もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第4話 賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない(その2)

 10年くらい前に流行った『もしドラ』を意識して書いた小説です。
 自分がよく行くスナックで行われていることを脚色して書きました。
 『もしドラ』と違って、テーマごとに違う話が展開する短編連作です。

※ 第1話から読みたい方は、もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第1話 仕事の仕方と学び方から読むことをおすすめします。
※ ひとつ前の話→もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第4話 賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない

 第4話 賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない(その2)
 次の日マスターは、いつもの喫茶店に入り席に座ると、例によって赤いナップザックから『プロフェッショナルの条件』を取り出して読み始めた。
 現在の課題に関係ありそうな、「Part4 1章 意思決定の秘訣」という章を読むことにした。
 読み始めると、まず、この文言が目についた。
 
 個々の問題ではなく、根本的なことについて考えなければならない。

 この部分にマーカーが引いてあった。4~5年前に通して読んだ時に引いたのかもしれない。
スナック経営で根本的なことというのはなんだろうか。簡単に言えば、なんでスナックにお客さんが来るのか?スナックはお客さんに何を提供するのか?ということだと思うのだが、これはけっこう考え出すと難しいことかもしれない。
 その数行後にこんなことが書いてある。

 賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない。

 この部分にもマーカーが引いてある。
ハードボイルド小説みたいでなかなかよさそうなフレーズだが、これについては解説らしい解説が出ていなくて、たぶん前に読んだ時にも具体的にどういうことが言いたいのかわからなかったかもしれない。もう一回この本を相当注意深く読み直したり、ドラッガーの書いた他の本を読んだりしないと本当に理解することはできないところだろうか。
 ドラッカーの書いたものは概ね明快で言っていることはわかりやすいが、ところどころ読み手に立ち止まって考えることを求めるような記述がある。この部分もその一つなのだろうか?
 マスターは、この部分で5分くらい考え込んだが、ずっと考えていても仕方がないと思い、とりあえず「知的に考えすぎないで常識的に判断しよう」というくらいの意味にとっておくことにして、先を読むことにした。

 基本をよく理解して決定すべきものと、個々の事情に基づいて決定すべきものとを峻別しなければならない。

 これは今回の問題と関係がありそうだ。
 個々の事情というのは、エリコがお客さん相手に話しているようなイラン人との恋愛問題だが、基本とはなんだろうか?根本とだいたい同じようなことだろうか?
 この場合、「女の子には、時給を払っているのだからちゃんと仕事をしてもらわなければならない」という、あたりまえのことが基本なのだろうか。

 第一に「基本的な問題か、例外的な問題か」「何度も起こることか、個別に対処すべきことか」を問わなければならない」基本的な問題は、原則や手順を通じて解決しなければならない。

 相手がイラン人ということだけ見れば珍しいが、女の子が恋愛に悩んで仕事に身がはいらなくなるのは、例外的なことではないし、何度も起こることである。
 
 実際には、真に例外的な問題というのはきわめて少ない。

 そうかもしれない。
 やはり、ここは原則通り一旦辞めてもらった方がいいのだろうか?でも、原則に関しては別の見方もできそうだ。「女の子には、ちゃんと仕事をしてもらわなければならない」というのは確かにそうだが、「ちゃんと働く」という言葉だってとらえ方は一つではない。
 マスターは本を閉じ、天井を見上げてため息をついた。

 その日の10時ごろ―。
お客さんが10人くらい。カウンターに6人とボックス席に4人の団体客で、まあまあの入りだ。
 エリコは沢田さんと話している。
「私がすごい可愛い子だったら、イケメンでお金持ちのなんの問題もない日本人とつき合ってると思うし、もしひどいブスだったら、私が今つき合ってるようなイケメンの男からは相手にされない。私みたいな、中途半端なのが一番悩むのでござる」
「それは、なんか単純化しすぎている考え方だなあ。あんまり客観的に見て正しいこととは思えないけど、そう考えたくなる気持ちはわかるような気がする」
「その言い方は上から目線でござるよ」
「そうかもしれないけど、本当にそう思うんだから仕方がないじゃないか。でも、イラン人なんかは、日本人と結婚すれば、ビザが切れても本国に送り返されないで済むという考えで日本の女性とつき合っている輩もいるみたいだから気をつけた方がいいよ」
「拙者の彼はそんな人ではないのでござる」
「エリコちゃんの彼のことは知らないけど、一応そういう場合もあるっていう話。それと、もし本当に真面目に考えているんだったら、なんで彼が日本に来たのか、もし調べることができたら調べた方がいい。日本に来ているイラン人の成人男子だと、だいたい故郷に女房・子どもがいて、家族のために家を建てたり商売の元手をつくったりするために出稼ぎに来ている人が多いからね」
 その時、カラオケのイントロが流れた。
 エリコは、歌の声で話がしづらくなるのが嫌なのか、少し不機嫌になった。
歌っているのはボックス席にいる団体客の一人。その団体の中では「先輩」「先輩」と呼ばれていて、髪が薄めで白髪まじり、40代後半か50代前半くらいに見える体格のいいお客さんだ。課長か係長か、正式な役職はわからないが、とにかくその団体の中では偉い人らしい。
最近この店では、こういった職場のメンバーで飲みに来る団体のお客さんが減っているので、貴重な存在である。
歌っているのは、昭和風の演歌。森昌子の『先生』と言う曲。

