もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第8話(番外編) 振り飛車が嫌いな男(その3)

 10年くらい前に流行った『もしドラ』を意識して書いた小説です。
 自分がよく行くスナックで行われていることを脚色して書きました。
 『もしドラ』と違って、テーマごとに違う話が展開する短編連作です。

※ 第1話から読みたい方は、もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第1話 仕事の仕方と学び方から読むことをおすすめします。
※ 第8話の最初から読みたい方は、もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第8話(番外編) 振り飛車が嫌いな男(その1)から読むことをおすすめします。

 それから約1週間後、俺が自宅にいた時、年配の女性の声で電話がかかってきた。
 半分泣いているような声でKの母親だと名乗り、「実はうちの子がね、昨夜交通事故にあって先ほど病院で息をひきとってしまいました。坂田君がうちの子と将棋部で一番仲が良かったと聞いていたので、真っ先に電話しました。どうかお葬式に出てもらえないでしょうか」
 坂田というのは俺の本名。俺は、無性に悲しくなりそして寂しくなった。
(どうしてこんなことが起こるんだ。あの男に限って、なんであの男に限って今死ななければならないんだ)
 生まれてから今までで、他人とあれだけ真剣に一つのことを共同で突き詰めたことはなかった。こんなことは、もしかしたらこれからもないかもしれない。どうして、そういう相手に限ってこういうことが起こるのだろうか?俺は、そういう運を持って生まれてきたのか?
 もちろんKは、あの若さでこの世をさらなければならなかったのだから俺よりももっと悲惨なのだが…。
 と、俺はその時思った。
 その時の気持ちは、小さい頃に母と一緒にどこかに出かけて、人ごみの中ではぐれて迷子になった時の気持ちに似ていたかもしれない。心に穴があいたような気持になり途方に暮れてしまった。
 俺は、Kと過ごした半年あまりでずいぶん将棋が強くなったと思う。
 やはりKが「振り飛車は邪道だ」という自分とは異なる信念を持っていたのがよかったのだろう。人間、考えの異なる者と対話を重ね切磋琢磨することが大切なのだというのは、知識としては知っていたが、実際に身を持って体験したのはこの時が初めてだった。その後も、これほどの体験はなかったような気がする。
 今、女の子たちと店のことについて話し合うことはあるが、立場が違うのでなかなか対等な立場で対話をすることは難しい。あまりに意見が異なると、こちらが興味をもってよく話し合おうとしても向こうが辞めていったりする。
 後で俺はドラッカーの著作『プロフェッショナルの条件』の中にこの時の体験の意義を説明しているフレーズを見つける。

 成果をあげるには、教科書のいうような意見の一致ではなく、意見の不一致を生み出さなければならない。

 俺は家で1週間くらい布団をかぶって寝ていたい気持ちだったけど、とりあえずお通夜には出席することにした。 
 喪服を持っていなかったので、銀行で5万円くらいお金をおろし紳士服の店で一番安い喪服を買い、下宿に戻って着替えてから通夜に出席した。

 お葬式の様子は異常に整然としていた。
 それは神のような力を持つ誰かによって支配されていたかのような不思議な光景だった。
 お坊さんの上げるお経は、声の調子が完全に一定で、まったくつかえたり間を置いたりすることがない。
 参加している者全員が真っ黒な喪服を着てじっと正座しているのは当然と言えば当然だが、小さな子どもがいてぐずったり泣き出したりすることもないし、正座しているのがつらくなって足腰をもぞもぞ動かす者もいない。涙を流す者いなければ眠そうな顔をしている者もいない。全員が同じように無表情に前方を見つめ、まったく同じタイミングで手を合わせたり頭を下げたりしている。
 普段から徹底的に訓練されている軍隊のような様子で、一糸乱れぬ行動とはこういうことを言うのだろうと思った。

