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「囀る鳥は羽ばたかない」 6巻第33話

 私は全48話(現時点)の中で、第33話の矢代が一番好きだ。
 矢代が百目鬼に「何かをしてほしい」とねだるのはこの回だけだ。
「膝枕」は「囀る」の中で最も印象的な行為だと思う。セックス以上に二人の繋がりを表している。

第33話


 雨が降る中、百目鬼の運転するレクサスに乗った矢代は、空港近くの倉庫に到着する。
 鳴り響く飛行機の轟音は第34話の布石となっている。

 東京近郊の空港と言えば羽田か成田だが、倉庫が立ち並ぶこの場所は海の近くのように思える。
「灰色のデカい倉庫を昔使ったことがある」と七原が言っていることからも(第35話)都心から利用しやすい場所だろうから、私は羽田空港近くの倉庫を想定している。

「着いたら電話しろ」と矢代は平田を拉致した甘栗に連絡する。

 百目鬼には何も言わないまま、矢代は車を降りる。
「頭、どこに…」と百目鬼も矢代を追いかける。この時腰の後ろに忍ばせた銃が、この後百目鬼自身に向けられることになる。

百目鬼「ここで誰と会うつもりですか? さっきの電話は…」
矢代「あー、うるっせえ。お前に関係ねぇ」

 吐き捨てるように言って、矢代は百目鬼を振り返る。

矢代「傷ついたか?」
百目鬼「…いえ」
矢代「なんだよ。傷つかねぇのか、可愛くねぇな」
百目鬼「…俺を傷つけたいですか?」
矢代「さあ」

 第32話から続いた矢代の「ツン」はここまでだ。
 熱のためふらついた矢代は、百目鬼に支えられて横になる。
 ここから突然、「デレ」が始まる。

 百目鬼が上着を敷いたタイヤを枕にして、矢代が横たわる。
 発熱のため矢代の顔は赤くなっている。3巻第12話、13話のように。

「膝枕してくんねーの」

 ついさっき、車の中で散々ひどいことを言って、挙句の果てに「降りろ」と顔を蹴った相手に、矢代は膝枕をねだっている。

 リアルタイム読者様にとっては第32話と第33話の間には2か月あったが、矢代たちには長くても1時間くらい前の出来事だ。

 さっき、あんなひどいこと言ったくせに…と、矢代ファンの私でも驚くような豹変ぶりだ。

 この後、百目鬼は矢代に「なんだよ、怒ってんのか?」と聞かれて「怒ってません。いや、少し…」と答える。

 百目鬼はやっぱり優しいなと思う。あそこまで言われたら、怒るのが普通だろう。

 結局、百目鬼は矢代の望み通り膝枕をしてあげて、その後の「人を好きになるってお前はどんな感じだ?」から、「…妹は良かったな、お前がいて」までの二人の会話が強烈な印象を残すので、私は小さなコマで膝枕をねだる矢代の本当の気持ちに気づいていなかった。

 新垣さんの声を聞くまでは。

 もしも、ドラマCDをまだ持っていないという方がいらっしゃるなら、この場面はYou tubeで試聴することができるので、ぜひ聞いていただきたい。

 私はこの場面の矢代が全48話の中で一番好きだ。

矢代「膝枕してくんねーの」

百目鬼「俺はあまり触らない方が…」
矢代「なんで」(この口ぶりに悶える)
百目鬼「……」
矢代「なんでだよ」

 百目鬼に対する矢代の甘えたい気持ち、膝枕をしてもらえない寂しさ、新垣さんの声がそれを教えてくれた。

 これはもはや「好きだ」って言ったのと同じだと思う。
 百目鬼、聞こえた? 矢代があなたのこと好きだって言っているよ、と私は百目鬼に伝えたい。

 48話中、矢代が百目鬼に「何かをしてほしい」とねだるのは、この場面が最初で最後だ。

 今まではずっと「肩貸せ」(2巻第7話)とか「膝かせ」(4巻第22話)とか命令口調だったのに。

 この時ばかりは、「膝枕してほしい」って、こちらが驚くほどはっきり本音を表す。

百目鬼「…どうしてそんなことが聞けるんですか、さっきは、あんなに…」(本当にそうだよ)
矢代「なんだよ、怒ってんのか?」(普通怒るよ)
百目鬼「……怒ってません。いや、少し…」(少しって、百目鬼は優しいな)

