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#2 ヤンゴンで糖尿男に会った。

朝起きたら、渋谷は雪が降っていた。

 2020年3月29日。ピンポン!玄関のベルが鳴って、僕は目を覚ました。「もう9時か!」今朝はマンションの管理組合による雑排水清掃の日。僕が渋谷桜丘ベースと名付けて仕事場として使っているマンションの部屋は101号室。雑排水清掃作業というのはゴミが詰まらないように下の階からやるのが鉄則らしく、僕の部屋から作業は始まる。それに備えて、昨夜は仕事場に泊まり込んでいた。
 作業員のお兄ちゃんを部屋に招き入れ、寝床のAir Waveのポータブルマットを片付けながら、ふと外を見ると、渋谷の街は大雪だった。「こりゃ、積もるかも?」僕はしばし、ボーと降りしきる雪に見入っていた。同時に、頭の中には灼熱のヤンゴンの光景が浮かぶ。「今日は一体どうなるのかな?」 昨日は僕のミャンマー初上陸記念日だったので、8年前の記録をこのノートに書くつもりだったが、なかなかペンが走らない。そこで、つい赤ワインを飲んでしまったのがよくなかった。結局、ボトル1本が空き、ご存知のように途中で寝てしまった。そして気がついたら、朝の9時だったわけだ。でも、おかげさまで久しぶりにぐっすり寝れた。ここ数日はミャンマーの動向が気になって、あまり寝れていなかったから。
 昨夜のうちに、メッセンジャーで店長のHtet Myat Aungには、スタッフの中に田舎に帰りたい者がいるかどうか?をもう一度確認するように指示していた。彼は今朝のミーティングで確認すると言っていた。ミーティングは朝の10時から。東京とヤンゴンには2時間30分の時差があるので、始まるのは日本時間の12時30分。まだかなり時間がある。
 雑排水清掃のお兄ちゃんを見送った後、僕はベーコンエッグとコーンスープ、そして冷凍庫で氷漬けになっていた銀座に志かわのライバル店・乃が美の食パンをトーストして朝食を済ました。

当面はデリバリーで勝負するしかない

 そして、午前中のうちにTokyo Tomato Cafeのデリバリーメニューの広告を作成し、facebookに投稿した。本来であれば、1週間にわたって実施されるセーダン試験(ミャンマーの高等学校の卒業試験兼大学入試試験)明けのこの時期はビルマ暦のお正月(今年は4月17日)に向けてミャンマー人の消費が活発になるシーズンである。特に、今日は3月27日(金)の「軍事記念日(ビルマ軍が独立を目指して日本軍に抵抗を開始した記念日)」の祝日に続く3連休の最終日であり、朝からたくさんのミャンマー人のお客様がショッピングセンターを訪れ、Tokyo Tomato Cafeも若いカップルやグループで賑わっていたはずだった。
 しかし、コロナウイルスの影響は深刻でそれは到底かなわない。今となっては、デリバリーの売り上げを伸ばすことが最後の頼みの綱だ。昨日、1日考えてその結論に至った。
 お昼は冷蔵庫に余っていた野菜を全部使って、納豆チャーハンを作って食べた。ここぞとばかりに、長ネギとニンニク、生姜をふんだんに入れた。糖尿男の僕にとって、免疫力を高める食事を摂取することが、ささやかな自衛策となっている。

