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短編小説その19「消却すべき肖像画」

消却すべき肖像画

あの人は肖像画である。壁に掛けられている。いつも部屋の中を覗いている。見張られている気がする。捨てようと思うともできない。なぜなら遺影だからである。そんなに大切なのか。彼とはどんな関係にあったのか。肉体を密着させる濃密な関係性を持っていたとしても、次第に淡泊になって終には希薄というより無関係になっている。そう思うと女は容易に肖像画を捨てることができる気がしてくる。どうして飾っているのか。思い切り捨て去れば良い。そう思うともできない。関係性は無くとも彼の遺児がいるからではない、彼の魂の欠片がまだ心の隅に残っているからでもない。彼の残した家や財産で暮らしているからでも決してない。もう彼は死んで居ないのだから一切の束縛から免れているはずである。単に捨てれば良い。もう殆ど関心を失くしていて気にもかけていない肖像画のはずである。本当だろうか。ただ、それなら覗かれ見張られていると感じることはない。女はもう一度肖像画を眺める。若くて好い男である。いつのことだったのだろうか。関係性はいつ生じていつ終わったのだろうか。心の隅から捨て去らない限り終わったとは言えない。眺めていると遠い昔の思い出が甦ってくる。苦々しい思い出を味合わなければならない羽目になる。女は決して過去を完全に消却してはいなかったのである。心の隅に細胞の記憶が生き残っていて亡霊のように心に被さってきて、女は少し潤んでくる。過去の記憶が心の襞の内に広がり支配して過去そのものが女を支配してくる。ただ、女はそれほど感傷家ではない。現実に成さなければならないことがある。一時潤めばもうきれいさっぱりと過去を捨て去ることができる。例え永遠でなくとも、しばらく忘れることができるはずである。


女は登校する子供を見送る。それから少しばかり化粧をする。小奇麗にして出勤する。ある商店の売り子をしている。干した魚などを観光客に売る土産屋に勤めている。まだ若々しい女は客などの注目を集める。商店主はとても喜んでいる。気に入っているのである女そのものを、売り上げの多さでも薄給で雇えることでもない、女そのものの姿態や動きに艶めかしさに商店主は心底惚れ込んでいる。ただ、どうしても理解しかねている。なぜこんな小さな店で働いてくれるのか、それも少ない給料で、何か目的があるのではないかと探そうとも何も見つからない。この海に近い店で潮風を受けながら働くことが慰めになっているのかもしれない、そう思うともどうしても納得できない。無論女の境遇の細部は知らない。大きな別荘に子供と共に暮らし始めたのはほんの数年前である。誰かの妾ではないかと思ったけれど、男の出入りはない。不思議に思いながらも女の爽やかな笑顔を見るとこうした詮索も忘れてしまう。詮索などしなければ良い。


その日は良く晴れていて客足も増え忙しくなるはずである。女まるで若い娘であって、暑い日差しを避けながらもきびきびと働いている。子供が居るなど信じられない。でも確かに子供と一緒に住んでいる。実の子なのだろうか。女を眺めて思案している商店主は背後から肩を叩かれる。女に気があるのを神さんは知っている。年寄りであっても焼き餅はやくのか、神さんは愛想よく働く女が嫌いである。店にとってとても得にはなるけれど、もうそれほどお金はなくとも生活できる。女を追い払って欲しい、でも旦那は頑として聞き入れない。


