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「囀る鳥は羽ばたかない」 6巻 第35話

第35話

 
 この回で「平田の乱」が決着し、物語には一旦区切りがつく。
 私は、矢代が退院前日に百目鬼の顔を一目見ようと病室に向かうシーンが大好きだ。
 忘れた振りまでして百目鬼との別れを選んだくせに、やっぱり好きだから自分から会いに行ってしまう。
 この矛盾が矢代らしいなと思う。

矢代に撃たれた後、百目鬼は…


 物語の時間は、第33話の終わりまで巻き戻る。

 額に銃口を突き付けられた百目鬼は、

「あなたを守るために使うと決めた命です。あなたの好きにすればいい」

と覚悟を決めて、矢代の前に跪いている。

 倉庫に響く銃声。

 矢代が百目鬼を殺せるはずもなく、右足首を撃って百目鬼が自分を追いかけて来られないようにした。

 左大腿外側にわざと外した一発目も、上手く撃ったなと私は思った。
 大腿内側から正中に当たると大腿動脈や大腿骨を傷つける恐れがあることを知っているからか、矢代は百目鬼に深手を負わせないように配慮している。

 百目鬼のために、ぎりぎり自力で歩ける程度の傷に留めておいたことが、結果として矢代自身の命を救うことになった。

 百目鬼を置き去りにして一人車に乗り込む時も、矢代は

「死にはしねぇだろ。さっさと医者に診せろ」

と最後まで百目鬼を気にかけている。

 矢代に置いていかれた百目鬼は七原の携帯に電話をかける。
 「空港近くの…」と居場所を説明すると、「灰色のデカい倉庫を昔使ったこと」を七原から教えられ、百目鬼は矢代と平田のいる倉庫に移動する。

「オメー、頭といいことしてたんだってな」

 七原が言う「いいこと」とは、影山医院で矢代が熱を出して寝込んでいる時に百目鬼がフェラチオしたことだ。(3巻第13話)
 現場を目撃した杉本が、七原に喋ってしまったようだ。

 実際には、すでに百目鬼は矢代とセックスまでしている。

 この時は「羨(ましい)」と言いかけた七原だが、矢代と百目鬼が「最後までした」ことを知った時は、百目鬼が捨てられるのを分かっているからか、もはや羨ましいと思わず、呆れたようにため息をついている。(6巻巻末「飛ぶ鳥は言葉を持たない」)


 両脚の痛みに耐えながら倉庫に向かった百目鬼が見たものは、後ろから平田に首を絞められている矢代の姿だった。

「あいつがいなかったら、頭死んでたかもしんねえから」

と後日七原が言うように、ここで百目鬼が止めに入らなければ、矢代は確実に死んでいた。

 百目鬼は命を懸けて矢代を守ったのだった。

 意識を失い、青ざめた矢代の顔を見て、百目鬼は矢代が死んでしまったかもしれないと思って不安でいっぱいになっている。

 だから、矢代が目を開けた時、思わず歩み寄ろうとして隙ができ、平田に反撃されてしまった。

 矢代が目を開けた後の経緯は、第34話で描かれたとおりだ。


 現場に到着した七原と杉本によって、矢代と百目鬼は病院に運ばれた。

「先生、頼みます。頭と…二人とも…助けてやってくれよ」

 読者全員の願いを七原が代弁してくれる。 

 どんなことをしても、たとえ日本中の医療資源を使い果たしてもいいから、二人を助けて欲しいと私も本気で願った。

 ストレッチャーに乗せられた百目鬼が、震える手で酸素マスクを外して何かを言おうとしている。
「……」
 声を出すことすらままならない状態なのに、瀕死の自分よりも矢代のことを心配しているのだと七原には伝わった。

「心配すんな。頭はお前よりは元気だからよ」

 百目鬼を安心させるために、七原が優しく答える。
 矢代が死んでいなかったことを知り、百目鬼はほっとしたような表情を見せて手術室に入っていくのだった。

平田の最期

 
 矢代が録音した平田の告白を聞いた三角は、極道の親分らしい苛烈な表情を見せて、平田の身柄を押さえろと天羽に命じる。

 平田の処分を決意した三角のもとに、道心会会長である立木が危篤との知らせが入る。

 病院に向かった三角の名代として、天羽が三和会を訪れる。
 天羽が話している相手は三和会会長だと思っていたのだが、はっきりした記述がない。
(会長なのか三枝本部長なのかがわからなかったが、7巻第38話、綱川と連の会話の中に「三枝本部長に口聞きした」とあるのでやはり三枝本部長? 2022.9.13 追記)

