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「囀る鳥は羽ばたかない」 6巻第32話 巷に雨の降るごとく

 5巻第23話~25話と同様、6巻第32話~34話は物語の大きな山場となっている。
 百目鬼を捨てようとする矢代と、矢代の側にいたい百目鬼の葛藤、矢代と平田の対決が描かれる。
 何も知らなければ、6巻で終わるのかと思うほど盛り上がる展開に、読者はハラハラしながらページを捲ることになる。

第32話


 百目鬼の運転するレクサスの助手席から、矢代は甘栗に電話をかけ

部外者に車渡してどーすんだ。バカなのか?」

と詰る。

 部下だった百目鬼に対して、矢代はあえて「部外者」という言葉を使うことで「お前はもう関係ないんだ」と思い知らせようとしている。

甘栗「文句あるならその番犬に言えよ」

 番犬…。
 第48話で「番犬がおっかねぇ顔して向かってくんぞ」と揶揄う井波に、
「もう番犬じゃない」と矢代が答えたことを思い出す。

矢代「平田を引きずり降ろさねえと、お前もこの先面倒だろ」

 矢代は甘栗たちに平田の財産を持ち出すよう命じる。


 そしてここから、二人っきりの車内で矢代と百目鬼の緊張感溢れる会話が始まる。

百目鬼「七原さんたちはどうしてるんですか」
矢代「置いてきた」
百目鬼「俺みたいにですか」
矢代「お前とは全然意味合いが違うだろうな」(お前はもう俺の部下じゃない)
百目鬼「俺がクビだからですか」
矢代「元々組員じゃねぇつったろ。つーか、なんだよその態度は」

 私は、矢代が百目鬼に対してこうやってやや横暴なくらい上から目線でしゃべるのが好きだ。
 表向きは上司と部下という主従関係で、内心はお互い惹かれ合っているところに切なさを感じていた。
 だから、7巻以降の二人の関係をまだ受け入れられていない。

 矢代は百目鬼に車を止めさせ、外に出るよう命じる。
 しかし、百目鬼は従わない。

(ドラマCDのこの場面での二人の会話はひりひりするほど緊迫感がある。
第32話、33話の新垣さんの演技は本当に素晴らしい。私は新垣さんの声に矢代の気持ちを教えてもらった)

「あなたの側を離れるつもりはありません」

 百目鬼の横顔からは強い決心を感じる。
 二人の会話は視線を合わせることもなく続く。

「お前となんか、やらなきゃよかったよ」

 矢代のこのセリフは、虚実ないまぜだろうと思う。
 
 百目鬼とセックスしなければ、矢代は百目鬼への想いと百目鬼を受け入れることで自分が変わってしまうことへの恐怖をこれほど強く自覚しなくて済んだだろうし、百目鬼を部下のままにしておけた。
 
 百目鬼とセックスしたことで、無意識の中に閉じ込めておいた過去の虐待による痛みや苦しみが溢れかけたことに矢代は気づいている。
 
 この時の矢代は、もう一度過去に蓋をして何もなかったように振舞おうとしているけれど、もう手遅れだったことが後にわかる。(第47話感想その2 参照)
 
 でも、矢代の中には≪セックスしてよかった≫と感じている部分もあるはずだ。
 
 もともと百目鬼は矢代の好みのタイプで、出会った時から惹かれていた。映画館デート中には自分から百目鬼の肩に頭を乗せたり、二人きりの部屋で膝枕をしたりして、矢代からスキンシップを求めている。
 
 その百目鬼とセックスをして、嬉しい気持ちが全くなかったとは言わせない。
 百目鬼に組み敷かれて、矢代は怖がっていたし怯えてもいたけれど、それは矢代が初めて好きな人とするセックスに直面して、自分がどうなってしまうかわからないという不安と躊躇いの表れだったのだと思う。
 