神さんもこの女の正体が気に掛かっている。どうしても信じられない、魂胆があるとしか思われない。他の港ではなくてこの港に、他の店ではなくてこの店に居ることが納得できない。狙いを定めているとしか思われない。悪女なる女の魂胆とは何か、気に掛かるけれども分かりようがない。やはり晴れた日の客は多くててんやわんやになる。神さんも女も商店主さえ観光バスから降り立った大勢の客の対応で忙しくなる。この忙しさは夕方まで続くことになる。最後のバスが去った後に彼らは一息ついて交互に休息を取る。無論一人ずつであって、神さんは旦那と女とを二人きりにはさせない。女は店の裏の小さな庭に備え付けられた椅子に座って菓子を摘まみながら青空を眺めている。昼食は取り損なっている。青空は澄み渡っていて宙の遠くまで見通せそうである。女はこの宙の遠くに何かがあると思う、それは秘密である。思い募ってくるその内容が秘密なのではなくて、この宙の内に秘密が隠されている。それを見つけ出したいとは思わない。秘密とはそっと隠しておくべきものである。まるで隠された宝物のような高貴な秘密が潜んでいると思って女は楽しんでいる。。決して現れることのない秘密を、秘密の鍵のような小さな秘密を手に入れると、もっと大きな秘密の宝箱を開けることができて、それはまた途方もなく巨大な秘密に繋がっている。この宙がもはや秘密を隠しているのではない秘密そのものである。秘密を隠した巨大な宝箱こそがこの宙なのである。こうして秘密に対する思いは巡り巡っても結論はでない、でも秘密の迷路を少しばかり巡ると心が安らいでくる。もしや彼は部屋の肖像画から眺めているのではなくて、この宙の秘密の隠れ家から覗いているのではないだろうか、突然そうした思いに捕われて女は密やかな視線を肌に感じてわずかに心を震わせる。


彼のことは完全に忘れる。心の隅からも追放すべきである。女はお茶を飲みながら、そう決心する。あの青空の奥の秘密の箇所に追放するのではない、この道端のゴミ捨て場に肖像画を捨て去る。きれいさっぱりと廃棄するのである。仕事を終えていつもの通り急ぎ足にて家に帰る。子供が待っている。決心されたことはすぐに実行されなければならない。だが、その前にどこを探しても子供が居ない。女は不安に襲われてくる。あの部屋に入ると肖像画も無い。秘密の宝箱の存在を楽しんだために、現実的な繋がりは何ら無いはずであっても、何かが変わったのだろうか。女の不安は増幅して戸外に飛び出る。夕焼けが空の彼方に広がって水平線を染めている。女は思わず走り出している。そうして海の傍、波打つ砂浜の小さな砂粒を踏みしめて水平線を見詰めている。この赤く焼けた空と海の番った彼方を引き寄せられるように見詰めていると、海が渦の色を巻いて天に昇ろうとする。波が悶え荒れているからに違いない。一艘の船が狂おしい波しぶきの頂上に浮いている。木の葉のように揺れて天に向けて放り出されようとしている。肖像画なる彼が子供をこの船の中に隠して連れ去ろうとしているのではないだろうか。そういう思いに捕われて声にはならない声にて懸命に女は叫んでいる。もはや心は乱れてただ泣き叫んでいる。すると一枚の肖像画であるはずの彼が船の上に立っている。まるで生きているように遠くから女を見ている。子供はどこに居るのだろう。女は肖像画を消去しようとした罰を受けていると思う、彼を裏切ろうとした思いが生じさせた結果なのだと信じる。


もうこうした罪な思いはしない、死んでいようとも肖像画として残して一緒に暮らし続けると心に誓う。でもその誓いの思いを届けるにはどうしたら良いのだろうか、その術を知らない。彼は肖像画の薄い紙ぺらのまま赤く色を染めて燃える空間を遠くの宙に向けて上昇し続けている。止めようがない。せめて子供の姿を見せてくれないかと思おうとも、一切構わずに燃え盛る炎に似て何をも包み隠して上昇させている。この炎の中で子供は熱くて泣き叫んでいるのではないだろうか。女は泣き崩れる。砂浜の砂に腰を落としてただ茫然としている。そうするうちに夕焼けはおさまってきて夜が訪れる。自然の摂理は儚くも何をも飲み込んでしまったのである。砂浜にも夜の闇が訪れて深まってくる。女は静かに立ち上がる。それ以外の方法などなくて、家に帰らなければならない。一縷の望みもある。子供は家に帰っているかもしれない。遊びに出かけて居なかっただけなのかもしれない。女の脇に商店主が立っている。優しく肩を抱かれると女はなぜか崩れそうになる。腕の中に飛び込んでしまいたくなる、きっと弱々しい心の絶望した心身の成せる業に違いない。女は泣きじゃくっている。掴んだ衣服の端が破れて商店主の体が露わになる。その若々しい肌に女は見覚えがある。彼なのである、きっと彼に違いない。女を助けに紙ぺらではなくて実なる体を持って彼が現れたのである。そうと信じたい。彼は女の仕打ちを知ると、冷たく女を捨て別の女と去ってしまったが、再び現れ出たのである。女と心中してしまったが、恋しくて再び依りを戻したいと生きて戻って来たのである。商店主の優しさに女は嘘であっても、何としてもそうと信じたい。彼であってももはや彼と信じられなくとも、きっと彼なのだと信じたいし彼であるはずなのである。