帰省したいスタッフを止めることはできない

 午後になって、メッセンジャーでとんかつのマスターWin Min Tunさんから電話が入る。「お元気ですか?さっきHtet Myat Aungから電話があって、Shine Min MinとSis Hmue Zawの二人が帰りたいって言ってる」。Htet Myat Aungは僕に情報が正確に伝わるように、とんかつのマスターに伝言を託したようだ。当初、希望者は3人と聞いていたが、ミャンマー北部で中国との国境のカチン州ミッチーナ出身のLuubuは僕の忠告を聞き入れて、思いとどまってくれたようだ。
  「わかりました、じゃあ二人には帰っていいよと伝えてと、Htet Myat Aungに言ってください」。「それから実はGa Mone Pwint(入居しているショッピングセンターの運営会社)にお金を預けてあるので、そこから一人に1Lakh(ラック=100,000ks)ずつ渡すように伝えてください。そのお金のことはThi Riが知っています。このお金はいざという時のために、内緒で僕が置いてきたお金です。一人に1Lakhずつ渡せるだけはあるので、みんなの分もちゃんとあることも必ず伝えといてくださいね」。
  「わかりました」とんかつのマスターは快く伝言を引き受けてくれた。
 キッチンのチーフのShine Min Minの基本給が3Lakh、見習いのSis Hmue Zawが1.5Lakhだから、1Lakhは彼らにとってはそれなりの大金のはずだ。帰省の旅費には十分だし、田舎に帰ってもしばらくは生活には困らないだろう。ただ、いつまでこの騒動が続くのかはわからない。「もしかしたら、もう二人には二度と会えないかもな?」と思うと少し寂しくなった。
 そして、「30日の23時59分から4月13日23時59分まで商用の国際旅客航空便の着陸を認めない旨、ミャンマーミャンマー運輸通信省民間航空局から発表になった」と在ミャンマー日本大使館からヤンゴン日本人会を通じて連絡があった。つまりヤンゴン国際空港は一時、閉鎖になったのだ。また、すべての国の人を対象に(外交団,国連機関職員,航空機・船舶乗務員を除く)、入国ビザの発給が4月30日まで一時停止されることも決まった。
 おかげさまで今日のデリバリーの注文は52,500ksとかなり増えた。

では、ヤンゴンの街へGO!

 再び、2012年3月28日。空港の外へ出て、しばしコロンブス気分を味わっていると、一人の男が声を掛けてきた。「どこへ行くんだい?」とても聞き取りやすい英語だった。彼の名前はマンマン。タクシードライバーだ。ミャンマーの民族衣装ロンジーを履いている。ニコニコ笑って、なかなか人の良さそうに見える。
 今でこそ(といっても今、空港はガラガラだろうけど?)空港のターミナルビルを出ると、通路の向こう側にタクシードライバーがずらりと一列に並び、手を挙げて「ヘイ!タクシー」と一斉に声を掛けてくる。手を挙げて「ヘイ!タクシー」って、あんたたち、それはこっちの客のセリフやろ!吉本新喜劇だったらみんなでずっこけるシーンだ。僕は毎月、ヤンゴンを訪問するたびに、サッカーのフリーキックの壁みたいにタクシードライバーが並ぶこの光景を楽しみにしていた。あれをみたらヤンゴンに着いたという実感が湧く。もちろん、彼らのクルマには乗らない。だって、めちゃくちゃ吹っかけた料金だからだ。
 しかし、8年前はそんな騒々しい光景ややり取りもなく、空港で客待ちをしているタクシードライバーも極めて遠慮がちで紳士的だったように記憶している。まだ、ティン・セイン政権による民生移管から4ヶ月ほどしか経っていなくて、ヤンゴンを訪れる人が増え始めた頃だからと思う。

I want to go Big Golden Temple.

  僕はシュエダゴンパゴダ(当時は名前を知らない)に行きたい。そして、市内観光をしたい。ただし、帰りの便の時間があるので、3時間後にはここに戻ってきたい旨をマンマンに伝える。すると、彼は「80USドルだ」という。「80ドル、うーん、日本円で6400円くらいか?(当時のレートは1ドル80円くらいだった)」。さすがに空港から市内までの交通手段と料金は事前にバンコクのホテルのネットで調べていた。確か、タクシーで6-7ドルのはず。ちょっと高いかな?でも、バンコクに戻る飛行機の出発時間は15時10分発だから、13時くらいまでには空港に戻らないといけない。それを考えると、車をチャーターした方が安全だろう。
  「OK、でもそのツアー代金には昼食は含まれてる?何か、ミャンマーの美味しい料理を食べさせてくれ」と交渉した。「OK, No problem」。かくして僕は車とツアーガイドを確保した。

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 空港から市内へ続く道(Pyay Road)は舗装されていて、街並みも建物こそ古くてボロボロだけど、マンションやビルもあって、思ってた以上に都会(?)でびっくりした。もちろん、あくまでも「思った以上に」である。
 マンマンは46歳で子供2人の4人家族。以前は中古車販売の仕事をしていたらしく、やたらとクルマに詳しい。ミャンマーも東南アジアの他の国と同様に、20年とか30年前の日本車が普通に現役で走っていた。さながら、街中が日本の80年代、90年代の自動車博物館のようだ。日本語の会社の看板などもそのままになっているクルマも多い。それがついていたほうが日本から来たクルマの証明になり価値が高いらしい。
 マンマンは運転しながら、「あれはマークII、198×年から198×年のタイプね。こっちはカローラ。199×年のタイプで、人気がある」って具合に、ちょっと面倒臭いくらい、いちいち解説してくれた。「君はツアーガイドだろう?中古車のセールスマンじゃないよね?」僕はそんなツッコミを入れつつ、クルマの窓から入ってくる気持ちいい風に当たって、流れ行く車窓の風景を楽しんでいた。
 信号待ちで並んだクルマの荷台に座ってるおばちゃん達に手を振り、カメラを向けると、にっこり恥ずかしそうに笑って応えてくれる。「あー、いい国だ。ここは」僕がこの街に魅了されるのに数分も必要なかった。

黄金の仏塔のスケールにびっくり!

