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ガブリエル・夏 3 「ごはん、何?」

 まみもは、レイの横になっているソファの側に座って、頭の角度をレイと同じ向きにした。首の右側の筋が伸びる。そしてゆっくり聞いた。

「ガブくん、疲れてるでしょう? 昨日どこで寝たの?」

まみもはレイの髪に絡まっている葉っぱのかけらを2つ、かけらが崩れないように気をつけて、髪に沿ってクルクルさせながら取った。 オランダを今日出発して、この時間にここの駅に着くような速い電車はない。

「このまま一休みするのと、シャワーしてみんなでお昼ご飯食べてから、すっきりしてお腹いっぱいでぐわーっと昼寝するの、どっちがいい?」

 レイの緑色の目には、少し涙の量が増えたようだった。きらきら光って、妖精か何かが神秘の力を発揮する直前のようだった。後になって、この時のレイの目を思い出す時、まみもは仲の悪かった兄2人のことを思い出す。兄たち2人はまみものことが嫌いだったが、兄たち同士もケンカが多かった。まだ小学校の低学年ぐらいの年齢の時、上の兄が、友達に、「あいつは泣くと強くなる」と下の兄のことを言っていた。それは実際劇的な変身で、まみもも何度か見たことがあった。力ではどうしても敵わない兄1相手に、兄2は、だいぶやられて、痛さと悔しさがある点に達すると、涙を流しながら細い目を見開いて、すごいスピードで無茶苦茶にやりだすのだ。
 そのことを、涙プラス目というキーワードでつい思い出してしまうけど、レイの目はそういうのではなく、もっと詩的で綺麗だった。あるドラマチックな瞬間が来る前の緊張感があり、怒りはなく、静かで、でもいっぱいの気持ちがそこから溢れて流れ出すのを、表面張力がその能力を最大限に発揮して抑えているようだった。溢れてきそうな勢いのいいものが、悲しみなのか、寂しさなのか、ただとても疲れているのか、まみもにはわからなかった。

「……お昼ごはん、なに?」

この質問が好きだった。まみもの顔は多分すごく笑ったのだろう。レイもつられて、少し笑った。

「んふふ。お昼ごはんね、決まってないよ。なにが食べたい?」
「柚ちゃんのお母さんは何が好き?」
「ん〜。夏は冷やし中華ですね。」
「じゃあヒヤシチュウカがいい。」
「ガブくんが言うと、ピカチュウみたいに聞こえる。
   食べたことある? スープに浸かってない冷たい麺で、上に野菜とか玉子とかハムとかのってるのだよ。」
「食べたことはないと思う。でもおもしろそうだからそれがいい。」

 昼ごはんが冷やし中華に決まり、大きな問題が1つ解決されたような雰囲気になった。レイも幾分ほっとしたように見える。仰向けになり、1つ長い息を吐いてから、もう一度横向きになり、下になっている右側の肘を立てて頭を支えた。上になっている方の左足を立ててできた三角形をプラプラさせている。遅く起きた日曜の午前中にテレビを見る、昭和のお父さんの体勢だ。今は床から垂直方向に、すなわち通常の人間が通常保っている角度の状態になっているまみもの顔を、レイは左手で押して、さっきまでと同じになるようにした。まみもの右側の首筋がまたストレッチされる。そろそろ左側も伸ばしたいと思う。レイとまみもの顔は2つとも床と平行の方向で向き合う。レイの眉毛は、髪よりも黒々していて、密に生えている。睫毛は長くて、くるりんとカールしている。少し濡れて束になっている。それに上下を挟まれて、今は寛いで湖に浮かぶお皿のような緑色の瞳があり、大きめの鼻と大きめの口がある。

「柚たちを呼ぶよ?」
「うん。」

 まみもは立ち上がり、階段のところから2階にいる柚と研を呼んだ。レイもゆっくり立って、ソファの後ろにあった本棚を眺め始めたが、階段を降りてくる足音が聞こえ始めると、さっとソファの下に潜り込んだ。柚と研は、ソファの下から見えている手足をおもしろがり、その持ち主の予期せぬ訪問に驚き、喜こんだ。なぜレイがうちに来たのか2人には見当もつかなかったが、直接聞くのは失礼だと思ったのか、それより他のことを先に聞きたかったのか、若い3人は、レイの乗ってきた電車の車輌、ルートや乗り換えの駅、車掌の切符の点検のタイミングやビスケットのサービスなどについて、楽しそうに話し合った。Mezzo という、ドイツではよく売っているオレンジジュースとコーラを混ぜたドリンクを研が勧め、柚が出し、3人が飲んだ。レイはシャワーを浴びて、研の服を着た。パンツは研が貸す気にならなかったようで、ハーフパンツの下はノーパンだそうだ。レイの父親はカナダ人、母親は日本人で、2人ともオランダの名門大学で先生をしている。教授かどうかは知らない。一緒に暮らしているが、結婚はしていない。レイと弟はオランダ生まれで、家では英語、学校でオランダ語、土曜日の補習校で日本語を使うので、レイにとって日本語は3番目の言語であり、語彙はあまり多くない。「ノーパン」は新しく聞く日本語で、変な和製英語のところも気に入ったらしく、はしゃいでいる。ノーパンを使った例文を次々に言って、研を笑わせた。

 冷やし中華の準備ができた。今日も在宅勤務で3階の書斎にいた章が降りてきて、レイを見た。レイは、

「こんにちは。レイ エドワーズです。お邪魔しています。
   今、ノーパンです。」

と、挨拶した。

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