 幼い私が胸こがああしー
 慕いつづうーけえたー、人の名は
 先生、先生、それはせんんんーせえいいー

 ここでその団体のメンバーは口ぐちに叫び始める。
「せんせええええーーー。ぼくう、ぼくう、物理いつも赤点でしたあああああ」
「せんせいいいいいいーーー。ぼくは、授業中にさわいでばかりいました。ごめんなさい」
「せんせい、ぼくは、先生が授業中に言っていた、さむい…、さむいオヤジギャグが大好きでしたあああああああ。大好きだったのですよーーーー」
歌が歌われている間にエリコは少しずつ不機嫌そうなのが直っていき、歌い終わったら拍手をした。
今のエリコでもスイッチが切り替わるときはあるんだな、とマスターは少しほっとした。
エリコが帰るときにマスターは、次の日クリスマス・カードの発送準備をする仕事があり、手伝って欲しいので「7時ごろ店に来られるか」と聞いたら、「来る」という返事だった。

この日の反省会のメンバーも、参加したのはマスター、リナ、ルカの3人で、例によってシルバー酒場でビールを飲んだり焼き鳥を食べたりしながら話した。
「昨日も言ったように、辞めさせるのは簡単だけど、なるべくいろいろな見方を比べてみて考えた方がいいと思うんだ。リナは昨日しゃべらなかったけど、どう思う」
「昨日、フッ君はボトルも入れてくたし、いつもよりはずいぶん長い時間いて1万4千円払った。そんなことはかなり珍しい。今日の沢田さんもいつもよりも長くいた。エリコのイラン人との恋愛を相談する一風変わったトークは、かなりの臨場感にあふれ、リアリティがありドラマチックで、なかなかお客さんの興味を引きつけている。フッ君や沢田さんだけでなく、周りの人も興味を持って聞いていたようだった。私の立場で言うのも変だけど、細かい実務については、それももちろん大事だけど少し目をつぶって、お客さんがある意味楽しんでいるところにも注目した方がいいと思いますよ。私たちだって、他の女の子たちだって、エリコのような精神状態になる可能性はあるんだし。ちょっと変だからっていちいちクビにしていると、どんどん仕事に慣れていない女の子を雇う必要がでてくる」
「なんだか労働組合の委員長みたいな意見だな」
「マスターはわりあい話をすると聞いてくれるんで、少し変わった意見も思いつきます」「別に変わった意見ということはなくて、これはこれで必要な見方だ。確かに女の子は1日に3人から5人くらい入っているわけだから、みんなが同じ仕事をしないでも、トークの係・気配りの係・盛り上げ担当とかある程度棲み分けした方がいいのかな。ルカはどう思う?」
「そういう考えもあるけど、どんなお客さんが来るかわからないし、いつも同じメンバーで仕事をしているわけでもないし、ある程度はみんな同じようなことができた方がいいような気がします。それに、今日は沢田さんがわりと常識的なことを言っていたけど、中には面白がって変にけしかけるようなことを言う人もいるから、少し休ませてあげた方がいいんじゃないでしょうか?」
「でも、エリコにとっては、年上の男どもの考えをいろいろと聞いていろいろな考え方を学ぶチャンスのような気もするし、変なことを言う人もいるけど、わりあい親身になってアドバイスする人もいるから、言われたことをちゃんと自分で考えれば悪いことにはならないような気がする。親とか教師以外の年上の男の人と話をする機会も、今のアヤメちゃんには必要じゃないかしら?」
(確かにドラッガーが言っている通りだな)
 マスターは「決定が、正しいものと間違っているものからの選択であることは稀である」というドラッガーの言葉を思い出した。どっちも正しいとしか言いようがないが、そろそろどっちかに決めなくてはいけない。
「まあ、どっちもどっちのような感じで明らかに正しいやり方はないのかもしれないけど、確かにお客さんが喜んでいる面もあるので、今くらいの状態だったら働いてもらうことにしよう。これ以上変な感じになったらクビかもしれないけど」
 ルカとリナは、これには特に反対しなかった。

※ 次の話→もしスナックのマスターがドラッカーの『プロフェッショナルの条件』を読んだら 第4話 賢くあろうとせず、健全であろうとしなければならない(その3)

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