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村中直人『<叱る依存>がとまらない』を読んで

 今たいへん注目されている本ですが、私もこれは素晴らしいと思いました。その感想を書きたいと思います。(これは書評ではありません。私がこれまで書いてきたnoteと重なる所も多々あるので、その再検討などをしてみたいと思います。)

「叱る」と「怒る」はほとんど同じ

 「怒ってはだめだが、叱るのは必要」という言説がまことしやかに言われていますが、言われる側に生じる感情はほとんど同じだと書いてあります。どちらも相手にネガティブ感情を与えることでコントロールしようとする行為であることに変わりないからです。
 この指摘は正しいと思います。実際、子どもたちは「怒られた」と言います。「叱られた」とは言いません。子どもたちは両者を区別していません。
 そして、先取りして本書の主張をいえば、怒る必要も叱る必要もほとんどないという話になっていきます。

「叱る」には人の学びや成長を促進する力がない

 叱られた人は扁桃体や島皮質が活性化し、「恐怖」や「不安」などのネガティブ感情が発生します。それは「防御反応」であり、人に危険回避の行動を取らせます。このとき、知的な活動に重要な前頭前野の活動は低下します。要するに叱られた人は知性が下がるということです。

「叱る」が効果的だと誤解される理由

 なぜ誤解が流通しているのかということまで考察してくれているところが本書の説得力を高めています。それによると、叱った直後、相手は反省した態度を見せるので、「学んでくれた」「効果があった」と勘違いしてしまうということです。実際には相手はただ叱られる苦痛から一刻も早く逃れたい一心で合理的な回避行動を取っているにすぎません。学んでいない証拠に、叱られた人はまたじきに同じことをするでしょう。今度は隠れてしたり、嘘をついたりするかもしれません。
 このほかにも、「生存バイアス」も挙げられています。社会的成功者が「自分は厳しく育てられたことに感謝している」と言うことの問題です。その裏にははるかに多くの失敗例があるということです。

「叱る」には依存性がある

 叱ることは権力の行使であり、自分の「正義」を他人に強要する快楽を伴います。自己効力感です。その他、一般的な依存症にいえることが「叱る」にも当てはまることが論述されます。「叱る」には依存性があるため、自己正当化しやすい面もあるということです。

マルトリートメント(不適切な養育)

 こういう言葉があるそうです。私は初めて知りました。「虐待」というと言葉が強すぎますが、子どもにとって有害であれば「マルトリートメント」となります。これまでグレーゾーンだった広義の虐待的・抑圧的コミュニケーションを名指す概念として、有用だと思います。私も使っていきたいです。

「強要された我慢」で人は強くならない

 「我慢すること」や「苦痛を乗り越える」こと自体が無意味なのではなく、他人から強制された我慢や苦痛が問題だとされます。自分で選んだ我慢は学びや成長を促進するでしょう。

ネガティブ感情を与えずに要求水準を高く保つことは可能?

 本書でこの箇所だけ、私は説明不足に感じました。引用します。

 「叱る」を避けようとした時に出てくる典型的な反論は、「甘やかすのか」「厳しさを放棄するのか」といったものです。(中略)しかしながら、叱ることがすなわち厳しくすることだ、という認識自体がそもそも誤りです。「厳しさ」の本来的な意味とは、「妥協をしない」ことや、「要求水準が高い」ことだからです。要求水準を高く保つことは、相手にネガティブ感情を与えなくても可能です。

p161-162

 周囲の人間ができることは、本人が「やりたい」「欲しい」と感じる目標
を見つけるサポートをすること。そして目標を目指す「冒険」を成功させるための武器を与え、道筋を示すことです。繰り返しますが、「叱る」がなくても厳しい指導は可能です。

p162 強調は原文どおり

著者は叱らなくても「厳しい」指導は可能だと言います。しかし、上で述べられていることは、一般的に思われている「厳しい」指導とはかなり趣が異なっているように見えます。本人が目標を見つけるサポートをし、その目標達成のための武器(スキル)を与え、道筋を示すことを、普通私たちは「厳しい」指導とは呼びません。「厳しい」とは著者が言うように「妥協しない」とか「要求水準が高い」ことであり、あきらかに抑圧的な含意があります。抑圧的であればネガティブ感情は必ず発生するでしょう。この腑分けが本書では十分になされていないと思います。もっとはっきりと、「厳しい」指導は必要ないと言ってほしかったです。
 おそらく著者の思いとしては、ネガティブな手段を用いないからといって甘やかすわけではないのだと言いたかったはずです。また、本人が高い目標を抱いた場合には、それをサポートする指導者は当然、高い要求水準を維持し、妥協しないように指導するでしょうが、本人が望んでやっている場合には「叱る」必要はないはずですし、ネガティブ感情が生じるはずはないという論理なのでしょう。いずれにせよかなり微妙な議論です。私が実践の現場で悩んでいるのはまさにそこですので、もっと踏み込んだ検討を読んでみたかったです。しかし本書の主眼は「叱る」ことの弊害とメカニズムの解説のほうにありますので、仕方ないかなとも思います。

叱るときの作法

 叱る人は権力を発動するわけですから、その責任を正面から背負うべきだと言います。つまり、「それが常識だから」とか「それが普通だから」といった言い方で叱るのは卑怯です。そうではなくて、「自分はこう思う」と言うことが大切です。これは自分の主観であり、自分の個人的な価値観だと明言することです。それがフェアな𠮟り方です。この考え方はわりと有名かと思いますし私もすでに知っていましたが、やはり重要なポイントだと思います。

本書はとまべっちーのnoteを支える理論になる

 たとえば私はこんな記事を書いたことがあります。

 ここでどんなことを書いたかというと、

親のエゴの押しつけとは具体的にどういうことかと言いますと、典型的なのは「厳しく叱咤激励してほしい」というような親からの要望です。「遠慮なくどんどん叱ってください」などと言われます。また、「親の言うことは聞かないので先生から言ってほしい」と言われることもよくあります。これらは全部親のエゴの押しつけです。また、「日割りで宿題を出してほしい」とか「学習計画の進捗管理をしてほしい」とか言われることもありますが、これらも「叱咤してほしい」の婉曲表現に過ぎません。

このように「叱る指導」を直接的に批判してきました。そして、世の親たちがどうしてこうも「厳しい指導」(ここでは「叱る指導」と同義)を望むのかについても深く考察したことがあります。本書の「叱る依存」という分析とは方向性が違いますが、共鳴する部分は大きいでしょう。

 以上のような私の問題意識から見ても、本書の意義は大きく、脳神経科学や心理学の学問的知見も重要な理論的根拠を与えてくれます。本書が多くの人に読まれていることは希望であり、追い風に感じます。公正な教育指導への理解が広まることを期待しています。


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