葉の意味を汲み取るのにしばらく時間がかかった。
A氏はハッキリとそれを言わなかったが、つまり「やっぱりやめよう」と言いたかったのだ。A氏が「もっと計画を練ってくればよかった」と言ったところで、それが分かった。

私は混乱した。「やっぱり死ぬのはやめよう」と言う人に、「そんなこと言わず、死にましょうよ。ここまで来たんですから。」と説得することなどできない。
私は悩んだが「やめるというなら、やめましょう。でも、やめたら、私とあなたはもう二度と会うことはないです。もう一回計画を立て直して、一緒に死んでくださいということはできないです。このまま家に帰ってもしこのことが家族にバレたり警察のお世話になるようなことになった場合、私はあなたのことは伏せたい(募集をかけたのはA氏側なので、警察にバレた場合は私よりもA氏の方が不利になると思った)ので、やり取りもLINEの連絡先も全て消して証拠隠滅します。だから二度目はありません。それでもいいですか?」と聞いた。
A氏は頷いた。

スマホを取り出して現在地を確認した。近くにあった高崎駅を目指すことになった。

高崎駅の近くに着くと、A氏は「本当にごめんなさい」と言った。荷物になるので、パンと水はA氏にあげた。「交通費を払わせてほしい」と言ったが、A氏はそれを拒否した。
車を降りる際、私はA氏の顔を見れなかった。A氏も、ずっとフロントガラスの方を向いていた。

朝7時、私は高崎駅で悩んでいた。このまま自殺の名所にでも行って飛び降りるか、家に帰るかで迷っていた。しかし私は、結局家に帰ることにしたのだった。

「一人で死ぬのは怖い。」
A氏と何度も車内で確認しあっていたことだった。
私は、一人で飛び降りる勇気が出なかった。高崎駅で今日もいつも通り仕事に向かう人たちを見ているうちに、自殺の覚悟が薄まっていく。車内で何度も行ったシュミレーションと「楽に死ねるはずだ」という自己暗示が全て無駄になっていく。
また頭の中から家族や友人の存在を追い出し、自殺のみに集中することが、酷くしんどく思えた。

高崎駅から東京へ、東京から大阪へ、大阪から四国へ。電車と新幹線、高速バスを使って、私は帰ることにした。
会社の上司に急遽休む旨の連絡を入れた。怪しまれることはなかった。同居人と母親にも適当な言い訳のLINEを送っておいた。

新幹線の中で、一人考え込む。A氏がやめたいと言いだした時、実は心のどこかでホッとしていたのではないか。駅弁を見て呑気に「駅弁が食べたいな」などと思う自分にも驚く。食欲がある。「○○がしたい」という欲もある。実はどこかで、私の中にもまだ生への執着があるのではないか。
そうか。「失敗したくない。確実に死にたい。」と言っていたA氏がやめたいと言いだしたのは、東北から四国、そしてまた東北へという長旅のせいか。A氏は「死ぬぞ」と決めてから、実行するまでの時間が長すぎた。考える時間が長すぎた。それが自殺を考え直す時間になってしまったのだ。
そして私もA氏と同じように、冷えた頭で「死」を考え直している。

大阪のネカフェでシャワーを借り、ドリンクバーで野菜ジュースを紙コップに入れて胃の中へ流し込んだ。今まで飲んだ野菜ジュースの中で一番美味しく感じた。

一睡もしていなかった私は、高速バスの中で爆睡した。15時頃、起きると高速バスは地元に到着していた。スーパーの駐車場に捨ててきた車は、レッカーされてはいなかったが、警告の紙が貼られていた。本当に申し訳なく思った。

そして私は、その足で初めて心療内科に向かった。

現在


重度のうつ病判定を受けた私は、しばらく休職することになった。社長も上司もうつ病に理解を示してくれたのがありがたかった。
うつ病判定を受けてから1週間後、なかなか言い出せなかったが、母親にもうつ病であることを告白した。自殺しそうになったことは絶対に言えなかった。
姉には母親から伝えてもらった。薄情かもしれないが、父親には言っていない。父親が昔に「自殺するやつは弱い奴」と言っていたことを覚えていたので、伝えるのが怖かった。
同居人には不審がられたので、洗いざらい全てを話した。
警察から連絡が来たりすることはなかった。

休職して3ヶ月経った。私は2月からまた、働くことになった。

「死にたい」という気持ちは正直なところ、まだ完全には消えていない。浮かんでは消え、を繰り返している。
もしかしたら、またある日突然「やっぱり死のう。」と思って、同じことをしてしまうかもしれない。それは今の私にも分からない。
A氏のことは恨んでいない。今もどこかで生きているのなら、あの時に初めて同じ境遇の人と会話ができたことが嬉しかったということを伝えたい。A氏がやめようと言ってくれたおかげで、心療内科に行って、前向きに自分の精神状態と向き合うことにもなったのだから。