 天羽が三和の敷居を跨げたのは綱川の口添えがあったから、と会長三枝本部長が言うのを聞いて、天羽に借りを作れた綱川は得意げだ。

 三角が直接来なかったことに対して「極道の筋、通さんつもりか」と怒りを露わにする三枝に、天羽は道心会の立木会長が危篤に陥ったため三角が来られなかったこと、立木会長はつい今しがた息を引きとったことを説明した。

 立木会長の死後、いよいよ三角が道心会会長となるのだ。

 矢代の処分について迫る三枝本部長に、天羽は平田の音声を聞かせ、豪多の組長たちを殺したのは平田であるという事実を伝える。


 人気のない産廃処理場で、身柄を抑えられた平田は三角の前で後ろ手に縛られている。

 平田の乱の結末について、ヨネダ先生は

 結局、抗争の末に刑務所で死ぬとなると「『アウトレイジ』と被るね」という話を編集さんとしていて、でも結局は「死ぬしかない」という結論になりました。

2020年度版 このBLがやばい!

と解説されている。

 平田は三角に「…こ…ろせ」と訴えるが、三角は「お前ごときバラすのに俺が手ぇ下すと思うのか?」と取り合わない。

 平田は三角の怒りを掻き立てるために、黒羽根を殺したことまで言おうとするが、

「その名を口にするな。あいつはお前に殺られたりしねぇ」

 三角は平田が黒羽根を殺したことすら認めない。
 お前にはその価値はない、と。

 「三角に自分を認めさせたい」一心で矢代を陥れようとした平田にとって、これほどつらいことはないだろう。

 柳と平田が通じていたことを知っている三角は、柳に平田を殺すよう命じる。

平田「アンタは…俺が憎いはずだ…」
  「その手で俺を殺したいはずだろ!?」
  「俺を見ろっ、俺を…」

 必死の訴えも虚しく、三角は平田を見ようともしない。

「俺の知らねぇところで勝手に死ね」

 冷たく言い捨てて、三角は去る。

 自分の極道人生を懸けて愛し、かつ憎んだ三角に見向きもされないまま、平田は死ぬ。

 ヨネダ先生の解説は以下のように続く。

 三角にとって取るに足りない人間であった平田にふさわしい殺され方にしなければ、と思いまして。
「殺しの現場を遠くから三角が見ている」というのも考えたんですが、見ていたら三角に注目してほしいがために事を起こした平田にとって、制裁にはならないですよね。
 だから、ああいった最期になりました。

2020年度版 このBLがやばい!

 平田が哀れになるような最期だが、これが極道というものだろうと思った。

 立木会長の葬式を終え、三角は穏やかな顔で黒羽根の墓参りをしている。
 お前を殺した奴はもう死んだから、安心して眠れと言っているかのようだ。
 そこに成長したともこ(黒羽根の姪)が百合の花束を持って現れる。
 この日は黒羽根の(月)命日だったのだろうか。

なんで俺じゃなかったのか

 
 七原は、道心会会長となった三角の記事が載った週刊誌を熱心に読んでいる。
 そこに別の週刊誌を買った杉本が帰って来た。
 二人が騒ぐので、

「るっせーよ、お前ら」

 呆れた表情で矢代が文句を言う。
 ここは矢代の病室だった。

 生きて、元気そう(?)な矢代の姿を見て、私はほっとした。
 本当に、生きててよかった…


「俺だって溜まってんだ」と欲求不満な矢代に、「いつでも手伝いますよオレ」と七原は嬉しそうに答えるが、「お前じゃいいわ」と無碍もなく断られてしまう。

「百目鬼には手伝わせたんですよね。杉本が見たって言ってましたよ」

 七原が食い下がる。

「杉本てめえ何フカシてんだ」

 矢代は百目鬼とのことを、すべてなかったことにしようとしている。



 影山が矢代の見舞いにやって来る。

 喫煙所で煙草を吸いながら、「所払い」することになったと矢代が話す。

(最近、病院では屋外を含め敷地内禁煙のところが多いので、二人が堂々と煙草を吸っている姿に時代を感じた。
 一応屋外喫煙場所ならギリギリいいのかもしれないが…。
 とはいえ、ヤクザの矢代に注意するなんて、怖くて誰もできないだろう)