  「あのクルマはトヨタのクラウン...。」マンマンのヤンゴン中古車案内はずっと続いた。どうやらこの男、相当のおしゃべり好きらしい。僕がトヨタ自動車の仕事をしていることを知るとますますクルマ談義に拍車がかかる。「おいおい、それもいいけど、ちゃんと観光案内しろよ!」と僕はクレームを入れた(笑)。
 マンマンの愛車は日産のHOMYだという。「そんな名前のクルマ、聞いたことないよ。Made in Tailandの日本車じゃないの?」っていったら、「合併前のプリンスが作り始めて、90年代後半まで日産でも作っていた」という。後で調べてみたら、彼の言うとおりだった。彼はこのクルマを2年前に、(僕の聞き間違いでなければ)15000US$(約120万円)で購入したという。エアコンもついてないし、足元の床はむき出しで、所々に穴が空いている。後部座席のスライドドアの開閉にはちょっとしたコツと配慮が必要だ。そんなオンボロが120万円?
 もしかしたら、僕のロードスター(2002年製NB)は1000万円くらいで売れるかもしれないと思った。ただし、マンマンいわく「マツダはダメね。1番はトヨタ、2番が日産」なんだという。これには、ちょっとむっとした。
  「壊れない、安全、そして部品が容易に手に入る、修理がしやすい」という点で、この地でも日本車の評価はダントツで高いようだ(一部、マツダ車を除く)。

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 ほどなくして、シェダゴンパゴダに到着。僕は靴と靴下を脱ぎ、裸足になって一人、長い階段をえっちらと登り、シェダゴンパゴダを参拝した。拝観料は8ドルだったと思う。階段を登りきると巨大な黄金の仏塔が現れた。これはすごい。なんて、巨大なんだ。僕は思わず手を合わせた。仏塔の周りは参道になっていて、みんなそこを歩いて回っている。そして、床がめっちゃ熱い!熱、熱、あつ!灼熱の太陽に照らされて大理石の床はまるでフライパンのように熱くなっていた。床に敷いてあった緑色のプラスチックの網の上に緊急避難。多少は緩和されたものの、上からは燦々と陽射しが降り注ぐ。上からも下からも熱々で、もう大変。すぐに汗だくになった。
 シェダゴンパゴダ初参拝を一人ではしゃいでいた僕に、若いミャンマー人の男が英語で話しかけてきた。「どこから来たんだ?いつ来たんだ」。そんな世間話をしたあと、彼は親切にも参拝の仕方を教えてくれるという。まずは、生まれた日の曜日を調べる必要があるという。生年月日を告げると、彼はおもむろに鞄から小さな本を取り出し、僕の生まれた曜日を調べてくれた。僕は日曜日生まれらしい。ミャンマーでは1週間は8曜日(水曜日は午前と午後で分かれている)に分かれていて、それぞれ生まれた曜日によって参拝の場所が決まっているという。
 彼は僕を日曜日生まれの参拝場所に連れて行き、お参りの仕方を伝授してくれた。日曜日の守り神であるガルーダとブッダ像、そしてその背後にいる精霊、さらには背後の柱。この4箇所に自分の年齢+1の回数だけ、銀色のカップで水を汲んでかけるのが正式な参拝方法らしい。当時、僕は49歳だったので、50回。僕は繰り返し水をかけた。そして、祈りを捧げる。何を祈ったかはもう覚えていないけど、きっと、「この地でピザ屋がやりたい」なんてことを祈ったに違いない。
 その後、彼はブッダの足跡など数カ所、シュエダゴンパゴダの中にある観光スポットを案内してくれた。そして最後に、「私たちミャンマー人はとても弱く貧しい。だから、お金を恵んでほしい」と懇願してきた。「あー、なるほど、そういう仕掛けだったんだ!」と彼のビジネスモデルにその時初めて気がついた。「まあ、いろいろ世話になったから、まあいいか?」と彼の請求通り、(マンマンには内緒で)10ドルを気持ちよく支払った。