 次の日の朝、自分のアパートで目をさました。
 起きてみると、シャツとパンツだけで寝ていたことに気がつく。
 時間は8時を回ったあたりで、今から急いで家を出れば大学の2限の授業に間に合うと思い、急いで洋服を着てから鞄の中のものを確認した。
 ふと、昨日買った喪服をどこに置いたかな、と思って探したがどこにもなかった。
 まあ、それなりに高いものなので無意識のうちにどこかに大事にしまい込んだのかな。と思い、授業に遅れると困るので今は探さないことにしてアパートを出た。
 2限の授業が終わり昼休みになると、昨日銀行からいくらおろしたか調べるために、銀行に行って通帳をATMで記帳した。その頃は、印鑑はさすがに家に置いてあったが、通帳は持ち歩いてできるだけまめに記帳した。無駄遣いをしたらすぐにわかるようにとそうしていた。
 記帳してみると昨日お金はおろしていない。そうすると、あの喪服はどうやって買ったのだろうか。不思議だ。アパートには1万円以上のお金は置かないことにしていたし、お金がなかったら買えない。
 朝喪服がなかったことから考えるともしかしたら最初から買っていないのか?でもそうするとお葬式の時は確かちゃんと喪服を着ていたように思うので、それも変だ。
 不思議に思ったが、そればかり考えていてもしょうがないので銀行を出て学校に戻り、部室の顔を出した。
 確かにいつもKがいるべき場所にKはいない。
(ああ、やはりKはこの世にはもういないんだな)
 改めて寂しさが込み上げてきた。
「昨日はKのお葬式に出たんだけど、異常に静かで整然としたお葬式だった」
 部室に来ていた部長に言うと、部長は怪訝な顔をした。
「昨日の飲み会で坂田は、つぶれてしまったんで俺が送っていったんだけど、覚えてないかな」
「えー、俺は昨日の夜はKのお葬式にいったんだけど」
「そもそもKって誰だ」
「いつもここで一緒に指してるやつだよ。こないだ部長に、団体戦に出したらいいんじゃないかって言ったでしょう」
「ああ、あの時は坂田の様子が変で、面倒だから適当に調子を合わせていたけど、そんな奴はいない。坂田はこの半年くらい、いつも目に見えない相手に話しかけながら一人で居飛車対振り飛車の戦型を研究していた。鬼気迫る様子なんで、坂田がいるとみんな部室に居づらくなって外に行ってしまうことなどもままあった」
(そうだったのか)
 俺は、初めて客観的事実を知ることができた。
 Kなんていう人間は初めからいなかったのだ。
 俺は再び言い知れようのない寂しさを感じた。
 どうりで銀行のお金が減っていなかったし、喪服が家になかったわけだ。
 あの葬式は俺の心の中だけで起きたことだったのである。だからあんな現実離れした整然とした葬式だったのだ。
 俺は『星の王子さま』という童話を思い出した。
 そして、自分にとって必要な人間を心の中に作り出してしまうのは、飛行機乗りのようなロマンあふれる仕事をしている人間でなくてもあることなのだな、と思った。 
 でも、あの童話の主人公の体験はせいぜい1日か2日くらいだけど、俺の場合は約半年にわたるのだから、俺の方がよっぽど重症だ。もっともそのおかげで将棋は強くなったのだが。
「今日の坂田は、約半年ぶりに普通の顔つきに戻った。俺は、坂田に時期部長になってもらいたかったんで、よかったと思う」
 確かに、現実に存在しない人間とつき合っているような人が次の部長では困るだろう。部長の言っていることは正しい。
 その後学生将棋の公式戦で指してみると確かに相当強くなっていた。
 春の個人戦では学生名人戦予選の関東大会で優勝し、全国大会でも優勝。また、団体戦でも大将で出て7連勝だった。
 でも、俺は客観的事実を知ってしまったせいでKが自分の心の中からいなくなったことが無性に寂しかった」

※ 次の話→もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第8話(番外編) 振り飛車が嫌いな男(その4)


 



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