 矢代は「メンドクセー」から組は持たず、「金はあるから、会社でもつくろっかなー」と考えている。

「足洗っちまえばいいじゃねーか」と影山は言うけれど、矢代はまだヤクザの世界から抜け出す気はない。あるいは、三角との関係から簡単に抜け出すことができない。

「なあ、影山」
 唐突に矢代が尋ねる。

「お前は、なんで俺じゃなくて久我だったんだ?」

 直後の矢代の表情から、うっかり本音を口に出してしまったのだとわかる。

 影山は困ったように眉根を寄せて、

「…なんでお前か久我かの二択なんだ?」(だってほかに影山のことを好きなキャラいないし…)
「考えたことねえ」

と答える。

 この後矢代が「ヤリてえなとかは?」と言い出し、二人の会話は高校時代の友人らしく、冗談ぽくなっていくのだが、私は矢代が影山に「なんで俺じゃだめだったんだ?」とさらっと聞くのを見て、矢代は影山を好きだった過去から完全に卒業したんだな、と思った。

 矢代の中に影山への想いが少しでも残っていれば、この質問はできない。

 影山を愛している矢代なら、答えを聞くのが怖いと思うだろうから。

 1巻第1話で、久我との情事を盗撮されていたことに気づいた影山が、怒って事務所に乗り込んできた後(この時も影山は自転車で帰り、矢代はその姿を見送っている。第35話と同じ構図だ)、一人になった矢代は思う。

 なぜ俺じゃなかったのか
 なぜ俺じゃ駄目だったのか

  ついに、矢代は直接影山にこの問いをぶつけることができたわけだが、影山の答えは

 「考えたことねぇ」

だった。

 長い付き合いの二人だが、影山は矢代を恋愛対象として見たことがない。
 逆に、初めて会った時から影山は久我に惹かれている。
 月並みな言い方ではあるが、誰かに恋をするのに理由なんてないだろう。

 以前、Twitterで「なぜ、影山は矢代ではなく久我だったのか」についてご質問をいただいたことがある。

 「Don’t stay gold」を描かれた時点では、ヨネダ先生は矢代を主役にした物語を考えていらっしゃらなかった。
 だから、もともと影山の相手として矢代は想定されていなかったのです。

と私は身も蓋もないお答えをしてしまったのだが、これが理由の1つだ。
 百目鬼は矢代の相手として、ヨネダ先生が考え抜かれた上で生み出された。


 もう一つ、そういった背景を抜きにしても、矢代と影山の組み合わせでは恋愛としてはうまくいかないだろうと思う。

 久我はまっすぐで積極的で、相手に上手に甘えられるタイプだ。
 矢代はなかなか素直になれない。(そこがいい)

 影山は、自分から「好きだ」とアピールするタイプではなさそうだし、矢代も本命には不器用で、自分から誘ったり想いを伝えたりできない。

 影山は恋する矢代の胸の奥の屈折を理解できない、あるいは理解できたとしても愛し合えないだろうと思う。

 …久我は、ギラギラと、まるで太陽
 一方で、俺は…

1巻第1話

 太陽に対応するのは当然、月だ。 
 矢代はまるで、久我の「光」に対して、「影」の自分は劣るかのような言い方をしているが、「太陽よりも月の方が美しい」と思う人は案外多い。


 影山を見送った矢代の携帯に、甘栗から電話がかかって来る。

 甘栗は「殺し屋二人(鮫・鯨)に殺されかけた」と矢代に文句を言っている。

 どうやら平田の金は、約束の場所に無事持ち出せたようだ。
 この金を矢代と甘栗たちで折半することになる。

「分かってるって、会わせてやるからもう少し待ってろ。ったく、ドルオタ、めんどくせーな」

という矢代のセリフから、甘栗がアイドルオタクであり、甘栗の推しのアイドルと矢代の間にはパイプがあって、矢代に協力した見返りにアイドルと会わせてやることを約束していたのだと推察される。

