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「囀る鳥は羽ばたかない」について 第46話 感想 その2 ≪矢代が幸せになるために≫

 第46話を読んだ直後は「予想より心を抉られずに済んだ」と強がっていたものの、やはりショックは大きかったようで、あまり眠れず食欲がない日々が続く。
 どうやら、影山医院で百目鬼に口でされて「いやいやいや、別にビビッてねーし」と言った時の矢代のように虚勢を張っていたようだ。(3巻第13話)

 第46話で矢代が傷ついているから、私もつらい。矢代はあの部屋に一人残されて、どんな気持ちでいるのだろうかと思うと胸がつぶれる。

 物語のこの先を考えるために、何かヒントはないかと「20072017」を読み返したら、光が見えた。

 そして、もう一つ。第1巻の紹介イラストに

「幸福を知らない男と その男を知ることで再生していく男のお話です」

と書いてあったことを思い出した。まさに原点回帰。
 幸福を知らない男=矢代、その男を知ることで再生していく男=百目鬼。
 百目鬼は矢代と出会ったことでインポが治ったし、生きる目的ができただろうから、もうすでに「再生した」ように見えるけど、矢代はまだ幸せになっていない。
 矢代が幸せにならなければ、この物語は終わらない。

 第46話の最後で、行き場のない想いを抱えて、一人ぼっちの部屋で泣く矢代が「漂えど沈まず、されど鳴きもせず」と重なった。
 まだ矢代は、根っこの部分では高校生の時のままなのだ。

 2巻第7話で百目鬼に「先生は、頭のことをどう思っているんですか?」と聞かれた影山が、矢代のことを語る。

「自分を不幸だとも、他人に同情されるなんてことも考えていないように見えた。そのくせ自己中で自分を客観的に見れなくて、他人には一切共感できない奴だった」
「矢代の自己完結は ガキの頃から備わった自己防衛なんだろうな」
「あいつだけは高校の時のガキのままの気がしてる」 

 影山のセリフを立ち聞きした矢代はその後、百目鬼の運転する車の中で

 お前はまだ 俺を可哀想だと思ったままなんだな
 俺は多分 昔の自分より自分てもんを分かっているし そこそこの共感だってできるよ

 と心の中で答える。
 確かに矢代は大人になっていて、真誠会の若頭としてちゃんと仕事をしているし、敵対する相手との駆け引きも上手く、部下の七原や杉本から信頼されている。
 でも、人を愛することに関しては、高校の頃と変わっていない。

影山を泣かせて痛めつけてみたい
だが影山に拒否されたら 俺は多分簡単に傷つくのだろう 確実に
これは明らかに俺に生じた歪みだ

と、自らの歪みを自覚しながらも、影山に気持ちを伝えることもできず

人間は 矛盾でできている
寂しい 寂しくない
恋しい 恋しくない

と泣いた頃と。(「漂えど沈まず、されど鳴きもせず」)46話のラストにこのモノローグが入っても違和感がないくらいだ。

 2巻第8話で、銃撃されて救急車内で意識を失いながら、矢代は養父に犯された過去、「助けて」と言うこともできない母の背中、そして影山を想って泣く自分を思い出す。

俺は 全部受け入れて生きてきた
何の憂いもない 誰のせいにもしていない
俺の人生は誰かのせいであってはならない
人間を好きになる孤独を知った
それが‟男”だという絶望も知った

俺は もう充分知った

 矢代は今もまだ、この孤独と絶望の中にいる。

 矢代は百目鬼に惹かれている自分を、一方では認めないようにしながらも一方では自覚していて、影山に「惚れてたんだろ?」と聞かれた時にも、

他の誰でもなく お前が俺に突きつけるのか (5巻第28話)

 と、否定はしない。

(口では「笑える」「あいつはさあ、雛鳥みたいなもんだ。ムショから出て一番最初に目にしたものに、勘違いしてホイホイ付いてきたんだ。ただそれだけだ」と言うけれど)

