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祈って運が良くなる人・ならない人

「運のいい人は祈る」という。これは、特定の宗教・神様を信じていなくても、ご先祖様やお天道様、お地蔵様などに祈ると運気が上がっていくということ。

25年前の美しい春の夕暮れ時、二人の若者が同じ大学を卒業した。彼らはとても良く似ていた。二人とも平均的な学生よりも成績が良く品格もあり、将来に向け情熱的な夢にあふれていた。そして、この「運のいい人は祈る」という学長祝辞での教えを胸に刻みつけていた。

最近、この二人は25回目の同窓会で大学にやってきた。私も同じ同窓生として二人と思い出話に花を咲かせ、近況を報告し合った。

彼らはあいかわらずとてもよく似ていた。二人とも幸せな結婚をしていた。また、二人とも子供が三人いた。さらに分かったことだが、二人とも卒業後は同じ中部地方のメーカーに勤めて今もそこで働いていた。
しかし違いもあった。一人はその会社の小さな部署の管理職だった。しかしもう一人は社長だった。

人生で何がこのような違いを生み出すのだろうか? その違いは持って生まれた能力・努力で決まるとは限らない。また、一方が出世を望み他方が望まなかったわけでもない。二人とも学長の教えにしたがい、自分の願いを祈ることを続けていた。

よくよく話を聞きくらべてみると、実は、社長になった一方は学長が祝辞で述べた「正しい祈り方」を聞き、もう一方は用を足すため一時的に席を外し、それを聞き逃していた。二人に大きな違いをもたらしたのはその「正しい祈り方」だったのだ。

学長の言う「正しい祈り方」とは、「大いなる神様に直接向かって祈るのではない。神様が私たち一人ひとりに遣わした守護天使様を通して神様に祈る。それを祈りの冒頭で唱えてから祈る」だった。なぜかというと、神様に直接祈っても通じないからだという。

たとえ一生懸命実践しても、ほんの少し向きが違うだけでせっかくの祈りが届かない。祈りの冒頭に「私の守護天使様を通して、大いなる神様にお祈りいたします」という言葉を添えることを習慣にしよう。そうすればきっと、あなたは「運のいい人」になれる。

えっっ! 私?
同じように「運のいい人は祈る」という学長の教えを聞いたのに実践することのなかった私の身の上は、、、推して図るべし。


このエッセイについて

このエッセイは第4稿です。
自分が言いたいこと、「祈りの冒頭で『私の主護神様を通して、いと高き御親大神(みおやのおおかみ)様にお祈りいたします』という言葉を唱えるのが祈りの基本だ。そうするか否かで祈りが叶えられるかどうかが決まるから。」を主張する目的はそのままで、推敲し、アイデアの飛躍があり、最終的にこの作品となりました。

第1稿は、主張したい祈りの基本(これは、私の信仰している宗教での教えです)をほぼそのまま述べて、主護神様=いわゆる守護天使、御親大神=いわゆる神様、といった用語の説明を順次加え、論理的に過不足なく説明していくものでした。わたしのいつものエッセイ作品のような生硬な文体で、楽しく面白く読んでもらおうという工夫はありませんでした。

第2稿は、「祈って運が良くなる人・ならない人」といういわゆる自己啓発書でありそうなタイトルを思いついて、それに合わせて本文を編集・変更しました。ただ、大筋は用語の説明も含め言いたいことを論理的に語っていくスタイルのままで、運が良くなる人とならない人がこの祈りの基本の有無で分かれる、というまとめ方にしただけでした。

第3稿は、「祈って運が良くなる人・ならない人」というタイトルを睨んでいたとき、「これにはマーケティングの世界で有名なウォールストリートジャーナルのあの古典的コピーが使えるじゃないか!」と思いついたことが発端でした。字数制限があるので、祈りの基本の出所と用語の説明は省きましたが、学長の教えにしたことで違和感なく意味が伝わるようになりました。もともと「私の信仰している宗教の教えでは」と強調したいわけではなかったので、かえって良かったです。

前回のワークショップで、課題本を読んでからの熟成期間が大切だとあらためて痛感したので、今回は課題本をすぐに取り寄せ8月中に第1稿を完成させました。それから1週間で第2稿、次の1週間で第3稿と改稿することになった次第です。

大きな飛躍のあった第3稿は、元ネタ(古典的コピー)があったので可能となりましたが、1回しか使えないアイデアだったと思います。本来は、元ネタはあったとしても、文章自体を自分で絞り出して書けたらよいなと思います。

第4稿であるこの作品は、第3稿を提出して参加した今回9/26(木)のワークショップでメンバーからいただいたフィードバックを基に改稿したものです。そのフィードバックとは以下のようなものでした。

第3稿は元ネタが良いこともありついつい読んでしまったのだが、「エピソードを書くエッセイ」としてこの作品を考えると、ほぼ全体がコピーしたものなので児玉さんのエピソードではない状態になってしまっている。
二人の男のどちらかが児玉さんだったり、児玉さんも同窓生の一人だったりすれば、児玉さんのエピソードとして成り立つのではないか?(大意)

令和6年9月26日「ふみサロ」にて

「あちゃー、言われてしまった」と思いました。「作品に自分が出ていない」ことに引っかかりを感じていたのですが、そこをまさに指摘されたのです。ふみサロでは、フィードバックを取り入れるか否かは作者本人が主体的に選ぶよう推奨されています。「言われたけど、違うな・織り込み済みだな」と感じたら取り入れなくても構いません。今回は、「マズいかも」と自覚していたことを指摘されたので、取り入れることにしました。それがこの作品です。


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