百目鬼に会いに行く矢代


 そして…
 ここから、私が大好きな場面が始まる。

 エレベーターに乗った矢代は、5階にある自分の病室に戻る途中、思い直して6階のボタンを押す。

 退院前に、一目百目鬼の顔を見るために…。

 矢代はずっと無言のままで、モノローグもない。

 廊下を歩いて百目鬼の部屋に向かう矢代の姿が、淡々と描かれる。

 矢代が眺める窓の外の木の枝には、鳥が二羽止まっている。

 病院の休憩所で話し合う七原と杉本の会話が、映画のナレーションのように絵に重なっていく。

杉本「頭打って百目鬼のこと覚えてないって本気じゃないスよね」
七原「本当のとこなんてどっちでもいいだろ?」
七原「何があったかなんて想像つくけどな。百目鬼の奴、暴走しやがって。忠告したのによ」
(七原は百目鬼が矢代に本気で惚れていることを知られ、矢代とセックスしたことを察している。だから矢代に捨てられたのだと考えている)

杉本「本当にそうなんスかね」
  「頭もあいつに惚れてたら?」(さすが杉本、賢い。正解!)

七原「まっ、…さかあ! だったら何で憶えてない振りすんだよ」

 矢代がなぜ、百目鬼に惚れているのに憶えていない振りをするのかは重要なポイントなので後述する。

 百目鬼は病室の入り口で、葵と(おそらく)母親と話をしている。
 矢代はその姿を少し離れた廊下から眺める。

 百目鬼のことを「憶えてねえ」と言ってしまったからには、もはや矢代は病室を訪ねることも、話しかけることもできない。
 それでも百目鬼に会いに行く矢代が、切なくて可愛い。

 優しい兄の表情で家族と話す百目鬼の顔を見つめながら、矢代は右目を右手で覆う。

 第35話を読んだ時には不思議に思った矢代のこの仕草の意味は、7巻第36話で判明する。

 矢代は平田に頭を殴打されたことによって外傷性視神経症を発症し、右目の視力を失ったのだった。
 視力がある程度保たれている間ならば、ステロイド治療や視神経管開放術でなんとか失明は避けられたかもしれないが、無治療のまま4年も経ってしまったので、もう矢代の右目の視力が回復することはない。
 たぶん、病院で目が覚めた時から視力は低下していたはずなのに(そして早めに治療すればもう少し予後がよかったかもしれないのに)、矢代は医療者にそのことを言わなかったのだろう。

 第36話で矢代は七原の運転する車の中で、第35話と同様に右手で右目を覆い、

「あの時、諦めたものが、まだここに残ってる」

と思う。

「あの時」と言うのは第35話のこの場面であり、「諦めたもの」は百目鬼のことだ。
 それが「まだここに残っている」ということは、矢代は百目鬼を忘れるどころか、4年後も百目鬼への想いを持ち続けているということに他ならない。
 

「百目鬼も”わかりました”っつって、諦めた顔してたしな。
これであいつも、家族んとこ帰れんだろ」

と七原が言う通り、私はこの後百目鬼がカタギに戻ると思っていた。

七原「本音としちゃなんとかしてやりてーって思うよ」

 このセリフに少し救われた気がした。本当になんとかしてあげたい。

 バサッ、と鳥が羽ばたく音に気付いた百目鬼が窓の外を見る。
 既に矢代は立ち去っていて、百目鬼は矢代が会いに来たことを知らない。
 大空に向かって一羽の鳥が飛んでいく…

 まるで、ここで物語が終わるかのような展開だ。

 百目鬼を愛していながら別れを選ぶ矢代を見て、悲しいけれど矢代ならこういう終わりでも仕方ないかな、と私は思っていた。
 
 この後のコマに「4年後…」と書いてあってもよさそうなものだが、「囀る」ではそんな説明はなく、次のページではいきなり鳥籠に入ったオウムが現れる。

 髪型を変えて色気の増した矢代は、七原から「頭」ではなく、「社長」と呼ばれている。
 城戸が預けた100万円のオウムは何を意味するのか、第48話の時点でもまだわからない。

 最後のページの左手に黒い手袋をはめた男は、左頬の傷から百目鬼だとわかる。
「行くぞ」と呼びかけるのは、残念ながらもう矢代ではない。
 あれ? 百目鬼はヤクザをやめなかったのか…。

 いったいこの先二人がどうなっていくのか全く予想がつかないまま、読者を期待と混乱の渦に巻き込んで6巻(第一部あるいは前半?)が終わる。

 4年後が描かれる7巻からは、新章、あるいは第二部とでも呼ぶべき新たな物語が始まる。


矢代はなぜ、記憶を失くした振りをするのか?


