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羊の解体 生き物としての羊と食肉としての羊

遊牧民が羊を解体するところを見せてもらった。
鮮やかで、無駄がなく、静かな解体だった。


大地に血を流さない

羊を殺すのは、2人がかりで行う。
1人は前足と口を抑え、もう1人が後ろ足を抑えて殺す。羊は口を抑えられているので、全く鳴かない。

ナイフで腹を切ると、グッと手を差し込んで、大動脈を指で引きちぎる
こうする事で、羊が苦しまず、血を大地に流さず、殺すことができるのだ。


大動脈の血は羊の体内に溜まるので、大地を汚すことはない。

羊の解体

羊が息を引き取ると、ここからは、1人で解体を行う。
まずは、毛皮を剥がす
首からお腹に向かって真っ直ぐ切り込みを入れたのち、足の毛皮も取るために、四肢を折る。
遊牧民がグッと足をひねるとパキッと音を立てて骨は割れた。
あまりに簡単に骨が折れたことに驚いて、その音がとても耳に残っている。

切り込みが綺麗に入れば、毛皮はするんと取れる。
まるで、羊が毛皮のコートを脱いだようにみえた。

ちなみに、毛皮を剥がすのは素手だ。腕をまくり、皮と肉の間にぐぐっと手を差し込んで剥がしていく。
まだ暖かい羊からは、もうもうと湯気が立ちのぼっていた。

驚くほど綺麗に剥がれる。ここに至るまでたったの5分。

続いて、内臓を取り出していく。
まずはお腹を切り、米5キロ分くらいの大きな胃と腸を、ボウルにどぅるん、と移し、紐で先端を縛る。
この胃と腸は、あとで綺麗に洗い、煮込み料理などにして食べるのだ。

胃を取り出した途端、羊が一気に小さくなった。

次は、内臓に溜まった血を取り出す
先ほど大動脈を切ったので、お腹には、たっぷり血が溜まっている。
小さなカップを使って掬っては出し、掬っては出しをしばらく繰り返していると、たちまちバケツはいっぱいになった。
この血も、あとで腸に詰め、ソーセージなどに加工して食べるので、貴重な食料だ。

血も貴重な食料源。余すことなく取りきる。


最後に、胆嚢、肝臓を取り出し、肉を剥がして、解体は終了した。
ここまでたったの24分
鮮やかで、滑らかな解体だった。

24分という時間は、驚異的なスピードだ。
だが同時に、これだけの工程を経て、これほどの時間と労力を費やさなければ、肉を食べることは出来ないのだと思い知った。

遊牧民でさえ、24分。私だったら、いったい何時間かかるのだろうか。

もう、生き物としての羊の形はない。

解体を見て、羊は食べられなくなったのか

羊の解体を見る、と言ったら、「解体を見たら、もう羊は食べられなるんじゃない?」と聞かれた。

そんなことは全くなかった。
かわいそう、と思わなかったのである。

私が非情で、共感力がないわけではない。遊牧民のなめらかで鮮やかな解体は、「生き物としての羊」の見方と、「食肉としての羊」の見方を、とてもゆるやかに繋いだのである。 

マグロの解体ショーを見るときに、マグロが可哀想だと思わないだろう。それと同じだ。

生きものとしての羊を、いつからか、食料として見ていた。そのことに気がついた時は、なんだか不思議な気分になった。

その夜書いた走り書きメモ。

私が肉を食べなくなるとしたら


過去に一度、肉を食べたくなくなったことがあった。それは人工的に鶏を大量生産する様子を映した、アメリカのドキュメンタリー映画を見た時だ。

通常の2倍の大きさに、本来の半分の期間で育つように改良された鶏たちは、自分の体重の重さに耐えきれず、2、3歩歩いただけで、足が折れてしまうのだ。

生きるために、最低限の数の羊を殺す遊牧民と、美味しい胸肉を食べるために遺伝子を改良して大量生産する先進国。そしてそれを知らない私たち。

どちらが残酷なのだろうか。「肉を食べる」ということについて、今一度考えたいと思った。

私が見た映画↓
「フードインク」

「スーパーサイズ・ミー ホーリーチキン」


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