ミャンマー人による経済管理下に置かれることに

 来た階段を降りるとマンマンが車で待っていた。「いやー、素晴らしい寺院だったね。よかったよ。ありがとう。じゃあ、市内を案内して」。「OK. Boss」。知らないうちに僕はボスに昇格していた(笑)
 ただ、車中、僕は気になっていることがあった、米ドルが財布にどれだけ残っているのか心配にだったのだ。この時、拝観料で8ドル、ガイドに10ドルを支払っていた。後部座席で財布を取り出し、お金を数えてみる。あれ、47ドルしかないぞ。マンマンに支払う80ドルに33ドルも足りない。僕はちょっと慌てて、「両替をしたいから銀行に連れて行って!日本円は両替できるかな?」とマンマンに頼む。すると、日本円は両替できない、タイ・バーツもだめだという。
  「じゃあ、クレジットカードでキャッシングするからATMへ」といったら、「なんだそれは?」。どうやら、クレジットカードも使えないようだ。後で知ったことだが、当時はアメリカによる経済制裁を受けていて、クレジットカードの類は一切使えなかったようだ。なのに、USドルが流通しているのは「なぜ?」。不思議な国だ。
 マンマンに手持ちのドルは47ドルしかないことを告げると、彼はちょっと渋い顔をしたものの、にっこり笑って「OK. No problem」。なんて、いい奴なんだ。こうして、僕はマンマンの厚意に甘えることにした。と同時に、経済的に彼の管理下に入ることとなった(笑)
 マンマンが次に連れて行ってくれたのはボジョー・アウンサン・マーケット。ルビーや翡翠など宝石や布、お菓子などお土産品を売っている巨大な市場だ。建物の天井は無駄なくらい高く、頭上には開放的で大きな空間があった。中央に広い通路はあるものの、わきに入ると通路は途端に狭く、無数の小さな店が所狭しと並んでいる。頭上はゆったりだけど、地上はぎゅうぎゅう詰め。なんかよくわからない構造だ。
 ルビーやサファイヤ、金などがショーケースにずらりと並んでいる中央の通路をマンマンの後をついて歩いていると、お尻の方から「Hello! Hello!」と声が聞こえてきた。振り返ると、その甲高い声の主は小さなミャンマー人の子供だった。顔にはタナカと呼ばれる樹木の幹を石で擦って水で溶いた日焼け止め&万能薬を塗った幼稚園か小学校低学年くらいの少年がにっこり笑って、話しかけてきた。手には白檀の香りがする木製の扇子を抱えている。どうやらこれを僕に売りたいらしい。
 彼はそれを目の前で開いて見せて、ちょっと扇いで香りを僕の顔に送ってくれた。この小さな少年はとても流暢な英語を話す。歳は10歳だと言っていた。マンマンに「彼に親はいるのか?」と尋ねた。「多分、いるよ」そう言って、マンマンはどんどん歩き始める。僕は仕方なく、その後ろ姿を追う。少年はずっと僕のお尻に張り付くようについて来る。「じゃあ、彼は学校に入ってるの?」「いや、多分、行っていない」。僕はマンマンに懇願して、2ドルで扇子を購入する許可を得た。
 その後、何度かヤンゴンを訪問し、このマーケットにも来たがその時は妙な関西弁のような日本語で「社長!社長!毎度」と声をかけて来る小煩い少年・少女たちに会った。しかし、この日あった少年は明らかに彼らとは違って、とても純真で気品があったと僕の記憶には刻まれている。(あらめて、いま写真を見ると、ちょっとワルだったかも?)

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 僕は空港でマンマンに会った時から彼らミャンマー人が履いているロンジーと呼ばれる民族衣装がずっと気になっていた。マーケットにはそれらしきものを売っているお店がたくさん会った。「これ買っていい?」と聞いてみたけど、マンマンの返事は「NO」。「そうだよね」流石にこれは早々に諦めた。市場には翡翠やタイガーアイのブレスレットなど、初めてミャンマーを訪れた日本人には魅力的な小物がたくさん売っていた。それも値段は3-5ドルでとても安い。もしクレジットカードが使えたら、しこたま大人買いしていたことだろう。マンマンの厳しい経済管理下にある僕にはそれもかなわない。「また、ここに来て買おう!」。この時、すでに僕の心の中ではミャンマー再訪問は決定事項だった。