夕暮れの浜辺に誰も居ないのを知っていても、潮風が吹くばかりであっても、ただ彼が現れ出たと信じたい。そっと一人女は帰り道を歩いている。赤く燃え盛る海の彼方を女は思い出している。空と番って、まるでこの宙まで届くようにと炎を吹き上げて狂うように舞っていたこの海の姿を見たのである。それは秘密ではない、この宙の秘密とは決して見出すことができない。決して現われることのない秘密とはもはや秘密とは言えない、謎と言うべきであろうとも、でもこの宙にはきっと秘密が隠されている。もしやこの宙の秘密とはこの女だけの秘密なのかもしれない。心の扉を開ければ簡単に現れるごく些細な秘密なのかもしれない。取り得のないありきたりの秘密をこの宙の背後に隠された大いなる秘密のように錯覚している。この錯覚は女の心の内にありこの宙にあるはずなどない。


家に帰るなり女は子供の名前を叫ぶ、大声で叫ぶと子供が走って現れ出てくる。あまりの嬉しさに女はしかと子供を抱き締める。柔らかく若々しい肌が心地よくて女はたくさんの涙を滴らす。それは随喜の涙とも言える。女は悟ったのである。この子は秘密を隠していたからこそ生まれたのであると、彼は秘密を知ったために自棄になって死ななければならなかったと。やはり彼の肖像画は消却しなければならない。秘密を投げ捨てるのではない、もう二度と秘密が表れ出て見ることのないように焼却する。焼き尽くすのである。この地に炎が昇って天を赤く染めるように、この世界の大いなる出来事の一つとして行うのではない、裏庭にてこっそりと枯れ枝と共に焼くのである。肖像画が無くなればきれいさっぱりと何をも忘れることができる。わが子も戻ったからには一切を消してまた新しく始めることができる。気に掛かって女は部屋の中へと入っていくと、彼なる肖像画はきちんと寸分の狂いもなく壁に飾られて女を眺めている。その視線は女の心の秘密を探るように冷ややかである。女は土産屋の商店の売り子を止める、そして別荘も売り払おうと思い始めている。彼が商店主となって現れ出てくることもない。また冷たい視線を浴びることもない。この地に関わる秘密を、自らに関わる秘密も含めてすべて消却したいのである。海と空とが番って赤く燃え上がれば新たな命も生まれ出てくる、このかけがえのない真実はこの宙にもこの地にも、隠されている秘密が何をも消え去るに違いない真な真実である。この宙を眺めれば決して秘密など隠されていない、開けっ広げにどこまでも秘密の隠れ家でさえ解放されていて眺めることができる。女は彼なる肖像画の唇に指を押し当てて、真なる別れをきっぱりと告げている。


詩や小説に哲学の好きな者です。表現主義、超現実主義など。哲学的には、生の哲学、脱ポスト構造主義など。記紀歌謡や夏目漱石などに、詩人では白石かずこや吉岡実など。フランツ・カフカやサミュエル・ベケットやアンドレ・ブルドンに、哲学者はアンリ・ベルグソンやジル・ドゥルーズなどに傾斜。