 百目鬼に触れられた矢代は、何度も射精して、肉体的には確実に快感を味わっていた。
 
 あれほどの情熱を持って抱きしめられ、愛撫されて、百目鬼がどんなに自分を愛しているかわからない矢代ではないだろう。
 
 あの時、矢代には百目鬼のまっすぐな愛情が伝わったはずだ。そして、心の奥底では、百目鬼の想いを受け入れたがっている自分自身にも気づいたと思う。
 
 だからこそ、逆に「やらななきゃよかった」と矢代は言う。
 セックスしなければ、自分の中の矛盾にも向き合わずに済んだのに。

 
 好きな人から「お前とセックスしなければよかった」などと言われるのはつらい。
 百目鬼はショックを隠せない。

「…同じ想い(愛)でなくてもいいです。…部下でなくてもいい。なんでもいいです。あいつら(甘栗たち)みたいな使いっ走りでもいい。ただ、そばに置いてくれれば…」

 なんて切ない想いだろう。

矢代「しつこいんだよ、お前。だから切ったの分かんねぇ?」
  「ったく、俺があんなに優しく消えてやったのに

「優しく消えてやった」というのはおそらく矢代の本音だ。
 あのまま別れられれば、矢代はこれから言うようなひどいことを百目鬼に言わずにすんだのだ。
 百目鬼の事が好きだから、できれば傷つけ合わずに別れたかったのだろう。

矢代「堅気に戻れるいい機会だったじゃん」
百目鬼「俺はそんなつもり…」

 矢代は百目鬼のために、極道をやめさせたい。百目鬼は矢代のために、側にいたい。
 二人の想いがすれ違う。

矢代「だいたい、お前こうなるって分かってたんじゃねーのかよ。分かっててヤったんだろ?」

 矢代の言う通りなので、百目鬼は言い返せない。

 矢代が自分に惚れた部下を切り捨てることはわかっていた。
 それでも、百目鬼は矢代を繋ぎ止めたかったのだ。
 もしかしたら、このまま自分を側に置いてくれるのではないかと一縷の望みを抱いて。

百目鬼「頭は、俺を失くすのが怖いと言ってくれました」
矢代「言ってくれた! お前にはそう聞こえたのか」

「お前を失くせなくなる俺が…(怖い)」と矢代は確かに言った。(5巻第23話)
 本当の気持ちなのに、矢代は認めたくない。

矢代「どんだけ都合良く解釈してんだよ」

 矢代はこう言うけれど、百目鬼は矢代の言葉をありのままに理解している。
 本音を隠すために、自分の発言を曲解しようとしているのは矢代の方だ。

「キスまでして、調子ん乗って人の身体舐め回しやがって。オーラルセックスなんて気色悪ィ」

 百目鬼の愛情のこもった優しく丁寧な愛撫に反応して、矢代は何度も射精していたくせに。 

≪俺の身体中舐めて ひとつ残らず 自分のものにするみたいに≫ (5巻第24話)
 あの時、矢代は激しく心を揺さぶられていた。

「お前こそ、あのしつこいセックスが泣く程良くて、俺が離れられなくなるとでも思ったのか?」
「何人とヤリまくったと思ってんだ。ウンザリだ。夢見てんじゃねぇよ」
「全部芝居だよ、芝居。お前に最後にいい夢見させてやったんだろ」

「お前なんか俺が散々ヤリ捨ててきたその他大勢の一人なんだから、自惚れんじゃねぇ」と矢代は今こそ芝居をしている。
 
 矢代がわざとひどい言葉を投げつけて、百目鬼を傷つければ傷つけるほど、矢代自身が傷ついていくのがわかるから、この場面は何度読んでも胸が痛む。

 ここまで言わなければならないのか。
 こんな心にもないセリフを吐いて、必死で突き放さなければならないほど百目鬼が好きなのか、と切なくなった。


百目鬼「俺を…綺麗だと…父親とは違うと言ってくれたことも(芝居)ですか」
矢代(…そんなことが嬉しかったのか)
矢代「綺麗かどうかは知らねーけど、部下でいるなら可愛かった。それだけは本当だ」

  綺麗だと思っていることも本当だ。
  ヨネダ先生からちゃんと裏を取ってある。

 矢代にとって、百目鬼は唯一の綺麗な存在なんですよ。

2020版 このBLがやばい!


