砂族からの手紙

題:白石かずこ著 「砂族からの手紙」を読んで

白石かずこの詩を読むと、とても安心する、とても落ち着く。ダイナミックな言葉が波のように押し寄せてきて胸を打ち、高揚とさせては穏やかに消え去っていく。白石かずこの散文は「黒い羊の物語」など何冊か読んでいるが、これまた簡潔でダイナミックである。適度にエロさも含んでいるところが良い。ただ、単に男が好きだと述べているだけの簡単な文章で、その男も美男からは隔離されていて、どころか野生動物的な風貌を持っている、この簡潔な表現に何とはなしにエロさを感じるのである。にっと歯をむき出しにして笑うような男との愛とは、どういったラヴ的な諸行為を表現していのであろうか。

ともかく、この「砂族からの手紙」という散文を買ったのである、もしくは押し入れから見出したのである。読んでいるはずが、もしや読んでいないかもしれない。「風景が唄う」と「ロバの貴重な涙より」も買ったか見出したのである。この二つはたぶん読んでいない。ともかく、この「砂族からの手紙」を読んでみる。砂族たちとの付き合いも含めて18個の短文からなる。短文というよりこれが「砂族からの手紙」である。なるほど、知ってはいたが、砂族とはエジプトに起因するのか。「砂族」なる詩集に表されている詩の、その経験談である。砂族という分身が白石かずこの内に生まれ、砂なるスピリットが生じてくる出会いであり風景が描かれている。でも読んでいくと、砂にもいろんな種類があり、著者はそれらをすべて体験している。黄色はエジプトのカイロの傍らのサハラ砂漠の砂の色。ピンクはそこから遥か南へとナイルをのぼってアスワン、アブシンベルの砂の色。ハワイのビーチの黒い砂。そしてオーストラリア中央部のオレンジの砂、オレンジというより赤茶色の砂。アポリジニとの出会い、女との出会い、男との出会い。

とにかく白石かずこは忙しい。ダイナミックな動力学的な文章と同様に各地を飛び回る。まさに著者が述べるように吟遊詩人である。鯨との出会い、馬車屋たちとの出会い、インディオとの出会い、猿との出会い、人形との出会い、猫と鷹との出会い、黒砂糖やグウバ茶との出会い、美しい女詩人や母親思いの敬虔な詩人との出会いがある。吟遊詩人は出会いに満ちていて、詩を歌い踊って、がさつに飲み食いして、男を愛して、そしてさっと眠るのである。どうしてこんなに簡潔に動力に満ちた文章を書けるんだと感嘆する。修飾語が少なくて、感情など繊細さがなくて単純明快であり、時空間がさっと次の場面の文章へと移るためであろうか。

久しぶりに「砂族」なる詩を読む。十回以上読んだ詩集である。一番好きな詩集である。「聖なる淫者」よりも好きな詩集である。やはり出だしの「手首の丘陵」が良い。懐かしさが溢れてくる。読み終わるとほっと安堵する。少しばかり砂の感触を味わいながらじっと動かない。動かないでいると、可愛らしい砂の粒がこぼれ落ちているような気がする。きっと砂族からの贈り物である。この「砂族」は先に述べたように「砂族からの手紙」に書かれている実体験から記述したものであろう。ただ、文章がより高度に生まれ変わっている。詩を歌い踊ってがさつに飲み食いする詩人が、リズムを持ってダイナミックに内なる砂族を称え緊密さと誇りを持って言葉を疾走させている。

白石かずこの詩の特徴など考えたことはなかったが、また考えてここに書く必要もないのであるが、少し思い巡らせて思いつくままに箇条書きにて示したい。
1) ダイナミックである。行を跨ぐか跨がないうちに時空間を飛び越える。これが詩にダイナミズムを生み出している。また時々同じ文章や単語を繰り返しや、主語と述語を反転させる器用さがありダイナミズムの隠し味になっている。キーワードはとにかく各所に散りばめられていて、律動して脳に焼き付く仕組みになっている。
2) 可愛らしいエロシチズムが含まれている。可愛らしいというより健康的で解放されたなエロシチズムが表現されている。これは彼女が生の肯定者であるからに他ならない。まさしく彼女の詩は生を性としてのみならず命そのものを謳歌しているのである。命を謳歌し賛歌する詩を歌っているのである。
3) 余剰物は含まれない。最低限度の修飾語しか用いない。これが詩の幹を太くして詩の全体を屹立させて、印象深い詩となっているのである。
4) そして何よりもリズムがある。律動する波動が伝わってくる。これは先ほど述べた詩の表現にて行っている繰り返しや反転に倒置の手法に、時空間を飛び越えて表現する手法が関連しているのであろう。
5) 彼女は言葉の意味など面倒なことは考えない。あっけらかんとした解放性を基本としている。つまり表現されている言葉そのものを信じ切っている。信じ切っているというより言葉と一体になっているからこそ、簡明にかつダイナミックな詩になるのである。言葉の意味など考えると、表現に技巧を加え過ぎると、くどくてみみっちくて読むに耐えがたい詩になりがちである。
6) 彼女の詩に思想はない。ただ、男が好きなだけである。ただ、言葉にて表現された詩だけがある。この表現された詩から何かしらの思想を読むのは、読む者の思いが詩から読み取った自らの思想である。

簡単に書いたが、こうしてみると白石かずこの詩とは純粋に読むだけで楽しみ味あうことのできる詩なのであろう。無論、彼女にも思想や感性があり解釈することができる。また、これらの詩から自らの思想を重ねて引き抜いてくることもできる。でも、やはり思想や思考のない詩として、この詩の内に身を委ねて、頭を空っぽにしながら律動する体感に酔い痴れることができる、このことこそが彼女の詩の持つ崇高さなのであろう。そうと言い切りたい。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。