初めて食べるミャンマー料理に感動

 マンマンはマーケットにある食堂のようなところに連れて行ってくれた。いよいよ待望のランチタイムだ。ミャンマー料理をいただこうじゃないか。食堂は多くの人ですごく賑わっていた。東南アジアっぽい熱気が食堂から感じられた。「ナンジートゥ・ダポエ」おそらくオーダーを厨房に伝えているであろうミャンマー語が食堂の中で飛び交っていた。
 メニューはすべてミャンマー語。値段を表しているであろう数字はどこにも見当たらない。後で知ったことだが、ミャンマーでは数字もアラビア数字ではなく、ミャンマー語で表記されている。まあ、この時はミャンマーチャットのレートなんて知らないから、読めても意味なかったことだが。
 マンマンが僕のためにオーダーしてくれたのは、シージェー・カウスエと呼ばれる日本の油そばのような麺料理だった。値段はおそらく1000ks(当時のレートで約100円)。もちろん、その時は料理名も値段もわからなかったけど(笑)。そして、これがめちゃくちゃ美味しい。お腹が空いていたこともあるだろうが、初めて口にするミャンマー料理を心底、堪能した。今でも、この時の味は忘れられない。
 ちなみに、それから数年後、この麺料理の名前が判明してから、また食べたくなって、一人でこの食堂に食べに行ったが、あんまり美味しくなかった(笑)。まあ、人の舌なんて、そんなものである。大事なことは、味もさることながら、「経験」。「Amazing Experiences」なのである。
 食事をしていると、ピンクの袈裟を着た女性(尼さんかな?)がテーブルにやってきた。すると、マンマンはすっとカバンからお札を取り出し、実にスマートに、女性にお金を渡す。女性は深くお辞儀をしてその場を立ち去る。「へぇー、経済管理官のマンマンもいいとこあるな」と感心した。

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ブリティッシュ・コロニアル様式の古い街並み

 ボジョー・アウンサン・マーケットの後はクルマでダウンタウンを見学。サクラタワーやトレーダーズホテル(現在はスーレーシャングリラホテル)界隈はかなりの都会に思えた。そして、イギリス統治下時代の面影が残る古い建物たち。ベトナムやカンボジアのフレンチ・コロニアル建築に対して、こちらはブリティッシュ・コロニアル建築。ちょっと重厚な感じらしい。
 かつては「東洋の真珠(この名称はアジアの様々な港にある。欧米人はよほど真珠が好きだったのだろう)」とも呼ばれ、イギリスの文豪サマーセット・モームなどが愛したヤンゴン(もちろん後から知った)。建物はかなりくたびれているが、それでも道ゆく人を見て、当時の活気が想い起こされる。とても賑やかで美しい街並みだ。
 クルマはスーレー・パゴダをぐるっと回って、川沿いの道へ、そしてパンソーダ・フェリーターミナルへ。ここは対岸のダラとヤンゴンを結ぶフェリーがたくさんの人を乗せて、頻繁に行き来している港だ。このフェリーと港は日本の寄付でできたものだと、マンマンが教えてくれた。フェリー乗り場の脇には何艘か船が停泊していて、ランニング姿の男たちが、働きアリみたいに重そうな白い大きな袋を担いで出てくる。僕はマンマンの許可を得て、桟橋からその船に乗り移ってみた。すると船には白い大きな袋がびっしりと積まれていた。「これは何?」と聞くと、お米だという。
 そうか!ラングーン米だ。この時、高校の地理の授業で習ったキーワードがパッと蘇ってきた。
 多くの日本人がそうであるように、当時の僕はミャンマーのことをほとんど知らなかった。知ってたのは「ビルマの竪琴(これも名前だけで、ストーリーは知らない)」そして「アウンサン・スーチー女史」。
 日本で見るミャンマーのニュースでは、いつもアウンサン・スーチー女史が軟禁されている家の前の映像が流れていた。舗装されていない道路、そして両脇に大きな木。僕にはすごく未開の地に思えた。これも後から知ったことだが、あの映像はインヤ湖の湖畔にある彼女の大邸宅の庭を道路から撮った映像だった。ミャンマーの町並みと思っていたのは彼女の家の広大なお庭だったのだ(笑)。
 そんなことも知らずに、ミャンマーは道路も舗装されていない未開の地と思ってヤンゴンに来た僕は、空港に着いてからずっとその都会ぶりに驚いていた。

今日より明日。明日より明後日はもっと明るい!