 矢代は百目鬼ときっぱり別れるために、記憶を失くした振りをしている。
 お前と俺との間には何もなかったのだと。
 第48話の扉絵の言葉のように「なにもなかったふりをする」ために。
 
 私は、記憶を失くした振りをして百目鬼を突き放す矢代を、ひどいとは思わない。

 むしろ、こんなわかりやすい嘘をつかなければ別れられないほど、百目鬼が好きなのかと切なくなる。矢代が可愛くて、可愛そうでたまらない。

 第32話で「お前となんか、やらなきゃよかったよ」と暴言を吐いてわざと百目鬼を傷つけた時と同じだ。

「こいつを受け入れたら、俺は俺という人間を手放さなきゃならない。それがどういうことか、こいつには一生分からない」

 矢代は百目鬼を受け入れることよりも、「俺という人間」でいることを選んだ。
 だから、忘れた振りをして、百目鬼と別れる。
 百目鬼のために、ヤクザの世界から足を洗わせて、カタギに戻してやりたい、という思いもあっただろう。


 ≪愛した男を忘れてしまうことで恋を拒絶する≫という展開は、日本古典文学の頂点である源氏物語の最終巻「夢浮橋」と、三島由紀夫の畢生の大作、豊穣の海シリーズ「天人五衰」にもある。
(そもそも三島は「夢浮橋」を意識しているという解釈もある、というかたぶんそうだろう)

 宇治十帖のヒロイン浮舟は、「昔のことを思い出そうとしても、何も心に浮かばない、どんな夢を見ていたのかわからない」(昔のこと思ひ出れど、さらにおぼゆることもなく、あやしく、いかなりける夢にかとのみ心も得ずなん)と、おそらく本当に忘れたのではなく、「憶えていない振り」で自分を求める薫を拒絶する。

「天人五衰」の聡子はもっと凄まじく、「そんなお方は、もともとあらしゃらなかったのと違いますか?」と、かつての恋人・松枝清顕との恋どころか存在、ひいては物語全体をも虚無に帰すほどの完膚なき忘却で、すべてを否定する。

 しかも、聡子は「そういう振り」をしているのではなく、本気でそう思っているかのような迷いのない断固した態度を見せるので、舞台は夏の庭なのに、私は背筋が寒くなるほどぞっとした。

 どちらの物語も、恋の相手を忘却によって拒絶する場面で終わる。
 恋を決定的に殺すのは「忘れること」なのだと思う。

 でも、矢代は違う。
 矢代は百目鬼のことを何一つ忘れてなどいない。
 むしろ、最後に自分から百目鬼の顔を見に行かずにはいられないほど、百目鬼を愛している。
 
 矢代が本当に拒絶し、否定したかったのは、百目鬼ではなく、百目鬼を愛する自分自身と、百目鬼を愛することで自分が変わることだったのだ。

 そんな矢代の気持ちを知る由もない百目鬼は、矢代の拒絶に傷ついただろうと思う。
 再会した時に「俺のこと覚えてたんですね」と嫌味を言いたくなるのも無理はない。(7巻第41話)

 まだ物語は続く。
 矢代と百目鬼の恋は、終わってなどいない。

矢代は百目鬼への愛を自覚している

(この先、第47話以降の内容を含みます。単行本派の方はご注意下さい)


 矢代がもしも、百目鬼をなんとも思っていないなら、怪我が治った後、「お前は首だ」とでも言って切り捨てたはずだ。
 今までマジ惚れしてきた部下たちと同様に。
 百目鬼はきっとそう簡単には引き下がれなくて、三角にしたようにどんな形でもいいから側に置いてくれるよう縋るかもしれないけれど。(7巻第43話)

 百目鬼を愛していることを自覚してしまったからこそ、矢代は記憶を失くしたと嘘でもつかなければ、百目鬼と別れられなくなった。

 第24、25話で百目鬼とセックスした時、矢代は好きな相手との優しい普通のセックスで気持ちいいと感じること、これまで自分を守るために「痛くないと感じないんだ」と思い込んでいたことに気づいた。
 そしてこの後、「男にレイプされて何も感じないカラダ」に変わることになった。(第47話)
 今や矢代は、「百目鬼に触れられた時にだけ感じるカラダ」になってしまったのだ。
 
