[暮らしっ句]春障子[鑑賞]
だれもゐぬ部屋に陽を溜め 春障子 布川直幸
誰もいなくてもカーテンを開けておけば陽が差し込みます。日が暮れてから帰宅すれば、まったく気にもならないことですが、陽が射している最中に帰宅すると、まるで誰かがいるかのよう……そんなことを感じたことはありませんか?
[誰かが]と云えばオカルトっぽくなってしまいますが、作者は[陽が溜まっている]と表現された。確かにそのほうが日常が崩れなくていい。でも、深意は限りなく「陽」を擬人化して、そこに引き留めているかのようです。
誰が何のために? と頭の幼稚なわたしはついそんな風に考えてしまうのですが、やったのは「春障子」。何のために? そりゃあ、春が待ち遠しかったからです。今の陽差しは、春の前触れでしかありませんが、それでも歓迎したい。もう少しゆっくりして行ってくださいな、と引き留めてしまう。
そんな最中に帰宅してしまったあなたは、やっぱり間の悪いお邪魔虫。あなただって春は待ち遠しい。歓迎したい。でも、そこにいた「陽」は「春障子」のお客様。あなたは遠慮すべし。
なんて、思わずフクザツなことを書いてしまいましたが、不思議ですね。そんなこと考えたこともなかったのに、そんなドラマが伝わってきました~
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次の間に 花嫁のゐる 春障子 丸山照子
障子の向こうに「花嫁」さんがいる。もうそれだけで障子が光を放っています。ところが、「花嫁」さんは静かにその時を待っているわけで、その静謐な気配が光に陰影を与えている。
陰影というと普通は影が出来るということですが、この場合は陰の混じった光、半透過光で、まさに障子です。障子の光の明るさ柔らかさが見事に表現されていると同時に生かされている。
何を生かしているのか? 「花嫁」のようで実は違う。「花嫁のゐる」ですから、部屋とかそこに立ちこめた非日常の空気が主題。見えません。見えないから「春障子」。この場合の障子は「花嫁」をその奥に閉じ込めつつ、匂わせてくれている。本来は助演なのに、この作品では主役。やってくれました!
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鳥影のよぎる昼過ぎ 春障子 甲富代
わたしもそんな実景を見たことがあります。決して特殊なことではなく、窓の外が物干しだったりすると、鳥がとまり飛び立つところが普通にシルエットで見える。
それはさておき、「鳥」と「よぎる」がこの句のポイントです。
たとえば、十二月の障子と今の障子と、光量を測定すればたぶん同じです。しかし、人は同じだとは感じない。端的に言えば、十二月の光は部屋を居心地良くしてくれますが、二月ともなれば、追い立てられる気がする。だから飛び去る「鳥」が殊更に意識される。
こんな句もあります。
鳥籠の影透けゐたり 春障子 石本百合子
「鳥籠」の繊細なシルエットに目が行きがちですが、その背後にあるのは、メタファーとしての「鳥籠」。つまり、外に出られない自分のことですね。障子越しの光がやんわりと外に出ることを促してくる。でも、作者はまだ出ていく気持ちにはなれない。何か出られない事情があるのかも知れません。その葛藤の象徴が「鳥籠」のシルエット。
でも、こうやって句に詠むと、その葛藤、その出口の無さそうな膠着状態も相対化されます。いわば自分を外側から眺めることが出来た。
つまり、その瞬間、作者は外に出ているんです!
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出典 俳誌のサロン 歳時記 春障子