 そんな数少ない僕のミャンマー事前知識に高校時代、地理の授業で習った「ラングーン米」があった。ビルマ(高校時代はそう習った)は米の産地として有名で、各地で生産されたお米はヤンゴン川などの水路を使って、首都ラングーンに集積される。それがラングーン米だ。「そうか!僕は今ラングーンに来ているんだ!」。ラングーンというのはヤンゴンの前の呼び名。1989年に国名をビルマからミャンマーに改めた際に、ラングーンもヤンゴンに改称された。当時の名残で、ヤンゴン国際空港の略称は今でもラングーンの略称「RGN」になっている。
 僕は嬉しくなって、そんな日本人的トリビアをマンマンに話したけど、英語がうまく通じなかったのかキョトンとしている。
 「Do you like Yangon?」マンマンが聞いてきたので、僕は迷わず「Yes」と力強く答えた。
 陽射しはまだまだきついものの、川からの風がすごく気持ちいい。そして、港で働くミャンマー人の笑顔がたまらなく素敵だった。東日本大震災から1年が経過したものの、放射能問題が依然として暗い影を落としていた日本。リーマンショック後の不況で、みんながどうしようも無いと感じていたはずの「昨日(震災前)に帰りたい。帰してくれ!」と願っている後ろ向きの日本人に比べて、今は貧しいかもしれないけど、「今日より明日はきっと明るい。そして、明後日はもっと!」と前をしっかり見つめているそんなミャンマー人の澄んだ瞳に、僕はすっかり魅了された。「よし、決まった。僕はここでビジネスを始める」。心の中で強く決意した。

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 クルマに戻り、僕は夢中になって、自分のビジネスプランを話した。「ピザって食べたことあるか?僕はここでピザとクレープの店をやりたいんだ」「ピザなら知ってるぞ。ヤンゴンにも1軒だけピザを出す店がある。食べたことはないが、1枚10ドルという話だ」「じゃあ、僕の店はそれを2ドルで提供するよ」「そりゃすごい、みんな喜ぶ。それなら家族で食べに行ける」。車中は大いに盛り上がった。

糖尿男同士の契り

 マンマンはいささか興奮気味の僕に気を利かせてくれたのか、空港に向かう途中、ジャンクション・スクエアに立ち寄ってくれた。ここは1週間ほど前にオープンしたばかりだという。中に入ってびっくり。そこはさながら日本の地方都市に必ずあるちょっと立派なショッピング・モールだった。
 出来たばかりだから、建物はピカピカ。おのずと僕のテンションが上がる。「なんだ、これは。すごいじゃないか」。Tシャツやジーンズなどを販売するお店や家電製品のコーナーもある。そこにはPanasonicやSonyなど日本の製品も並んでいる。そして、スーパーマーケットもあった。今やヤンゴンNo.1のスーパーマーケット「City Mart」である。そこには新鮮で綺麗な野菜やお肉、魚がずらりと並んでいた。「これなら、すぐにでもピザ屋を始められるぞ」。僕の興奮は絶頂に達した。
 そして、店内のケーキ屋さんの試食コーナーで、お互いが糖尿男であることが判明。試食のケーキを頬張りながら、二人で大笑いした。そして、すっかり意気投合したのだ。
 時間通り、空港に戻り、僕は有り金全部(45ドル)をマンマンに支払う。バンコクに戻ったらfacebookで友達と申請すること、そして近いうちに再会することを約束して、ヤンゴンを後にした。わずか、3時間の市内見学であったが、僕には十分すぎる収穫があった。また必ずここに戻ってくる。僕は空港でミャンマービールを飲みながら(空港でもクレジットカードは使えなかったけど、タイバーツで支払いができた!)、固く誓った。
 ちなみに、マンマンとはこの後もヤンゴンで何度も会い、家族ぐるみで友達になった。いつもドライバーをしてくれ、いろんなところを案内してくれた。2016年のTokyo Tomato Cafeのオープンの時には、タクシードライバーの仕事をやめて、マネージャーとしてお店に参加してくれた。その後、2回、お店を辞め、1年ちょっと前から音信不通。今は一方的に彼から絶交されている(笑)。電話もfacebookもメッセンジャーも拒否された状態だ。でも、多分そのうち、ひょっこりお店に現れると僕は信じている。

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