矢代「そうだな…ついちょっと前にお前のが身体ん中に入ってたわけだし…お前の、硬いし、デカいし久々に裂けるかと…」

 矢代があまりに露骨なことを言い出すので、聞いていられなくなった百目鬼は思わず矢代の口を塞ぐ。
 矢代が百目鬼とのセックスを振り返るのもこの時だけだ。
 なんで矢代はわざわざこんなことを言うのだろうか。
 俺とセックスした時の気持ちを思い出して、膝枕してほしいって言っているように見える。


矢代「枕、やっぱこれじゃ硬い」

 だから、「膝枕して」と。
 こんな言い訳をしてまで、矢代は百目鬼に膝枕をしてもらいたがっている。

 最後だから、というのもあると思う。
 矢代はこの時すでに百目鬼を置いて平田と対決する決心をしている。そして、平田と対決した時に自分がどうなるかも…。


 望み通り百目鬼の膝に頭を乗せて、矢代は上着の内ポケットから影山医院でくすねた鎮痛薬を取り出す。

「あいつ末期ガンの終末医療とかやってんのな」という矢代のセリフ、そしてアンプルに書かれた10mg/1mLの規格から、モルヒネかオキファストだろう。
 しかし、矢代はそれを原液のまま薄めもせず、急速静注している…。そんなことしたら眠気がとか、このあと車の運転しちゃダメとかいう現実的な考えは封印して、私は二人の世界に戻る。

矢代「まぁまだ痛えんだけどな、あっちもこっちも。色んなことしたから」
百目鬼「すみません。俺が…」
矢代「俺が? エロいことしたから?」

 矢代は百目鬼とのセックスについて、第32話では「お前となんかやらなきゃよかったよ」と言ったくせに、第33話ではあえてそのことを思い出させるようなことを百目鬼に言う。
「なかったことにしたい」なら、こんなふうには言わないだろう。
 自分としたことを百目鬼に忘れないでいてほしいって思っているかのようだ。


百目鬼「今からでも、影山先生のところに…。それがダメならどこか遠くへ行」

 矢代の「なぁ」に遮られてしまった百目鬼のこのセリフ、最後まで聞きたかった。

「それがダメならどこか遠くへ行きましょう」あるいは「行きませんか」
≪俺と二人で≫

 百目鬼にこう言われたら気持ちが揺らぐから、矢代は最後まで言わせなかったのかなと思う。

 現実にはそんなことできないとわかっていても、私は夢を見たくなってしまう。
 どこか遠くへ二人で行って、ヤクザの若頭と用心棒という立場を捨てて、命を取るか取られるかなどという暴力団の抗争とは無縁の場所で、生きられたら…と。

人を好きになるのってお前はどんな感じだ? どんな風に好きになるんだ?」 

 唐突に、矢代は百目鬼に尋ねる。

「あ、俺のこと聞いてるわけじゃねーから。ほら、他にもいたんだろ、そういう相手」

 言い訳のように付け足す。

百目鬼「あなたは他とは違います。そう言って欲しいからワザとそんな聞き方するんですか?」
矢代「違う」

 矢代はよく嘘をつくけれど、ここは本当に「違う」のだと思う。
 矢代は純粋に百目鬼に≪人を好きになる気持ち≫について聞いている。

 でも、百目鬼は矢代とセックスした後に置いて行かれ、レクサスの中では散々ひどいことを言われて傷ついているので、気持ちに余裕がない。
 だから、ついに声を荒げてしまう。

「違うなら…っ、違うなら聞かないで欲しい…っ」

 好きな人から、「お前は俺以外の他の奴を好きになる時、どんな感じなんだ?」と聞かれて、素直に答えられるはずもない。

 望んでいた答えは得られなかった矢代だったが、百目鬼が本音を見せて怒ったことには満足している。

「ゾクゾクするよな。お前のその表情。さっきみたいにスカしてんのよりよっぽどいい」

「さっきみたいにスカしている」というのは、いつのことを言っているのだろうか。

 レクサス車内で矢代がひどいことを言ったのに、百目鬼が自分を抑えて怒らなかったことだろうか、それとも「あー、うるっせえ、お前に関係ねぇ」と言われた時に「傷つかなかった」ことだろうか。