 
 しかし、5巻第23話で百目鬼に

「あなたという人に どうしようもなく惹かれてしまいました」

と告白されて、肉体関係を持った後、百目鬼と別れる決心をする。

こいつを受け入れたら 俺は俺という人間を手放さなきゃならない
それがどういうことか こいつには一生わからない (6巻第32話)

 実は、私はこの場面を読んだ時、それほど違和感はなかった。矢代ならこう考えるだろうな、と納得していた。
 36歳の矢代にとって、今更自分の生き方や根本的な考え方を変えるのは難しく苦しいことだし(私も自分がアラフォーだから一層共感するかもしれない)、今まで人を愛さず、本当の意味では人と関わらないことで自分の心を守ってきた(自己防衛のための自己完結)のに、百目鬼の想いを受け入れ、自分も百目鬼を愛するようになると、自分が変わってしまう。矢代はそのことが受け入れられない、耐えられないのだと思った。

 でも、このままだと、矢代は人を愛することができない。
 だから、7巻以降の矢代は、自分が変わることに苦しみながらでも、百目鬼を愛している自己と向き合わなければならなくなったのだと思う。

 第44話で綱川のお風呂場で百目鬼に触れられた後、矢代は百目鬼を思い出して自慰をしている。昔、泣いている影山の顔を思い出して自慰をした時のように。
 自分に興味を示さなくなった(かのように見える)百目鬼に苛々して

認める 俺がおかしい
それはもう明白に 明らかに
距離感を失っている(第45話)

と、混乱してしまう。

 「たかがセックスだろ? 穴に入れて出すだけだって」(5巻23話)

と言っていた矢代が、おそらくこの先、百目鬼と「たかがセックス」をする体だけの関係になることに耐えられなくなるのだ。

 昔の矢代が望んでいたはずの、精神的な繋がりのない肉体だけの関係であることに、今度は矢代自身が苦しむことになる。

 セックスに愛を求めるようになれば、矢代自らが過去の自分を否定することになり、否が応でも「俺は俺と言う人間を手放す」ことに繋がるのだから。

 矢代が百目鬼の体だけではなく、心を欲しいと思い、その気持ちと向き合うことができれば、矢代は変わることになる。

「どういうところにカタルシスを持っていくか。この変な人がどういう風に恋愛して変わるんでしょう、さあ!みたいな感じですよね」(「20072017」スペシャルインタビュー)

 ヨネダ先生のこの言葉を読んで、はっとした。

 6巻までの矢代はまだカタルシスを得ていない。矢代を変な人だとは思わないけれど、まだ矢代は恋愛して変わってはいない。

 だから、まさにこれから、矢代が変わり、過去の苦しみが浄化される時がやってくるのだ。

 第46話やこの先百目鬼とのセフレ関係が続く間は、しばらく矢代も読者も苦しいけれど、矢代が百目鬼への想いを自覚し、百目鬼の気持ちを受け入れられるようになった時に、彼は幸せになれるのだと思った。
 それはもしかしたら、私が以前から矢代が乗り越えるべき問題と考えている「幼少期の性的虐待の傷」を克服することと一致するのかもしれない。矢代が愛のない性行為を好むのは、俺はこういうセックスが好きなんだと思い込むことで、幼い頃に犯された痛みと苦しみから自分を守ろうとしているように見えるから。

 矢代はこの先幸せになれる。その時は必ずやってくる。私はそう確信した。

 45話までの時点では、「囀る」の悲しい結末ばかりを想像していたのだけど、46話を読んで逆にハッピーエンドが見えてきた。
 今がこれほど苦しくつらいのだから、物語の高低差として、今後は上がっていくしかないように思う。
 今後、桜一家の抗争が解決したら、おそらく百目鬼は桜一家を抜けるのだろう。
 物語の終わりに、矢代が百目鬼を愛している自分を受け入れ、二人がともに生きていく未来が待っていることを、心から願っている。


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