 矢代が百目鬼を愛している自分から逃げられなくなったのは、第34話で平田に撃たれて倒れた百目鬼を見た時だと思う。

 あの時、矢代は百目鬼を失うことに言葉にならないほどの恐怖を感じたはずだ。

 百目鬼を死なせたくない、助けたいと思ったから、矢代は必死で立ち上がって、大きな石を拾い上げ、平田を殴った。

 百目鬼の傍に跪いて「……お、まえは俺を壊した」(他人と深く関わって傷つくのが怖いから、誰も愛さないでいたそれまでの矢代を壊した)と呟いたのだと思う。

 私のこの考えは、矢代のセリフが「壊した」ではなく、全然別の内容だったとすると成り立たなくなってしまうかもしれない。

 その場合は、矢代のセリフが明らかになった時に、改めてこの場面の意味を考えようと思う。

 第25話以降、矢代は百目鬼をどう思っているかという本音を全く言葉で表現しない。

 矢代の気持ちが言葉で説明されず、固定されていないからこそ、私たちはいかようにも解釈できるし、何度でも作品を読み直して楽しむことができる。

 ヨネダ先生はそういう想像の余地を、読者に残してくださっている。

 だから、どの考察が正解ということもなく、読者それぞれが自分の好みの解釈を選んでいいのだと思う。

 

物語の本質はこの先にある


 矢代が百目鬼と別れたのを見て、私は矢代の性格なら仕方ないかなと思っていた。
 百目鬼を愛していても、自分が変わらないでいるために別れる。
 モヤモヤするけれど、こういうストーリーもあるかなと。

 しかし、第46話を読んで激しいショックを受けた後、ヨネダ先生のインタビューを読み直して、私は目が覚めた。

 ヨネダ先生が「囀る」で描こうとしている物語の本質の部分は、まだ始まってさえいないのかもしれない。

 どういうところにカタルシスを持っていくか。この変な人がどういう風に恋愛して変わるでしょう、さあ! みたいな感じですよね。

「20072017」 ヨネダコウスペシャルインタビュー

 第35話までの矢代は、まだカタルシスを得ていないし、恋愛して変わってもいない。

 この物語の核心は、これから描かれるのだ。

 第45話で矢代は「俺がおかしい」「距離感を失っている」と認めているし、第48話では百目鬼の胸元を掴んで「やっぱ、お前でいい」とまで言っている。

 矢代はすでに恋愛して変わり始めている。

 この先、矢代が過去の虐待の傷と向き合い、それを乗り越えてカタルシスを得、百目鬼を愛している自分を受け入れて、真に愛し合う二人の姿を見ることができると信じて、物語の続きを楽しみに待っている。


 おまけ

矢代が百目鬼の顔を見ることができたのは偶然だったのか?

 
 矢代が百目鬼の顔を見に行った時、百目鬼の病室が開いていたのは果たして偶然だったのだろうか、と私は疑問に思っている。

 病院では4人部屋などの大部屋ならばドアは開いているが、個室だと通常、部屋の扉は閉じている。

 百目鬼もヤクザだから同室者がいたら迷惑がかかりそうだし、ちらっと見える病室の構造からおそらく個室だと思う。

 もしも、病室の扉が開いていなかったら、矢代はどうするつもりだったのだろう。

 閉ざされた扉の前に立って、部屋の中の百目鬼の気配を感じるのだろうか。
 
 それとも、百目鬼が姿を現すまで、少し離れた廊下で待つつもりだったのか。

 矢代の部屋に七原、杉本、影山が訪れているから、この時は病院の面会時間だろう。

 矢代は、まるでこの時間に百目鬼の部屋を葵と百目鬼の母が訪問することを知っているかのようなタイミングで百目鬼の病室に向かっている、と思った。

 もしかしたら、前にも百目鬼の顔を見に6階に来て、百目鬼の家族が面会していたのを見たことがあったのかもしれない。

 フィクションなのだからそこまで考えなくてもいいのだろうが、ふと、そんな妄想をしてしまった。

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