 百目鬼は矢代の部下という立場だし、もともと優しいから、矢代の暴言に対して怒ったりしないけれど、本当は矢代は、百目鬼に我慢しないで本音でぶつかってきて欲しいのかもしれない。

 矢代は百目鬼の左頬の傷を覆ったテープを手荒に引き剥がす。

矢代「また血が出てきた。痛いか? 痛いんだな」
  「俺にとってはこんな感じだ」

「人を好きになるのは、こんな感じだ」と矢代は言っている。
 塞がりかかった傷口を無理やり剥がされて、再び血が出てくるような感じ。
 人を好きになることは、自分にとって≪痛い≫ことだと。

矢代「お前はさ、妹の気持ち、知ってたろ?」
百目鬼「…妹は、今はもうそんな気持ちない筈です」

「今は」と百目鬼はあえて言う。
 つまり「昔」は葵に「そんな気持ち(好意)」があったことを百目鬼は知っていた。

矢代「…妹は、良かったな。お前がいて」

 まぎれもない矢代の本音だ。
 矢代は百目鬼に膝枕をされると本音を言う。

 この場面で挿入された小さな1コマには、畳に押さえつけられて縛られた幼い矢代の両手が描かれている。

 矢代はここでも養父に虐待された過去を思い出している。
 5巻第25話と同様、他のことはすべて忘れて百目鬼との触れ合いに浸ればいいのに、と思うような場面で過去が顔を出す。
 矢代にとって虐待の傷がそれだけ深いということだ。

 矢代とは違った形で心に傷を負っている百目鬼は、矢代の言葉を聞いて涙ぐんでしまう。

百目鬼「どうして、そんなことを今…」
矢代「は、バッカだなぁ、お前。慰めたとでも思ってんのか?」
百目鬼「違うんですか」
矢代「そんな優しくねぇって、何度言わせんだ」
百目鬼「なら、本心から言ってくれたんですか」
矢代「そうだな。思ってるから、言った

 葵にとって百目鬼の存在が心の支えであり、自分を犯した養父を殴って助けてくれた人だったように、矢代も支えとなり、自分を救ってくれる人が欲しかったのだろう。叶わなかったが…。

 鎮痛薬の効果により、熱とともに顔の赤みも引いた矢代が起き上がる。
 二人の「膝枕」の時間は終わる。矢代の「デレ」もここまでだ。

「ションベン」と嘘をつき、百目鬼から離れた矢代は甘栗に電話をかける。甘栗が近くの倉庫に平田を連れて来たのだった。
「すぐに行く」と言う矢代はいつもの若頭の顔に戻っている。


「頼んでた荷物(平田)も届くみたいだし、そろそろ行くか」と言って、倉庫を出ようとする矢代の後ろを百目鬼がついていく。

 再びふらついた矢代を心配して百目鬼が支える。しかし、今回は矢代の演技だった。
 矢代は百目鬼の背中に右手を回し、腰に差していた銃を抜き取る。
 そして、躊躇なく百目鬼の左大腿を撃ったのだった。
 傷が深くならないように、わざと外側に外して撃っているのが矢代の優しさだと思う。
 驚いて跪く百目鬼の額に銃口を向ける矢代。

矢代「簡単に抑えつけられる人間に、銃口向けられる気分はどうだ?」

 先ほどまで、膝枕をねだって甘えていた相手にこの態度。
 矢代らしいなと思う。

矢代「これでも、傷つかないのか?」
  「お前を見てると無性に壊したくなる

 矢代のこの感情は、第34話の「大事なものは傷つけたい」に繋がっている。

百目鬼「…どうしてですか」
矢代「お前が離れないからだろ」
百目鬼「あなたを守るために使うと決めた命です。あなたの好きにすればいい
矢代「そうか」

 百目鬼の命を懸けた最後の告白を聞いても、矢代は揺らがない。 

 銃声が響く。

 でも、私は百目鬼の命の心配は全くしていなかった。
 矢代は絶対に百目鬼を殺せない。
 そのことだけは、確かな自信があった。


 捉えた平田を後ろ手に縛って椅子に座らせ、その前で甘栗たちは花札をしている。
 そこに矢代がやってくる。
 わずかな距離なのに運転が下手過ぎてベコベコにしたレクサスを、さらに入り口にぶつけて停車させる。

 平田と対面した矢代は甘栗に結束バンドを切らせ、甘栗たちを帰らせる。
 矢代と平田、二人きりで最後の対決が始まる。



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