こいつを受け入れたら 俺は俺と言う人間を手放さなきゃならない
それがどういうことか こいつには一生わからない

 私には矢代の気持ちがよくわかる。

 虐待の痛みと苦しみから身を守るため、矢代は「自分は痛いのが好きなんだ」と思い込んで、不特定多数の男と暴力的なセックスを繰り返してきた。

 百目鬼の愛情を受け入れ、自分も百目鬼を愛するようになったら、自分を偽っていた事実と向き合わなければならなくなる。

 36歳の矢代にとって、長い年月をかけて築き上げてきた「自己」とそれを守る鎧を手放すことはとても苦しくつらいことだし、過去の自分を偽りだと認めたら、アイデンティティが大きく揺らぐだろう。そんなことはできない。

 しかも、百目鬼を受け入れてしまったら、今度は≪百目鬼を失う怖さ≫を常に自分の中に抱えることになるのだ。(恋愛とはそういうものだが)


 百目鬼は黙って車を出る。
 一人残された矢代は、煙草を持った左手で顔を覆う。

あいつが バカで良かった

 百目鬼が、矢代が嘘をついていることに気づかず、矢代の言葉をそのまま受け止める人間で良かった、と言う意味だ。

 車の外には雨が降っている。
 矢代が流せない涙を、代わりに空が流してくれる。

 この時、矢代がどれほど苦しんでいるか、私には痛いほどわかる。

 百目鬼が矢代の側を離れたくないと思うように、矢代だって本当は百目鬼と別れたくない。

 でも、自分を失わないために、矢代は身を切るような思いで百目鬼を突き放している。

 セックスした後、眠る百目鬼の隣で震える右手で顔を覆い、面を上げた時の矢代の表情を見た時に、こうなるとわかっていた。
 矢代は自分の想いを抑圧して、百目鬼と別れる覚悟なんだと。(5巻第25話)


 窓の外には、傘を差す母に手を引かれた男の子が歩いている。
 母の愛情。
 それもまた、矢代が欲しいと願って得られなかったものだった。
 矢代は欲しかったものを諦めたような醒めた瞳をしている。


 そこに、傘と水を買った百目鬼が戻って来る。
 戻ってきてくれた! 私は驚くと同時に嬉しかった。
 普通、あそこまで言われたらもう戻っては来ないだろうから。

 矢代は無表情のままだが、内心は驚いていただろうし、私と同様嬉しかったはずだ。

 でも、百目鬼が差し出した水を払いのける。

「どうぞじゃねぇよ。なんなんだよ。バカなのか? いやバカか」

 矢代は何としても百目鬼を拒絶しようとしている。

「側を離れる気はないと言いました」 

 百目鬼、頑張って。離れないで、と私は願う。

 あんなにひどい言葉で罵倒されたのに、それでも自分を見捨てずにいてくれる百目鬼の顔を、あろうことか矢代が蹴り倒す。

矢代「お前のそういうところがイラつくっつってんだろ。降りろ」

 蹴られた百目鬼も可愛そうだが、私は好きな人にこんなことを言わなければならない矢代が可愛そうで仕方ない。

 百目鬼が矢代の細い脚を掴む。

百目鬼「あの時もあなたはそう言って俺にキスした。あれも全部演技ですか?」

 百目鬼が矢代の体を労わって体の下に敷く枕を用意した時、矢代は自分から百目鬼の首筋を引き寄せてキスをした。

 そして、

「お前のそういうとこが、ホント腹立つ…」

 と言った。(5巻第25話)

