心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだす その35

 元奨励会員の筒美が、将棋指しになれなかった自分の人生を振り返り思い出すことを書いています。
※ 最初から読みたい方は、心の中に住み着いた「将棋君」が暴れだすから読むことをおすすめします。 
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 櫛田君との再戦
 大学4年の春には、団体戦で慶応大学が関東リーグで優勝した。伝統的に関東学生棋界では、東大と早稲田が2強という感じで、慶応が優勝することは珍しかったので、部員もかなり喜んだしOBから褒められたりもした。
 春のリーグ戦の場合、それぞれの地区で優勝した東日本の大学が、東北大学で行われる東日本大会に出場することになっていた。
 泊まるところは、東北大学で用意してくれた有朋寮と言う名称の寮で、1泊600円で泊まることができた。古ぼけた木造2階建ての建物で、たぶん入寮者が帰郷していたのか、学生将棋の関係者だけしかいなかったように思う。ゴキブリだのダニだのが出るという噂もあったが、そんなことはなかった。と言っても、そんなに清潔でもなく全体的に年期が入っている印象の建物だったが、小奇麗でないところが、大学の寮らしくてよかった。蚊が多くてそこら中で蚊取り線香を焚いていたが、1泊600円だったのであまり文句を言う人はいなかった。 
 大広間に東日本の各地区の代表となった将棋部の部員たちが泊まり、いろいろな地方の方言が飛び交っていた。東日本の人ばかりなので関西弁や九州弁などは聞こえなかったが、それでもそれなりにいろいろな方言はあるものだと感心した。
 夜になって寮に戻って来て各大学の部員がやることはだいたい同じで、将棋と麻雀と飲酒であった。消灯時間が決まっているわけではなく、なんとなく寝たくなった時に自分たちのいる場所の電気だけ消すというふうだったが、別にトラブルは起きなかった。
 なかなか味のある宿泊所だったが、現在では廃寮になってしまい、寮の後は完全な更地になっているそうである。

 その頃、『週刊将棋』の企画で、関東リーグで優勝した慶応大学と奨励会の対抗戦が行われた。
7人対7人の対抗戦で、自分が主将で奨励会初段の櫛田君と対戦し、7将の部員が奨励会6級兼女流棋士の中井広恵さんと対戦し、2将から6将までは、それぞれ慶応の部員と1級から5級までの奨励会との対戦だった。
 結果は主将と7将は慶應側が勝ち、それ以外は奨励会員が勝って、2勝5敗で自分たちが敗れた。
 でも、みんな悔しがる様子もなく、「こんなものなのかな」と思っているようだった。
 悔しがっていたのは櫛田君で、感想戦では「詰んじゃったよ。まさか詰むとは思わなかった」「ここでこう指すとどうしますか」などとゴチャゴチャ言っていた。
 後で、櫛田君が奨励会に入会した後の近況をどこかの雑誌かなにかに書いていたのが、「アマチュア時代は楽に勝っていた相手に負けたので、嫌になってしまった」という趣旨の文だった。
 奨励会員がアマチュアと対戦する機会は少ないので、あれはたぶん自分に負けたことを書いていたのだと思う。
 確かに日暮里研究会では、櫛田君と指すと分が悪かったのだが、この対抗戦とは違うところが二つあった。
 一つは持ち時間で、対抗戦の方が持ち時間が長く、ある程度しっかり考えて指すことができた。
 もう一つは戦型で、日暮里研究会では、櫛田君の四間飛車に対して、自分は居飛車急戦か5筋位取りを採用していて、居飛車の方が玉が薄い将棋だったが、この時は居飛車側が左美濃で振り飛車側も穴熊ではなく美濃囲いだったので、玉の薄さは同じくらいだった。
 あまりそういった違いに着目しないで、「前は勝っていた相手に負けた。変だなあ」みたいなことだけ書くというのは、あんまり感心しなかった。考察する力、分析する力が弱いと思い、「あれでプロとしてやっていかれるのかな」と他人事ながら不安になった。
 その後櫛田君は、3段リーグを突破してプロ棋士になった。が、持ち時間の長い将棋ではあまり勝てず、順位戦及び竜王戦では一度も上のクラスに上がらないで、フリークラス宣言の後40代後半で引退した。
 あの時の見方が、半分くらいは当たっていたのかもしれない。

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