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ガブリエル・夏 1 「地下」

 森本まみもの家族がこの家に越してきたのは、1週間程前のことだ。Covid-19の影響で国を超える移動が自由にできなかったので、この家は、ネットに記載の情報と写真だけを頼りに、数ヶ月前に夫の章と娘の柚が主導で選び、契約した。空き家情報は多くなかったが、それでも候補の数件からこの家が選ばれた主な理由は、柚と研が自転車で学校に通える立地であること、部屋数が充分にあることと、章の通勤にも不便がないということだった。まみもは、章の在宅勤務が今後も続くなら、できれば自分専用の小部屋、それが無理ならリビングの端っこにでも、プライバシーが確保される小空間が欲しかった。希望は出していたが、新しい家の間取りでそれが叶えられるかどうか、章と柚がそれを考慮していたかどうかはわからなかった。庭があるのは確からしく、こうなったら家の中の自分用スペースについてはどうなっても、好きなように庭を改造して花や木を育てることに専心し、それで心を保とうと考えていた。
 まみもは今、その家の地下室でアイロンをかけている。通りから下って入るガレージからつながる地階には、小さな倉庫2つに加えて、9メートル四方程度のスペースがある。この地域ではそこに洗濯機や乾燥機を設置するのが常らしい。この家には家具や家電は備え付けられていなかったので、章とまみもは、駅前の電気屋で洗濯機を買い、そこに設置してもらった。乾燥機は使い慣れていないし、要らないというと家計を牛耳る章の機嫌がよいので、買わないことにした。代わりに日の当たらない地下でも翌日には洗濯物が大体乾いているように、ほぼ一日中扇風機を回して空気を動かしている。結局この家でも主婦のまみも専用にできる部屋はなく、望んでいたような自分だけの小スペースも確保できなかったが、地下には他の誰も用事がなく、滅多に降りてこないので、ここが、ほぼまみもの個人的な空間となっている。乾いた洗濯物を畳んで仕分けるのは、上の居室で大きく広げてする方が多分効率よくできるのだが、まみもは地下でするのが気に入っている。ついでにアイロン台もここに置くことにして、1人空間で過ごす時間を増やすのに正当な理由付けができたのが嬉しかった。

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 柚のブラウスの次に、いまいち気持ちよく乾いていないフェイスタオルにもアイロンをかけながら、まみもはYouTubeでDWのライブを聴いている。DWは、ドイツ発信で国内外のニュースを英語で放送している番組だ。ドイツ語ではまだ数字さえ満足に言えないながら、今はこれから暮らしていくドイツについてより多く知りたいまみもにとって、DWは、BBCワールド、CNN、Euronews等と比べても、気に入りの情報源になっている。ニュースは、先週起きた、西ヨーロッパ大規模洪水の続報を流していた。被害は甚大で、死者は見つかっているだけで180人。洪水発生時地下室にいた住民で助かった者はいないという。地下室。この部屋に水と土砂が一気に流れ込んできたら、と、まみもは考えた。庭へ続く階段の手前には、ダイニングの床に敷いてある長方形の石が一枚、立てられている。一部割れている。水ストッパーの役割を担っているようだが、ホースの水を当てたら倒れそうな、頼りないものだ。水が入ってくる時は、まずそこからだろう。次にガレージ側から、さらに居間へと続く階段から一気に流れ込んできて、みるみるうちに水かさが増して、スケート靴や植木鉢とともに、自分は水の中にいて上も下もわからないようになるんだろう。それが土砂だったら、身動きが取れなくなって、きっと飲み込んだ砂で呼吸もできなくなるのだろうと想像する。死か。地上にいて多分うまく生き残る子供達と夫は、水が引いた後、めちゃくちゃになった家と、見えなくなった母が埋まっているであろう泥の塊を前に、ずっしり重く暗く、目をつぶって悪夢から覚めるのを待ちたいような気持ちになるのだろう。何かおもしろいものを、彼らが見つけて思わずクスッと笑いだすようなものを、流されないところに仕込んでおかなければ。柚と研の好物の作り方も、掃除が嫌にならないコツも、詳しく書いて置いておこう。

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 ピーン、と玄関の呼び鈴が鳴ったのは、まみもがそんなことを考えていた時だった。



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