ヒステリックな女教師の思い出⑧

※ 作者の自己紹介等:自己紹介とnoteの主な記事
※ 最初から読みたい方は、ヒステリックな女教師の思い出①から読むことをおすすめします。 
※ ひとつ前の話→ヒステリックな女教師の思い出⑦

 帰りの電車の中で本日のやりとりを思い出していた。
「田上さんはこの手紙を見てパニックを起こしそうになっている」軽部校長はそう言っていた。
 あの手紙は実に単純素朴な内容だった。あれを読んでパニックを起しそうになる人というのはどういう人なのだろうか。事実に直面すると人格が崩壊する人だろうか。本当に田上ティーチャーはそういう人間なのだろうか。それとも軽部元校長が誇張して言っていたのだろうか。もちろん、言葉や文章というのは人によって千差万別の受け取り方があり、誇張していたわけではなく本当にパニックを起こしそうになっているのかもしれないのだが。
〈それにしても、田上ティーチャーが憧れのお姉さんとは笑止の沙汰だなあ〉
 実際には、向こうの方が2つくらい年下だが、ぼくは塾や予備校の先生をしていた時代が長く、少し年をとってから学校の先生になったので、教員になったのは田上ティーチャーの方が5年くらい早い。だから軽部元校長先生は「お姉さん」と言っていたのだろうか。
 それはともかく、幸子(自分の奥さん)の方が10歳くらい年下でずっと可愛いし、どうして田上ティーチャーに憧れないといけないのだろうか。でも、「それではなんで田上ティーチャーにあんな変わった内容の年賀状や暑中見舞いを出すのか」と聞かれると、自分でも不思議だ。
〈なんでだろうか〉
 確か、さっきのやりとりの中で、軽部元校長が「そりゃーショックだったんだろう」と言ったとき、「ふっふっふ、効果があったぞ」という感じで嬉しかった。
 ということは復讐心のようなものなのだろうか。でも、それはいかにも見方が単純と言うか一面的だ。「全然でたらめ」とは言い切れないが、心の働きのごく一部分しか説明していないように思う。
 一方、「ぼくがああいう手紙を出して教えてあげれば、自分は嫌がられるにしても、田上ティーチャーにとってはそれなりに考える材料ができる。それによって、多少人間関係がうまくいくようになったりすることが、もしかしたらあるかもしれない。また、あの方の周りにいる先生方もあの先生に接しやすくなって助かるかもしれない」という動機が全然ないとも言い切れない。
 これはこれでありえない見方でもないという感じもするが、冷静に考えてみると、自分がそんなに他人のためを考えてわざわざ面倒なハガキを書いたりするような立派な人のようにも思えない。
 とは言うものの「人類の大多数の人々は、人のために役に立てば嬉しいという気持ちがある」という説も有力らしいし、なんとなく「意外とそんな気持ちもあったのかなあ」という感じもする。もちろん理論的あるいは科学的な根拠等があるわけでもないが、長い目で見ればああいった内容の年賀状を出すことがお互いのために多少は役に立つのではないだろうか。
 それと、「笑止の沙汰」だと思ったけど、それは「憧れのお姉さん」とまで言ってしまっては「笑止の沙汰」かもしれないが、確かに全然なんの関心もない人にわざわざそれなりに内容が書いてある年賀状を出すわけがないから、何らかの関心はある。でも、どういうふうに関心があるのか、と聞かれると、結局いろいろと考えてみるが、結論としては「わからない」。
 「自分の考えを発表したいのでなんとなく書いて出した」というのが一番近いだろうか。「なんとなく…」じゃあんまり説明していないのだが他に言いようがない。
〈自分の心なんて、自分でわかるもんじゃないなあ〉
 もっとも、それでは他人の心がわかるかと言えばそんなことはなく、正しくは「人間の心なんてわからない」と言うべきか。わからないというのは不気味なことだが、無理にわかろうとしていいことがあるわけでもないのだろう。

※ 次の話→ヒステリックな女教師の思い出⑨

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