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散文詩「首を吊った太陽に蛇や女」その25

第五章 首を吊った太陽

    太陽は燃焼する

 太陽はそのそこに在る。確かに在って光を降り注いでいるこの宙へ、柔らかに暖かみのある光が淡い朱の色をなして透過している。揺らぐこともない恵みの光が万物なる生き物や万象を形作る事物の上に、波でも粒子でもない、これらの思い告げる心の内があっちにこっちに離れていても必ず伝わるように、宙の隅々まで照らし出している。太陽は爆発も崩壊もしていない。従ってこの宙にがらんどうなる空はない。何もが消えてしまう、心も肉も物も瞬く間に消え失せてしまう空虚などはない。この宙はどの領域においてもすべてが満たされている、生物や事物が生きて在り、空っぽの箱などないのである。
 何をも飲み込んで消去する、がらんどうで空なる女の胎内などない。胎内には生まれるべき嫡子や庶子も含めて万物なる生物やら万象を形作る生きた事物で満ち満ちている。さざ波が音を響かせている、まるで海のように羊水は膜で覆われたこの宙を守り、新しい命を育んでいるのである。女は宙を歩いている。穏やかな日差しを浴びながら、光の糸を紡ぐためにそっと指先を伸ばすと白い指が光の筋を捕えてしゃがむ。針先の小さな穴に煌めく糸を通して繕い始めるのである。それはあなたのズボンでも首吊り縄でもない、綻びたこの半球でもこの宙を収めた箱でもない、死んだあなたの瞼である。
 もう見ないようにと閉じる、死んだあなたの瞼を縫うことに意味などない。もうあなたは幻覚さえ見ないのだから。あなたの瞳が放つ冷やかな視線を見ないためになら意味がある。天の頂から吊り下がっているあなたは、女の柔らかい膝に頭を乗せている死体でもある。女は結んだ糸を切ることをしない。少しばかり瞼を糸に煌めかせて、あなたは女の膝から浮き上がって天の頂きから吊り下がっている。太陽は変わらず光を降り注いでいる。まるでこの宇宙の全領域が日差しに包まれていて平穏そのものである。女は宙を歩いている。その視線は光の先を見ている。光を発する太陽そのものか、その向こう側の膜で仕切られた別の宙であるかは定かでない。
 徐々に光が増している。太陽は自らの意志として光量を増加させている。女は首筋にうっすらと汗を浮かべている、白い肌が濡れて光っているように見える。だが光の量とは無関係に常に艶やかな肌である。増加された光の量はほんの少しである。時々ほんの少し増加させる。そして女があなたへ振り返る時間の量より、この宙が増加させる時間の量の方が重要である。歩く歩幅の長さよりその歩いた数が問題である。つまり天の頂上に吊り下がっている時計のその揺れる周期の時間や、揺れる振り子の振動数が問題なのである。増加された太陽の光の総量に太陽自身が耐えられなくなる時がくるのか、この恵みを受ける生き物が眩しさに目を閉じて動けなくなる時がくるのか、揺れる振り子のどの一つであっても、この時を正しく告げ知らせてくれるかが問題なのである。
 太陽はそのそこに在る。誰もが狂っていないと思う。常に優しさに満ちた光を、光の量を送出している。内部がいかに物質の融合と分裂を繰り返していたとしても与り知らぬことである。知っていたとしても生命体なる太陽自身の意志であって、関与はできぬが故に誰もが狂っていないと信じる以外にない。もし女のように狂っていて、女が艶やかな肌の色を赤く染めて、また生み出すために残骸や死体の量をもっと孕んでそして放出する、同じように太陽がそのフレアーの肌の奥の空洞を更に物質で埋め尽くして燃焼を続ければ、光量は大幅に増加するはずで、何もが生き物も誰もがおかしくなる狂ってくる、でも内部が透けて見えることはないし、どう燃焼するかは太陽の意志であって誰にも分からないのである。

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。