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題:ニーチェ著 渡辺二郎訳「ニーチェ全集3 哲学者の書」を読んで

ニーチェを読むと、共感と同時に反抗心が生じてくる。その原因はおおよそ分かっている。ちくま学芸文庫から、読んでいないものを含めてニーチェ全集が発刊されているということで、全部を読んでみたい。新たな自分なりのニーチェ像を創造しようというのである。まずは本書この「哲学者の書」である。どうもニーチェ全集とは遺稿も含めて、妹や編集者との関連で多様に種類があるらしく、結構面倒なものであるらしい。遺稿には初期の著書も含められるらしく、これらの詳細が本書の「解説」に記述されている。でも、どうにも良く理解できない、理解するつもりがないということでもある。そこまで詳細を知らなくとも良いのである。

本書は「哲学者の書」を中心に掲載されているが、この書はニーチェがギリシア哲学などの評価を通じた哲学的思索の結果を覚え書としてまとめたものである。正式には「哲学者に関する著作のための準備草案」と言うらしいが、確かにニーチェの哲学的思考の萌芽が見て取れる。なお、1873年前後に本書はすでに記述されていたらしい。「悲劇の誕生」の発刊前後らしいが、その他の初期遺稿も含まれていて、どうも良く分からないけれども、ニーチェが27、28才頃、バーゼル大学の教授の頃書いたのであるのかもしれない。詳細を知りたい人は本書の「解説」を精読されるのが良い。一度、ニーチェの主要著作物の年譜を見てみるのも良いと思われる。

なお、ニーチェの市立小学校からギムナジウム時代、プホォルター学院時代、ボン大学時代などの経歴や妹エリザベートの兄への思い、ヴァーグナーとの絶交やル・ザロメとの三角関係など個人的経歴はそれほど思想には影響を与えていないと思われる。ただ、プホォルター学院時代に詩や音楽を作成し相互に批判し合う「ゲルマニア」は、その後のニーチェの創作活動の原点であり得る。さて、本書には八つの章に分かれて記述されているが、1870年代記述が主であり、やはり「哲学者に関する著作のための準備草案」と「われら文献学者をめぐる考察のための諸思想」が重要である。「われわれの教養施設の将来について」も面白い。この教養施設に関する作品は五つの講演であるが、結論としての一講が欠けている。ニーチェはこの施設問題に次第に関心を失っていったようである。

この講演の内容を簡単に記すと、学者と学徒との話を友人二人と聞いていて、次第に二人は話に加わるようになる。ギムナジウムの教養施設としての役割について論じているのである。必要なのは言葉の正しい歩き方であり、ギリシア的守護神であり、ドイツ的な本質なのである。偉大で永続的な仕事のために教養こそが目標であり、一民族の教養の母体の中で成熟して教育された場合の天才のみが成し遂げることができるのである。そうした教育を行っていない教師や施設を彼ら二人は非難する。結局、哲学者の『教養は、それとは反対に、あの、困窮の、生存闘争の、欠乏の世界を高く超えたところにある気層の中で、初めて始まる』との言葉がまとめであると考えるのが良いのかもしれない。ただ、精神の秩序の中に支配している予定調和という考え方と、科学に対する熱き信仰を持っていることに留意する必要がある。

「真理の情熱について」は短い論文であるが、詩文で良い。「人間」という概念、文化との怖ろしい戦い、そして哲学者は真理を所有しているのである。世界は永遠に真理を必要とし、人間たちに真理は何のかかわりもない。人間は錯覚への信仰のみを持ち、間断なく欺かれ続けることで生きているのである。人間は認識の動物であり真理を呪うばかりである。そして、認識が究極目標として達成するものは破滅であると記述している。

さて、「哲学者に関する著作のための準備草案」は記述年により四つに分かれる。「ギリシア人の悲劇時代の哲学」なる著作物が歴史的な部分であるならば、この草稿は理論編である。ただ、このテクストの経緯などは複雑であり、本書の詳細な解説を参照のこと。私を含めて読者には、ニーチェが一般的な哲学に関する項目について、このような記述を行っていることをあまり知らないのではないだろうか。哲学用語など基本的な哲学的要素についてきちんと語っているのである。ハイデッガーまたはドゥルーズがニーチェは「最後の主観哲学」と述べていたそのことの意味が、この文章を読んでやっと理解できる。それは主観で物事を明確に判断して記述する哲学と思っていたのであるが、その背後に主観と呼ばれるものが定義する哲学的に広義な世界がすそ野を広げているのである。つまり適切な表現ではないかもしれないが、世界構造が主観によって幅広く客観的に組み立てられているである。

「哲学者に関する著作のための準備草案」について簡単に述べると、われわれは「主観的」と呼ばれる浅薄皮相な悟性によって、概念を認識する。そして空間の領域においてのみ絶対的な認識を持つ。この認識可能な最後の限界は量であり、人間は質を理解しない。概念にはまず形象が対応して、形象こそが根源的な思想でありながら、事物の表面を包括的に捕らえたものである。もはや知性の王国においては、一切の質的なものは、ただ量的なものにすぎないのである。われわれを質に導いてゆくのは、概念であり、言語である。こうして芸術的な力が述べられる。芸術的な力こそが形象を生み出して選び取る力となることができるのである。こうしてニーチェの芸術に対する賛歌は尽きることがない。そして、われわれの救いは認識のうちにではなくて、創造の内にあるとする。空間、時間にしてもすべての形態は主観に帰属するのである。それは鏡によるさまざまな表面の把握であるとも述べているのは、質への転換を予期させる。

こうして没落という言葉がでてくる、誠実さの目標が没落である。更に認識の作用について論じる。なお、認識への衝動を欺いて、当座の時間これを満足させるのは錯覚であり、非真理でありながら、この満足の価値は生の領域にある。生存への意志が、哲学を利用して、より高次の生存形式という目的のために、この錯覚を役立てるのである。こうした虚偽の認識の上に立っている生というものをニーチェは認めているが、厳格な哲学的な定義に従うならば、この欺きを否定して乗り越えなければならないのである。

なお、カントは注目に値する哲学者として尊敬もして批判も行っている。ショーペンハウアーもニーチェにとって尊敬すべき哲学者である。なお、数学的な記述はふさわしくないと言い、スピノザの名前は出ていない。本準備草案の三項以降には、「道徳外の意味における真理と虚偽について」などを記述している。それにしても本草稿は箇条書きと文章とが交互に記述されていて、じっくり時間をかけなければとても理解できるものではない。草稿ではなくて正式に記述され出版しているものを熟読する必要がある。草稿のみに終わっているのはとても惜しいことである。

草稿における発芽思想を理解するのは難しいことであるが、ギリシア哲学が色濃く反映している。なおもう一つ重要な「われら文献学者をめぐる考察のための諸思想」についての紹介は省くが、この論文は、「反時代的考察」の草案であったのこと。ただ、内容はまったく異なっていて、文献学者そのものの批判となっている。理由については「解説」を参考のこと。簡単に言えば、文献学者はまず、古代と現代と自己自身を理解していなければならないのである。古代とはギリシアであり、自己自身の理解とは教育者としての自己の理解である。それにしても、草稿レベルを読むことはどうにも困難性が付き纏うものである。ただ、後に発芽する思想を含んだ草稿文に触れると、この文章が思想としてこれから肉付けされていくのだと、いたく感嘆するするのである。

以上

詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。