 私には「お前のそういうところが好きだ」と聞こえていたけれど、百目鬼にも矢代の気持ちがわかっていたのだろうか。

 全部でないにしても、矢代のセリフには自分を突き放すための嘘が混じっていることに百目鬼は気づいていると思う。

矢代「そうだっつてんだろ。いい加減しつけー」

 虚勢を張り続ける矢代に、百目鬼が顔を近づけて手を伸ばしたので、矢代とともに私もドキッとした。

 矢代を黙らせるために、抱き寄せてキスでもするのかと思った。
 矢代もそう思った(期待した)と思う。

 私(と矢代)の期待に反して、百目鬼は助手席のシートベルトに手を伸ばしただけだった。運転中危ないから。

百目鬼「すいません」

 怖がらせて、と言う意味だ。

矢代「何がだよ」
百目鬼「俺からは、もう何もしませんから、安心してください」
矢代「誰が不安がってるって?」
百目鬼「多分、簡単にあなたを抑えつけられるので」

 こう言われた矢代は「クソ可愛くねぇ…」とむかつく。
 百目鬼が体格と力で勝るのは本当のことだけど、バカにするなと思う気持ちはわかる。
 そのくせ矢代は百目鬼に抑えつけられてキスされたことを思い出し、胸の奥が疼くのだった。


 この後、百目鬼が「自分から矢代に何かする」のは何と第44話、綱川邸のお風呂場で矢代を抱き寄せて髪を掴む場面になる。
(くどいようだが私はまだこのことを怒っている。百目鬼が矢代の髪を引っ張っるなんて許せない)

 すれ違う想いを抱えたまま、二人の乗った車は空港近くの倉庫に向かう。
 矢代と平田の決戦の場だ。


 影山医院に置いて行かれた七原は「あンの…クソビッチ」と愛情を込めて矢代を罵っている。
 自分は矢代を散々失礼な蔑称でこき下ろすくせに、杉本が便乗して「クソ…えーと、ヤリマン?」と言うと「てめ、頭なんだと思ってんだコラァ」と怒り出す七原が可愛い。

 そんな二人のやり取りを見て、
「お前ら二人とも、よくあいつの下でやってるよ」と影山が呆れる。

七原「まーあの人かっけーっすから」(同感)
  「先生は付き合い長い割に全然分かってないっスよね、頭のこと」

 私は影山が矢代のことを「全然分かっていない」とは思わないが、「肝心なところをわかっていないな」と思う。
 でも、それが「腐れ縁の理由」となっていることには同意する。
 矢代は他人と距離を保ったまま付き合う方が楽だから、影山が自分の好意に少しも気づかず、触れて欲しくない心の奥底には踏み込んでこなかったことで、二人の関係は長く続いているのだろう。

杉本「百目鬼とうとう捨てられちゃいましたね」
七原「あいつ……バカ正直だからなぁ」
影山「矢代もフラれたからって何も捨てることねえよな」

 七原と杉本は百目鬼が矢代に惚れていること、矢代が惚れた相手を切り捨てることを知っている。
 こうなるとわかっていたから何度も百目鬼に忠告したのに、結局百目鬼が突っ走って矢代に捨てられてしまったと考えている。(実際そうだが)

 一方、影山は(久我に教えてもらって)矢代が百目鬼に惚れていることを知っている。
 百目鬼の矢代に対する気持ちにも気づいていたはずだが、「惚れてたんだろ?」(5巻第28話)と聞いた後の矢代の返事と態度から、二人が≪うまくいかなかった≫ことを感じたからなのか、「矢代がフラれた」と思っている。(本当に?)

杉本「え?」
七原「は?」
影山「ん?」(俺、なんか変なこと言ったか?)


 平田は銀行の地下に車を停め、息のかかった銀行員を利用して貸金庫に預けていた財産を持ち出させる。
 銀行員は去り際に、平田の部下が何者かに殴打されたことに気づくが、暴力団の揉め事に関わらないよう見て見ぬ振りをして走り去る。
 後部座席に座った平田に向かって甘栗が銃を向ける。
 平田はかつての子飼いの部下に裏切られたのだった。


 次回、第33話で矢代は百目鬼に今回とは全く違う姿を見せる。
 矢代の豹変ぶりに驚くが、この二面性こそが矢代の抱える矛盾そのものなのだ。

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